武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

4話 胡蝶の夢(6)

 今日も今日とて、『美術教本』をめくる。紙は少しずつ傷みはじめ、もはや内容を丸暗記してしまうほどに読み返しもしたが、それでもなお謎は解けない。
 総一郎は、嘆息して顔を上げた。深夜三時ほどである。目頭を押さえてぱちぱちと開閉する。ナイに騙されたのかと考える事もあったが、彼女は総一郎が無駄な苦労をして喜ぶ性質ではない。その為、信じることにした。
「どうしたの? 総一郎君。疲れた?」
 ちなみに件のナイは、総一郎の膝の上に座って小説を読んでいる。
 背の差もあって、客観的には仲の良い兄妹のように見えるのだろう。しかしその実態は違う。総一郎に、彼女を退かす術がなかったのだ。
 一度、本気で馴れ馴れしい態度の彼女を部屋から排除しようとしたことがあった。が、結局自分から離す事さえまともに叶わなかった。彼女の体重移動を巧み過ぎる。ついには倒れた総一郎に馬乗りになって、キスの嵐を降らせたほどだった。
 最近の総一郎は、はっきり言って諦め気味だ。
「疲れた。糸口が何処にも見つからないんだけど、これ」
 事実彼も、ナイのあまりの馴れ馴れしさに釣られてしまっている節があった。
「まぁまぁ、若い内の苦労は買ってでもしろっていうじゃない」
「言うけどさぁ……。見合うものが今の所ないんだよ。本当に何かあるの? 文中に出て来る美術家とかの名前、片っ端から調べたよ、僕」
「ヒントは出さないよ。せいぜい頑張ってねー」
 いたずらっ子を思わせる笑い方で、ナイは肩をゆすった。それが何処か白羽を思わせる。――しかし、白羽自体の事は、詳しく思い出せなかった。ただ、総一郎の中で象徴として残っている。
 総一郎は、もう寝ることにした。「寝るから退いて」と言った時だけは、素直に従ってくれる。ベッドで横になると、ナイは少年の顔を覗きこみながら優しげに微笑んだ。そこにどんな意図があるのかは、分からない。
「おやすみなさい、総一郎君。良い夢を見るよう、おまじないを掛けてあげる」
「悪夢を見て怖い思いをする年でもないよ」
「悪夢なんか見せないよ! まったく、失礼しちゃう」
 指先で、彼女はトンと総一郎の額を突いた。それと共に、急激な眠気が彼を襲った。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、おやすみ……」
 まどろみに、総一郎は溶け出した。完全に眠ってしまう前に、一度だけ心に文字を並べていく。
『ナイ。君が何をたくらんでいようと、僕は思い通りにはならないからな』
 そうする事で、総一郎は安心して、今日も一日を終えることが出来る。


 総一郎が、ファーガスたちのパーティに加入することが決まった。
 ネルが率先し、それをほぼ全員が快く受け入れてくれたという形だった。シルヴェスターだけは少々ぎこちなかったが、それは仕方のない事だ。むしろ、彼女だって騎士候補生の平均からしたら、飛び抜けて総一郎を嫌っていない部類に入る。
 戸惑いもあった。しかし、奇跡の様だとも思っていた。だからこそ有難かった。そして同様に、申し訳なかった。
 涙を流すほどの感動を、本当なら感じてよい場面だった。それをあまりに冷ややかに眺める自分が、総一郎の真ん中に立っていた。
 ――彼らは、一体何が目的なのだろう。その様に懐疑的になってしまう自分の存在が、堪らなく嫌だった。
 人と会話する。その裏で、何事かを疑う。そんな自分に吐き気を覚えるようになったのは、最近の事だ。唯一、ファーガスだけはそうならない。他にはナイもならなかったが、彼女の場合は間違いなく裏があるので罪悪感がそもそも湧かないのだった。
 そんなある日の終末。授業を終えて、総一郎はあてもなく彷徨っていた。
 一人きりで山には行けない。暗殺されるほど弱いつもりはなかったが、それでも一人きりであの場所に居るのは気分が悪かった。
 かといって、他に行く場所もないのだ。図書館に行く気分でもなく、仕方がないと、部屋に戻って静かにしているつもりだった。当然ナイの茶々があるだろうが、我慢しよう。
 その時、背後から親しげに肩を叩く人物がいた。振り向く、ファーガスが立っている。
「よう、ソウイチロウ。今忙しいか?」
「まさか。もしかしてそれ嫌味?」
「お前も中々毒を吐くなぁ。ハワードから悪影響受けてんじゃねぇの?」
「いやいや、そんな事はないって。ところで用は何だよクソ野郎」
「滅茶苦茶影響受けてんじゃねぇか!」
 お互い、くつくつと笑った。「それで」と笑みを湛えながら、総一郎は尋ねる。
「用事は何? 暇だから大抵の事は付き合えるよ」
「ん? ああ、今日じゃなくて明日なんだけどさ。大丈夫かなと思って」
「言わせんなよ、恥ずかしい」
「……何だろう。こういうネタをぶっこんでくる相手と話すのって、やっぱいいよなぁ」
「この歳にしてジェネレーションギャップを味わっている、と」
「そりゃお前、三百年も前だぜ? 三百年前って言ったらなんだ。何が有名だったっけ?」
「……ジブリ、とか」
「いの一番にそれが出てくるっていうのが、なんとも総一郎らしいというか……」
「後は水戸黄門」
「ん? あれ? とてつもなく迷いない口調で言われたけどあんまり共感できないぞ?」
 明日、一緒に遊びに行かないか? と言う誘いだった。総一郎には、断る理由がない。強いて言うなら同じように街に出た貴族に見つかりたくないという事があったが、それについては他人の認識をずらす効果のある『フェイス・チェンジ』と言う聖神法があると教えられた。 使い道は学年末試験程度と限定されているスキルだが、味方にはそのまま、敵対勢力には違う顔に見えるという効果はなかなかに有難いものだった。
 そんな訳で、翌日、あまり人目につかないよう、午前四時を回ったところで学園を出た。そのまま街を抜け、電車に乗る。予定時刻より少し遅れているのはお国柄だ。
「それで、何処に行くんだっけ?」
「ん? ……やべぇどうしよう。決めてなかった」
「なんと」
「まぁ適当にやろうぜ。ソウイチロウはどこか行きたいところあるか? 俺はゲーセン行きたい。そしてゲーセンが三百年たった今でも存在していることに感動したい」
「僕は本屋だね」
「……」
「……」
「ショッピングモール」
「それだ!」
 行先決定である。
 お高く留まった貴族などこんな場所には来ず、きっと敷地内の町中で満足するだろうと当たりを付けて、二人はそれほど離れていない街のショッピングモールに向かった。 とはいえ、こんな早い時間にやっている訳もない。とすると予定を少々変更しようという話になった。総一郎は安価で入れる歴史的建造物の類へ赴くことを提案し、ファーガスはそれに快諾した。
 豪奢な建物。調べた通り早い時間から開館しており、二人で入った。イギリスの古い建造物は、日本とは正反対に位置しているように思う。煌びやかなステンドガラス。厳かな石造りの柱、壁。ファーガスはたどたどしい解説をしてくれ、それで詳細を思い出した総一郎が歴史の人物をどこか小馬鹿にした裏話などを聞かせるなど、中学生にしては知的で有意義な時間となった。
 そこで、何故かネルと遭遇した。
 ファーガスと彼の間に戦慄が走ったのは、総一郎にも分かった。
「……何でお前らがここに居る」
「こっちのセリフだ馬鹿野郎」
 腐っても貴族の学園に通う者同士。史跡の中で大声を出す愚かな真似はしなかった。
「というか、は? マジに何でこんな所に居るんだよ。ブシガイトは分からなくもないが、グリンダー。お前はこういう場所に来ると頭が痛くなるんじゃなかったのか?」
「勝手に人をお馬鹿キャラに仕立て上げるな。っつーか、それを言うならお前の方が意外だっての。何史跡見に来てんだよ。ゲーセンで十人抜きとかして調子に乗った途端ぼろぼろにのされて、いらいらしながら戦線離脱したところで遭遇とかの方がまだ納得できたってんだよ」
「ゲーセン? あー、アーケードセンターの事か。ハッ。あんな下賤のたまり場になんざ行けるかよ」
「そーかい。そういや、お前はこれでも大貴族様だったな! ケッ、気分の悪い。行こうぜ、ソウイチロウ」
「……」
「……ソウイチロウ? どうした」
 微妙に感じ入るところがあって、総一郎はその場にとどまりネルに視線を送っていた。すると彼は気付いてから数秒無視をし、しかし耐え切れなくなって「何だよ……」と嫌そうな目を向けてくる。
「本当に、ゲーセン嫌い?」
「だから、あんな下賤のたまり場」
「ネルはさ、どっちかと言うとアウトローに憧れてるんだよね?」
「……」
「立場忘れてたね?」
 総一郎がにやりとすると、彼は舌を打つ。
「つーかよ、オレは一度もアーケードセンターに行ったことがないんだが、どうなんだ、ありゃあ。暇つぶしになるか?」
「暇は潰せると思うよ。金も飛んでいくけど」
「そのまま人生潰す奴もいるけどな……」
「なんか後ろでグリンダーが恐ろしいこと言ってるんだが」
「んー、そうだね。試しにやってみる? 時間的にはそろそろ開くと思うし」
「え? ソウイチロウ、それマジで言ってんのか?」
「ネルの場合は、嵌まったら嵌まったで勝手に熱中するだろうし、そうじゃなきゃ目を離した隙に居なくなってるよ。それにそれを差し引いても、そこまで毛嫌いしなくてもいいんじゃない?」
「……むぅ」
 総一郎に説得され、ファーガスは不満顔で頷いた。基本は素直なのである。
「仕方ないな、そこまでどうしても行ってみたい……ッていうんなら、付き合ってやらなくもない」
「そうだな。そこまで付いて来てほしい……ッていうなら、付き合ってやらないこともねぇ」
「君たち実は仲良しだろ」
 ノリが実によく似ていた。
 そんな訳で、二人旅から三人旅へ。行先はゲーセンもといアーケードセンターである。何でもイギリスではこう言うのだとか。「腕が鳴るぜ」と着いたらすぐに屈伸運動なんかを始めたファーガスである。纏う雰囲気は完全に匠のそれだ。
 しかし実際のところ、「生まれ変わってから初めてのゲーセンだ! 懐かしすぎて涙が出てきそうだぜ」との言葉をすでに本人から聞いている為、何とも微笑ましく思ってしまう総一郎だった。ついでに言うなら彼の横で、勘違いを起こしたのか一緒になって準備体操を始めるネルが微笑ましいを通り越して可愛い。教えてあげない方がいいだろう。うん。
「……? ブシガイト、どうした? お前は準備体操要らないのか?」
「ああ、すでに済ませてしまったからね」
「そうか」
「……はっ?」
 戸惑った表情で総一郎とネルの間で視線を右往左往させるファーガス。にやりと笑うと赤面して、準備体操を止めて片手で顔を覆い俯いてしまった。愛嬌のある少年達である。
「ん、おいグリンダー。準備体操はこんなもんでいいのか」
「止めてくれ。話しかけるな」
「はぁ? 何だ、そりゃ。ケンカ売ってんのか?」
「まぁまぁ、ファーガスも久しぶりに来れて嬉しいんだよ。ほら、感極まるっていうか」
「……そんな面白い場所なのか、ここは……」
 周囲に視線をやりながら戦慄するネルである。それに、彼の背後で肩を震わせる総一郎。今回は直接からかうよりも、遠巻きに眺めていた方が面白いかもしれない。
 訪れたアーケードセンターは、端から端まで三十メートルはある程度の大きさで、それを内包するショッピングセンターといえば大きさも想像しやすかろう。大規模なこの建物の中には当然本屋も存在していた。あとで頃合いを見て行こうと考える。品ぞろえもよさそうだし、欲しい本がいくつか見つかるかもしれない。
 とはいえそれは、今は置いておく。とりあえず三人はぶらぶらと彷徨って、何を一番にプレイするかを吟味していた。総一郎はそうしているといつの間にかはぐれていて、「あれ」と呟く。
「……迷子になっちゃった」
 我ながら暢気なものだ。
 そうして歩いていると、更に迷ってしまい、最終的にはゲーセンから出て店並ぶ道を歩いていた。振り返るも、ゲーセンの姿は消えている。
「……あっれぇ?」
 おかしいな、と首を傾げる。自分はこんなにも方向音痴だっただろうか。
 しかしなんとなく元来た道を戻る気にもなれなくて、そのまま真っ直ぐに歩いていた。すると本屋を見つけ、お、と思い入店。中で散策していると、ちょうど目当てのものがあって読み始めてしまった。一ページ読み終わり、捲るときに自分の行動を振り返って客観視した。ハッと我に返る。
「……冷静になって考えると、僕はアレか? 頭がお花畑の人か?」
 流石におかしいと気づく。自分がそれなりに人と違うことは認めるが、少なくともこっち方面ではない。ぱっぱらぱーではないのだ。ないはず。
「というか、僕は何で一人なのにこんなに晴れやかな気分で居られるんだ?」
 いつもと違う。まるで、騎士学園に入学する以前のような心持。
 その時唐突に、頭が、痛んだ。数秒。頭痛が取れた時、思考は霧散していた。ぼんやりと立っている。その時、あるものを見た。
「……え? 何であの二人が居るんだ?」
 ベルと、シルヴェスター。二人が、笑顔で本棚を指さしながら歩いている。
「あ、やぁ! ソウ! どうしたの? こんな所に一人でぼーっとして」
「え、……そういえば二人が居ない……」
「二人って誰ですか?」
 シルヴェスターの言葉に、総一郎は「ああ」と返す。
「ファーガスとネル」
『あの二人が一緒にお出かけ!?』
 ハモっていた。
「偶然時間つぶしてたら遭遇してね。来てほしい道に餌を置いて、さりげなく退路を塞いで、あれやこれやで三人ゲーセン」
「と言う割には二人が居ないね」
「さらっとブシガイト君が空恐ろしいことを言っていたのはスルーですかベル……」
 呆れたように肩を落としながらベルに呟くシルヴェスター。総一郎は少し顎に手を当てて考え、思いついたことを告げてみる。
「来る?」
「行く!」
「私の意見は黙殺ですか?」
「……嫌?」
「い、いえ、嫌って程ではないですが……」
 数の暴力が功を奏して、いぇーい、と総一郎とベルはハイタッチ。何となくだが、内面的に自分と彼女は似ている気がしないでもない。
 ひとまず欲しかった本を購入して、道案内をすることになった。おや、自分は方向音痴ではなかったか? と二人を先導しつつ不安になったが、特に問題なく目的地にたどり着く。違和感もなく、その中に入っていった。
「うわ、結構五月蝿いですね……」
「入ったことないの?」
「うぇっ? は、はい……」
 戸惑った視線をよこすシルヴェスターに、総一郎は首を傾げる。そんな少年に少女は目を瞬かせた。何か不可解なことがあるのだろう。総一郎の与り知るところではない――
 ――我に返る。思考の鈍化に気付く。シルヴェスターが戸惑った理由など、自分の様子の変化以外にあるものか。周囲を見渡す。何者かが、自分に干渉してきている。誰が犯人かなど、考えるまでもない。頭痛。思考が押し戻される。競り合って、負けた。
「あー! ソウイチロウ! お前今まで何やってたんだよ!」
「え? ……迷子ってた」
「ったくよお……。お前がいてくれたら俺はこんなに散財することもなく……」
「……」
 落ち込んだ様子のファーガスの背後から、両手から溢れるほどのアイスを抱えたネルが現れた。紫色のシャーベットアイスを、無表情にぺろぺろと舐めている。
「……何となく想像つくけど、何があったの?」
「ゲームの勝敗で賭けてたんだよ……。初めはさ、やっぱり要領知ってる俺の方が強かったんだけど、途中でこいつプロみたいな気持ち悪い動きを始めやがって……」
 恨みがましくファーガスが言うと、一歩進み出たネルが総一郎の肩に手を置いた。しみじみと納得しながら、この様に言う。
「ブシガイト。お前の言うとおり、アーケードセンターってのはなかなか楽しいもんだな。反省したぜ。まさか――グリンダーをボコボコにのして涙目にさせるのが、こんなに楽しいとは思わなかった」
「黙れくそ野郎! 畜生ッ! こうなったらせめてこのアイス何個か強奪してってやる!」
「あっ、テメェ止めろ! 取るな! 全部オレのだ、ああッ!」
「ほら、ソウイチロウ! ベルにローラも! 急いで食うんだ! この馬鹿に取り返される前に!」
「お、ありがとう」
「ありがとうございます」
「あっ、ああ、ありがとう! ……ファーガスからのプレゼント……!」
 とりあえずベルの分かりやすさには神がかり的なものがあると思う。
 争う二人を眺めながら、黙々とアイスをむさぼる総一郎たち。その隣に並ぶ、小さな影。
「……幸せそうだねっ、総一郎君」
「……。ナイ。どうしたの? こんなとこ、……」
 唇を噛む。我に、返りかける。それを、彼女は封じた。近寄ってきて、人差し指で額を弾く。ピシッ、と。総一郎は何度か瞬きして、ナイを見つめる。
「今は、楽しみなよ。何も考えず。記憶は、宝物だよ? 大切に作って、守っていかなきゃ」
「……つまり、どういう事?」
「美しい物を知ることは、尊い事であるとともに残酷なんだ。見ている間はただ心打たれて、崩れる時はあまりにもむごい。言ってみれば、悲劇の代償の前払いという所かな。人間としてのボクと、無謀の神としてのボク。どちらにも矛盾の無い行為だよ」
「よく、分からないな」
「うん、それでいいんだ。家に帰ったら、まほうは解けるから」
 あまりに穏やかで朗らかな微笑みに、総一郎はただ、「そっか」とだけ相槌を打った。ファーガスに呼ばれ、駆けつける。
「これ、やらないか? レーシングゲーム」
「いいね。じゃあ、負けた方はネルから余ったアイスを強奪しに行くってことで」
「マジかよ……。アイツ残りが三つくらいになったからこっちに背を向けて丸まって食ってんだけど」
「クマっぽいね」
 そんな風にして、総一郎は一日を過ごした。穏やかで、和やかで、楽しい一日。ファーガスとネルは喧嘩ともつかない喧嘩をし、それを総一郎が仲裁に入ったりかき回したり、ベルは相変わらずファーガスにメロメロ(死語)で、シルヴェスターも釣られてくすくすと笑っている。
 奇跡のような、一日だった。
 帰り。帰宅して、ナイと二人きりになった。総一郎はベッドに腰掛けて、視線を伏せている。横にナイは座り、「どうしたの?」と問いかけてくる。
「……まほうは、解けたんだね」
 一言、告げる。彼女は視線を総一郎から外して、「うん」と言った。
「楽しかったでしょ? あの、胡蝶の夢は」
 しばし、黙っていた。そのまま、何も言わずに居たかった。けれど、ナイは待っていた。だから、「ああ」と言った。
「いい夢だったよ。本当に」
 ナイはそれを聞き、ニタリと嗤う。


 また、間違えて席を選んでしまった。
 日常に回帰した時、変化はこれと言ってあげられなかった。ただ、今朝にナイが、「今日は車輪っぽいね」とよく分からないことを言ったのみだ。――そんな事より、と横目で盗み見る。
 これで、三度目のミスだった。総一郎は図書館などで、決まった場所に座ろうとは考えない。いつもバラバラで、だから稀に、『座らない方がいい席』に座ってしまう事がある。そしてそのミスは、隣に少女が座る事で発覚するのだ。
「……ぅ。……スー、ハー。……!」
 シルヴェスターは、覚悟を決めるべく深呼吸をしたようだった。そして怯えた様子で、しかしそれを必死に押し殺しながら総一郎の隣に着席する。
 前回は、良かった。ちょうど切り上げる寸前だったから、すぐに立ち去ることが出来た。けれど災難な事に、今は少々掴めそうな、調子の良いタイミングだった。彼女を避けるために部屋に戻ったら、掴める物も掴めないような気がしてならない。
 したがって、総一郎は横の空元気を振るう少女の事を、無視することに決めた。非常に心苦しい決断だが、この機を逃す手は無いのだ。
 今回参考にしたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチを筆頭とする歴史上の画家の、絵画の中に隠された秘密について触れる書籍である。『美術教本』にも多く取り上げられていたから、糸口になるかもしれないと心を躍らせていた。
 手がかりに、二、三時間ほど没頭して読みふけった。そして『美術教本』を顧みて、硬直した。『モナ・リザ』の左手が男性だからと言って、一体何になるのだ。他のページもめくって照らし合わせてみたが、何かが読み取れるという事もない。
 頭を抱えて、深くため息を吐き出した。そろそろ諦めてもいいだろうかと、今夜にでもナイに打診してみよう。一か月も研究して何も出なかったのならば、縁が無かったのだ。もうしばらく『美術教本』の表紙も見たくない。
 そんな風にしていると、訝しむような表情で、シルヴェスターがこちらを見ていることに気付いた。今までだとほぼ誰に対しても気を張っていたから大人びた小気味の良い言い返しが出来たが、今は脱力感が勝って素が出てしまっていた。弱り切った無表情だったろう。
「どうしたの……?」
「えっ、ああ、いえ。……前から思っていたのですが、ずっと同じ本を読んでいますよね。しかも、もう一冊を代わる代わる用意して。……一体何をしているのですか?」
 いつも気まずそうな、怯えた様子の彼女にこれだけ饒舌にしゃべらせる程、総一郎は疲れていたらしい。ぼんやりとした口調で、答えた。
「研究してるんだよ。この本には秘密が隠されてるって聞いたから。でも、全然わかった物じゃないんだ。……ふぅ、ちょっと癇癪起こしそう」
「起こさないでください。怖いので」
「だって何にも分からないんだよぉ~……!」
 力のない声である。突っ伏したままでいると、「ちょっと見せてください」と頼まれた。素直に渡す。
「……日本語ですか。まぁ、読めないです」
「あげるよ。それで日本語勉強しなよ」
「いえ、結構です。……しかし、何と言うか、一ページに七回も同じ単語が出て来るんですね。著者は文章が下手なのでしょうか」
 返します、と言われ、突っ伏したまま受け取った。ため息交じりに、『美術教本』の一ページ目を眺める。疲れからくる眠気に半眼のまま、総一郎は何故か七文字飛ばしで文章を読み始めた。指を辿りながら、間延びした日本語を漏らす。
『おー、めー、でー、とー、うー、貴ー。……は?』
 いきなりムクリと上体を起こした総一郎に、シルヴェスターは驚いたように身じろぎをした。構う間もなく、もう一度、七文字飛ばしで読み上げる。
『お、め、で、と、う、……貴殿は今、数秘術の門をたたいている』
 息を呑んだ。間を空けず、次のページをめくった。七文字飛ばしで文字を辿る。だが、そこに意味のある文章は現れなかった。

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