武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

4話 胡蝶の夢(3)

 深夜近い早朝に素振りを終わらせた総一郎は、部屋に戻ってからしばらくの間仮眠を取った。自然に目覚めれば、朝食の時間である。気負いはない。彼らは、今更怖がる相手ではなかった。
 しかし、一つだけ迷う事がある。木刀を持っていくべきか否か。怖がらせても仕方がないと思い、傘立ての中に入れた。微かな違和感を抱いたが、気にする程ではない。
 扉を開ける。仰々しい絨毯が敷かれた廊下が、目の前に、非常に長く伸びている。
 抵抗感。
 足を、前に出した。押し返すような、力が在った。腹に力を込めて歩き出す。大したことではない。
 歩き続け、寮を出た。何か、腹の燻るような感覚がある。力を入れても消えない。だが、我慢の限界でもなかった。まだ大丈夫。言い聞かせながら、深呼吸をして歩き続ける。
「見ろよ、アレ……。もしかして、あいつがあの……」
 たった一人の囁き声。総一郎は、無表情が歪むのを知った。囁きは、少しずつ大きくなっていく。近づいてくる足音が在った。逃げる様に食堂へ向かう。
 喧騒が、総一郎を襲った。
 人。その、話声。一歩、進む。奇妙なまでに、その音が食堂中を木霊した。
 その一瞬を皮切りに、静寂へ変わった。自分、ただ一人に向かう視線の矢。
 途端、総一郎は耐えきれなくなった。
 駆けだした。無我夢中だった。その顔は、昨日の様子からは考えられない程に表情豊かだった。向かうは、自室だ。走りながら声を堪えた。きっと、五分もかからなかったろう。だが、永遠にも等しい時間に感じられた。赤絨毯が、あれほどまでに長いと思わなかった。
 部屋に入り、何物をも拒むように、総一郎は固く鍵を閉めた。扉にもたれてずり落ちる。俯いて、息を整えた。
 木刀を手に取る。縋りつく。
「駄目だ。駄目だ。駄目だ」
 震えていた。これほどまでとは、思わなかった。
 結局その日、総一郎は朝食を取らなかった。
 授業時間近くになってから、やっと落ち着きを取り戻して部屋を出た。右手には木刀が在り、それを包帯で巻き付けている。ギル達の虐待に聖神法が間に合わなかったとき、総一郎はよく使った。保険医の先生に頼ると、傷が深くなったのだ。
 歩く。怖いとは思わなかった。寮を出て、囁き声が聞こえた。何とも思わない。ただ、わずらわしいと思っただけだ。
「おい」
 声がかかり、振り向いた。体格のいい生徒である。年上だろう。大きな杖を携えている。
「お前が、ブシガイトか」
「そうだ」
「ブレナン先生を殺して、山に逃げて、多くの騎士候補生に怪我を負わせた」
「ああ」
「……何故ここに居られる? 裁判に勝ったからって、いい気になっているのか!? ふざけるな! お前が正しいなんて思っている奴は、この学園には一人だっていやしない! それが分かったら」
「いい加減五月蝿いな。喧嘩を売るなら、もう少し人を集めてこい。君一人だと、勝負にもならない」
「っ……!」
 その生徒は、たじろいて後退した。敵意の視線が集まったが、気にならなかった。何が違う、と総一郎は思う。山に籠っているのと、今。何か一つでも、異なっている事があるか?
 また、歩き始めた。初めの授業は、恐らく聖神法の座学だったろう。教室に入ると、明らかにざわついた。見知っている顔が、少しだけ。ギル率いる三人。他は、顔さえ見覚えが無い。
「どうも」
 答えようとする相手は居なかった。むしろ、教室中がしんと静まった。総一郎は最後尾の中央に座ると、まばらに居た同列の席の生徒がこぞって前に移動した。本を読みだす。静かで、集中しやすい環境だ。
 先生が来た。恰幅がいい。ヘイ先生とか言っただろうか。総一郎を見つけて、憎らしげにこちらを見つめている。
「……何ですか」
「……では、授業を始める」
 彼は、総一郎からあからさまに目を逸らした。少年は肩を竦めて教科書に目を落とす。その時だった。
「ヘイ先生! ブシガイトは木剣を持ってきています! いいんですか!?」
 目を向ける。ギルの隣に座る、ヒューゴが言ったらしい。
 聞いて、ヘイは総一郎にぎらついた目を向けた。厳しく口元を引き締めているが、眼は嫌らしく笑っている。
「良い訳が無いだろうが! ブシガイト、何故そのようなものを持ってきた!」
「持ってきてはいけませんか?」
「当然だ! さぁ、それをよこしなさい!」
 こちらに近づきながら、手を差し出してくるヘイに、総一郎は強い口調で「何故!」と言葉を叩き付けた。
 驚いたように歩みを止める。総一郎は、改めてじっくりと語り聞かせるような口調で問う。
「何故、貴方は持ってきてはいけないと思ったのですか? 校則には木刀を持ってきてはいけないなんて書いてありませんよ」
「そんな事は常識だ。ブシガイト、お前が言っているのは屁理屈と言う物だ」
「いいえ、先生。では、授業に木刀を持ってきてはならないという事柄が、何故常識に含まれるのか考えてみてください」
「……危ないからに、決まっているだろう」
「そうです。危ないから、木刀などを持ってきてはいけない。――しかし先生。ここは騎士学園で、僕はその生徒だ。そして、僕を含むスコットランドクラスの全員が授業に杖を持参している」
「それが、どうした」
「スコットランドクラスの生徒が杖を持つ事と、木刀を持つ事。一体どちらが危険でしょう」
 意識して浮かべた笑みと共に吐かれた言葉に、ヘイは顔を真っ赤にした。腰に掛ける杖に手が伸びる。その前に、制止した。
「先に言っておきますが、この会話は録音しています。音源はワイルドウッド先生の元に行っていますよ」
 ぴた、と彼は動きを止めた。ぶるぶると震えているが、杖を掴む事は無い。その代り、教室の外を指差した。怒鳴りつける口調で言う。
「木剣の所持は認める。だが、私たち教師が授業に置いて大きな権限を任されているという事は変わらない! 教師に対する極度の反抗的態度は処罰に値する! 授業を受けても単位はやらん! 即刻ここを立ち去れ!」
 そんな事は、痛くも痒くもなかった。学園の聖神法に関わる単位は、座学も実技も統合される。魔獣を多く討伐すれば、座学の単位など必要なかった。――そして、だからこそ言った。
「嫌です。何故なら、ヘイ先生の授業は非常に分かりやすいからです。それはもう、『単位が貰えなくても受けたいと思うほどに』」
 さっ、とヘイの顔から血の気が引いた。少年は、ただ柔らかな微笑を湛えるのみである。数歩彼は後退し、そのまま教壇に戻った。
「……で、では授業を始める」
 声は震えていた。総一郎は、笑いを堪えるのに大変だった。授業が中盤に差し掛かるまで、そんな風でいた。だが、唐突に思った。
 ――虚しい。
 授業が終わり、次の授業も、その次の授業も何気なくこなして、総一郎は夕方の修練場でしばらく素振りをしてから部屋に戻った。堂々としていれば、文句は言われない。
 修練場に来るのはイングランドとアイルランドだけ。総一郎を一番憎んでいるのはアイルランドクラスの騎士候補生だが、一番怖がっているのも彼等だった。イングランドは、見て見ぬふりをしている。
 部屋に戻り、シャワーを浴びた。湯を延々と頭に流しながら、総一郎は棒立ちのまま考えた。
 腐っていくような、感覚だった。
 病院で、偶に嫌悪の感情を向けられることが在った。脆弱な、そちらに視線を向けると消えてしまう程度のものだ。だが、そこから始まっていたのかもしれない。山の中の四面楚歌よりも、酷い気分にさせられるのだ。
 不自由。自分を、見失っている。自分とは何だろうと思う。前世に、何度か考えた。そして自分なりの答えを出したはずだった。それが、あやふやになっている。前世の何倍も難しい事ばかり起きたから、分からなくなっているのかもしれない。
 修羅、という言葉が思い浮かぶ。それすらも曖昧になりかけている。同じく、反目する意味を持つ人間も。修羅ではない、と思う。だが、人間でもない。半端者であると言ってしまえば、決着はつく。しかし、父の求める境界線を歩いているという自覚は持てない。
 顔から滴り落ちていくシャワーの水滴を見つめていたその時、唐突に温もりが彼を包んだ。
 背後から回される手。白く少女を思わせる細腕だった。背後に立つ人物は、きっと総一郎よりも身長が低いのだろう。柔肌。安らぎが総一郎の中で満ちかけた。そして、息を呑んだ。
 目を剥いて振り向いた。総一郎の息は、恐怖に荒くなっていた。身構えるが、緊張のあまり体が縮こまっているような感じがある。辛うじて、睨み付けた。
「何の真似だ、ナイ」
「虐められて傷心の総一郎君を慰めてあげようかと思って」
 風呂場の、狭い空間。たった一歩先に、ナイは一糸纏わぬ姿で立っていた。その容姿には過去と変わった様子が無い。
 かつては総一郎よりも高かった身長はいつしかそのままでつむじが見えるほどに小さく見え、その下には細い首、しなやかな鎖骨、微かな胸のふくらみと、薄っすら窺える肋骨が在った。幼き肢体。本来なら、情欲を誘うものではないはずの物。
 だが、妖艶な魔力を纏っていた。男を惑わすようなそれ。両手で秘所を隠しながら悪戯っぽく笑うのが、酷く艶めかしく――恐ろしい。
「怯えないでよ、総一郎君。ボクは、君の味方だよ?」
「何が味方だ。君が邪神でいる事は、とうの昔に知っている」
 拒絶よりも強い恐怖が総一郎を鷲掴みにしている。一歩間違えれば、底なし沼に呑まれていた。
「それでも、ボクが誰よりも何よりも君を気に入っている事に変わりは無いよ。――可哀想に。雪山なんていう過酷な環境で、何日も孤独と戦っていた」
 泣き顔の様に顔の表情を歪ませながら、ナイは総一郎に抱きついてきた。睡蓮の花の匂いは、変わらない。柔らかい、とただ思った。温かい、とも。ナイでなければ、抱きしめ返せた。その胸にしがみ付いて、感情を吐露することが出来た。
 だが、出来ない。心を奥底に押し込め、歪な鎧で身を守る。首の根元辺りを押して、深い声で言った。
「……ナイ。今の僕に、『そういうの』は効かない」
「そっか……。じゃあ、仕方がないね」
 本題に入ろっか。言って、寂しげに彼女は微笑する。一度、手を叩いた。気付けば総一郎は服を着てベッドに座っていて、ナイも同じくゆったりとした清楚な服を着て彼の目の前に立っていた。
「あのまま話すのもいいけど、少し真面目な話になるんだ」
「……君にとって、暇つぶしでない事なんかあるのか?」
「無いよ。でも全てが暇つぶしなら、その中に優劣が付くのは当然さ。君たち人間と全く同じだろう? とりわけ、命の危険が遠い人種とね」
 指を立てて、ナイは表情と声の調子を変えたようだった。束の間現れたしんみりとした雰囲気は、夢の様に霧散する。うつつに姿を露わにするのは、嘲笑に歪められる口元だ。
「総一郎君。君はお父さんの部屋から取ってきた『美術教本』を、読んだかい?」
 目の前からナイは消え、総一郎は声の方向を向いた。いつの間にかベランダは開け放たれ、そこで彼女は薄紅に染まる空を背景にこちらを見つめている。瞬間移動、と言えば分かりやすいだろうか。狐につままれたような気分――いや、この場合、邪神に弄ばれているというべきか。
「……読んだけど、それがどうかしたか」
「あまり、良い返答ではないね、それは」
 ベランダからも消えていて、気付けば彼女は机の上に座っていた。そこに置いてある本を手慰みにぺらぺらと捲りながら、上目遣いに、彼女はさらに問うてくる。
「じゃあ、ドラゴンがこの国に攻め入っているというのは?」
「初耳だ。……そうか、その所為で山狩りの時に騎士候補生しかいなかったのか……」
「やっぱり、君は聡いね。疑問を常に頭の中で溜めておくことが出来る。そして繋がるワードが見つかり次第、真実を見出すんだ。安楽椅子探偵に向いているんじゃないかな?」
 耳元に吐息が掛かる。瞬時に背後に移動してきた彼女を嫌がって、総一郎は立ち上がろうとした。しかし、ナイは総一郎よりも数枚上手だ。
 体勢を崩させ、総一郎の唇を奪う。もがくが、何も出来なかった。ナイの腕力は外見相応である。だから、技量が圧倒的すぎるのだろう。
 否応にも感じてしまう、彼女の体温。唇の柔らかさ。躰が幼いからなのだろうか。酷く、熱い。短い髪が、総一郎の顔にかかる。甘い匂いが鼓動を早くした。やっと彼女が離れた時に、その顔を見て総一郎は目を逸らした。上気した頬が、少年の目に焼き付いている。
「これで、二回目だね。一回目にしたとき、君はまだボクと同じくらいの背丈だったっていうのに、今じゃあ兄と妹みたいだ。お兄ちゃん、って呼んでもいいかな?」
「早く、退いてくれ。何が目的だ」
「あはは。まだまだ可愛いね。お兄ちゃんと呼ぶには、ちょっとばかし不十分かな? しばらくは『総一郎君』のままにしてあげましょう。……あは」
 総一郎に馬乗りになって、再び、彼女は顔を近づけてくる。だが、先ほどのじゃれ合うような雰囲気はそこになかった。肌の粟立つ感覚。蛙を睨みつける蛇の様な表情で、見つめてくる。
「――君は数か月後五匹のドラゴンと対峙し、その末に凄惨な敗北を味わうだろう。だが、それでも君はドラゴンに立ち向かわねばならない。何故なら、ドラゴンは君の大切な何かを滅ぼしてしまうからだ」
「……口から出まかせは止めろ。君に僕の未来が読めないのは知っている」
「ああ、読めないよ? けれど、それで諦めたら全知全能の神の名が廃ってしまう。ラプラスの悪魔もまた、無貌の神の化身の一つだからね。ボクにだって近しいことは出来るのさ。……けれど、所詮は計算だよ。ミスがあれば、別の未来があるかも知れない。ドラゴンが来ない未来もあるだろうし、君がドラゴンに打ち勝つ未来だってあるだろう。――どうだい? 少しくらい、やる気になったかな」
「馬鹿馬鹿しい。そんな話に、乗る気はない」
「ま、そこは総一郎君の勝手さ。ボクだって少なからず動くから、計算は少しずつ着々と崩れるだろうしね」
「……」
「んふふー。睨み顔も可愛いなぁ。じゃあね、総一郎君。また近いうちに、会う事になると思う。用事もないしね。暇になったら遊びに行くよ。じゃあ、また」
 空気に溶ける様に、彼女は消えていく。総一郎は無言で起きあがり、開け放たれたベランダへの大窓を閉めた。空を見る。夕暮れは、もう大分藍色に染まりつつある。
 しかし、清涼な景色とは裏腹に、総一郎の頭の中は混濁していた。強烈な少女の顔が頭から離れない。
「……僕は弱くなった。昔よりも、ずっと」
 ぽつりと呟いた。多くの事に、耐えきれなくなった。自分は、本当の意味で『総一郎』になったのだと思った。前世の事は、既にあやふやだ。自我も自己も、残ってはいない。時計を見て、もうこんな時間なのかと驚いた。
 春が来た。冬よりも、着々と日が長くなっている。

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