武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

2話 貴族の園(4)

 酷い朝だった。
 いつも通り胃がきりきりと痛むのは、もう仕方がない。今の内に吐いてしまえば、何とか朝食を無駄にせず済む。その為起きてから込み上げる吐き気を堪えず、便器へ向かって大きく口を開いた。出るのは胃液だけ。イガイガする喉を洗面台でうがいして、そのまま顔を洗う。
「……昨日は、眠れたと思ったのにな」
 鏡を見ながら呟いた。目の隈は、ここ数日間取れないままだった。最初の数日は努力して隠そうと思ったが、もうしない。無駄だと悟ったのだ。
 洗面台から出て、ベッドに腰掛けてぼんやりとしていた。木刀へと視線が向かうが、何をするというともなく再び宙へ彷徨いだしてしまう。
 この時間が、最近では一番楽な時間かもしれない。
 辛い事を、考えずに居てもいいからだ。
 だが、それもいずれは終わる。終われば、もう泣き言は許されない。どんなに辛かろうと、投げ出してはならないのだ。あの場所へ行かなければならない理由そのものが、もはや破綻しているとはいえ。
 朝食へ、向かう。
 身なりをどんなに整えても、総一郎の周囲に座る人間はいなかったのだ。だが不運な事に、それは数日前で終わってしまった。今は横柄な態度で、その場所を占める人物がいる。総一郎の両側を、奴らは挟み撃ちの様に座る。
「やぁ、イチ。おはよう」
「あ、……おはよう」
「どうしたんだよ、イチ! 元気が無いな、もっと元気出せよ」
「……うん」
「元気を出せっつってんだろうが! 声が小さいんだよ、この屑が!」
「はっ、はい! ごめんなさい!」
「やれば出来んじゃねぇかよ。怠けてんじゃねぇぞ、コラ!」
 ヒューゴは言って、総一郎の座る椅子を思い切り蹴り上げた。振動。痛みがある訳ではない。しかし、怯えが彼の心を支配する。
 それを、「まぁまぁ」と彼の反対に座るギルが諌めた。彼は総一郎とホリスに挟まれて座っている。その笑みは初対面の時から変わった様子が無い。その底しれなさが、総一郎には恐ろしかった。
「イチも怯えているじゃないか。ちゃんと謝ったのだし、許してあげよう。行動にはちゃんと対価を与えねばならない。そうだろう、ヒューゴ?」
「……まぁ、ギルが言うんならいいけどさ」
 しぶしぶと、ヒューゴは引き下がった。ほっと一息を吐く総一郎。そこで、ホリスがじっとこちらを見つめていることに気が付いた。
「な、何……?」
「――いいや、何でもない。……どうしよう。迷うな」
 ぶつぶつと、彼は総一郎から視線を外した。だが、それでもなお彼の興味が、自身から逸れていない事を総一郎は知っている。腕には、それによる傷跡がいくつも残っている。
 状況は、以前よりも致命的なまでに落ち込んだ。その原因は、総一郎のパーティ脱退の嘆願に端を発している。


 パーティを抜けたいと申し出たところ、三人が三人とも難色を示した。その頃にはギル以外二人も総一郎の利用価値に気が付いていたのだ。その薄汚い考えが、少年には透けて見えた。
「どうして、そんなことを言うんだい? イチ。君が雑用しかせず、それが詰まらないから言っているのだろうけど、そのはある意味では危険から逃れられているという事なんだよ?」
「そうだぞ。お前、このパーティから離脱してどうするんだ。まさか一からやり直すつもりか? 攻撃用の聖神法も所得していない癖に。ギルからタブレットの使い方教えてもらわなくていいのかよ」
 ヒューゴの言葉に、ポイントをたったの少しもくれてはいないだろうが、と言う言葉を飲み込む。完全なタダ働き。しかし、波風を起こせば自分の身が危ない。
 というのも、総一郎には明確な反抗を起こすつもりがなかったからだ。総一郎は、亜人の混血。この国において圧倒的なマイノリティである。魔法を使えば無理やり逃げることくらい叶うかもしれないが、その先に待つのは犯罪者の道だ。それでは、不服だった。元より総一郎は、ブレアの家に白羽を招くことを夢見て入学したのだ。罪を犯せば、あの家に戻れなくなる。
 今はまだ、直ちに生命の危機にはつながらない。強硬手段に出なくたって、言葉を選べば何とかなる。総一郎は、前向きだった。まだ、余裕があったのだ。魔法は、使えば終わりの最後の手段とすら考えていた。
「このままの環境で怠け続けるのは、良くないと思ったんだ。僕は、みんなの負担になっているっていうのに行動を起こさない自分が許せなくてね。僕が君たちに追い付くような実力を得られたら、その時またお願いしたいんだ」
 綺麗ごとからの詭弁。大人の論法に、ヒューゴ、ホリスの二人はたじろいだ。総一郎は、確かな手ごたえを得る。しかし二人に対して、ギルは飄々としていた。予想通りではあった。彼は、一筋縄ではいかない相手だ。生意気なガキである。
「随分と立派な心がけだね、イチ。素晴らしい事だ。しかし、君は無鉄砲が過ぎる。もう少し僕たちのパーティに居て、ポイントが貯まってからにした方がいいんじゃないかい? 君は直接とどめを刺したわけではないから、多分あまりポイントが貯まっていないと思うんだよ」
 嘘をつけ、と思う。そんな制度はないし、自分にポイントが貯まっていないのは君が度々パーティから自分を外しているせいだろう、と。
「無鉄砲なわけじゃないさ。きちんと計画は立ててある。大丈夫だから」
「……何を理由に大丈夫なんて寝ぼけたことを言っているのか、ぼくには分からないね。だんだん苛々してきたよ。もう決めた。君はパーティから外さない。これは決定事項だ。さぁ、早くみんなで山に行こう」
 少年らしく会話を無理やり打ち切って、踵を返すギル。やはり少年なのだと思って、総一郎はなおも食い下がる。このままなら、行けると思った。
「待ってくれよ。君が僕の事を考えてくれるのはありがたい。でも、これじゃあだめだろう?」
 すると、ギルは上半身だけ振り返って総一郎の事を見つめた。その様はどちらかと言うと観察しているようで、不気味だ。
 そのまま、ギルはしっかりと総一郎に向き直り、そろそろと近寄ってきた。眼前にまで迫られて、一歩下がる。
「イチ。君、自分のポイントがゼロのままだってことに気付いたね?」
 思わず、体が竦んだ。何故気取られたのか分からなかった。そのことには、さわりすら触れようとしなかったのに。
 ギルはおもむろに自前の杖を取り出して、総一郎の喉元に突き付けた。そこにある表情は、今まで一度も見た事のないような、嫌らしい笑みだ。
「なら、話は早い。ぼくも君と友達ごっこをするのは疲れたからね。そろそろ頃合いと思っていたんだよ。――イチ。命が惜しいなら、逆らわないことだ。一人二人ならどうこうなっても、この学園には全国から集まってきた騎士候補生が居る、マンモス校なんだからね」
 ――その全てが君の敵になるかもしれないことを、忘れないように。言い捨てて、ギルは踵を返して山へと向かっていく。ヒューゴ、ホリスは総一郎の肩に手を置いて、「じゃあ、これからもよろしくな、イチ」「これからは生意気な口をきいたらボコボコにしてやるから、覚悟してろよ」と嘲笑い、ギルへと駆けよっていった。
 その日を境にして、総一郎の扱いは少しずつ、家畜や奴隷へのそれと近づいて行った。
 些細なことで殴られ、時には理由なく蹴り飛ばされた。時折体が反応して受け止めてしまう事もあったが、その時彼らは「亜人が暴れ出したぞーッ!」と大声で叫ぶのだ。すると周囲に居る騎士候補生たちが全員杖をこちらに向けてきて、教官さえ息せき切って駆け寄ってくる始末である。
 瞬間、いっそのこと反抗してやろうかという考えも浮かぶが、毎回フォーブス家の記憶がよぎって、すぐに萎んでしまっていた。必死に誤解を解くべく訴えると、最後には「じゃあ殴るから反抗するな」と言われ、十発以上殴られる。それをきっかけに、総一郎は反抗の虚しさを知った。
 魔法の事を、偶に考える。しかし使った瞬間、警察などの国家権力がひっくるめて敵になる。その事実は、総一郎に躊躇わせるのに十分だった。少年から余裕がなくなり、日々に対する絶望が増える度、僅かに輝くその希望が、何にも代えがたいものとなった。
 絶望の中に輝く、一筋の希望。そのために、総一郎は行動を起こせない。日々に甘んじて、苦しいけれどまだ大丈夫、などと思ってしまう。


 謝罪と言う物は、人の心を折る力強い手段である。
 謝ってしまったからには、後々それを覆すのは自分にとってマイナスにしかなり得ず、つまり人は本能に近い所でそれを避けようとする。だから不満があっても、卑屈にへらへらと笑うしかなくなる。
 今の総一郎はまさにそのような状況で、更にはギルによる謝り癖と言う物を付けられた節があった。
「罰ゲーム~」
 足と後ろ手を縛り上げられて、総一郎は地面に倒れていた。すでに数回殴られた後なので、その口端には薄っすらと血がこびりついている。
 総一郎の目の前に立ち、にやにやと嫌らしく笑いながら見下ろすのはホリスである。彼はブラックジョークが上手く、それを機にギルと仲良くなった。
「じゃあどうしようか。爪でも剥がすか? それとも裸にして広場に放置しておくか。どっちがいいかな、ギル」
「さぁ」
 ギルが肩を竦めたのを見て、「じゃあ、どっちもやるか」と巨躯を揺すってホリスは笑う。すでに彼は身長が百八十有り、まだまだ伸びている最中なのだと言っていた。唇は厚く、コンプレックスであるらしい。総一郎の視線が偶然そこに向かった時、異常なまでに激昂した彼は何度も総一郎を蹴りぬいた。
 アイルランドクラスの倉庫からくすねてきたという小刀を手に、ホリスはゆっくりと近づいてきた。場所はスコットランドクラスの階段の影だった。人目につかない為、良く連れてこられる。
「嫌だ、その小刀で、何をするつもりだよ!」
「何だよ、人の話を聞かないな。爪を剥がして裸にするんだって言っただろ」
「嫌だっ、ごめん! 謝るから! 謝るから助けて!」
「お断わりだ。お前のせいで昼飯がまずくなったんだから、このくらいしないと収まらないな」
 まずくなった、というのは四人で昼食を取っていた際、いち早く完食した彼が呟いたことだ。曰く、総一郎の様な半魔と共に食事したから、味がまずくなったのだと。
 しかし、そのような兆候は無かったのである。彼はいつも通り大量の食事を前に、いつも通りの速さで完食した。それを指摘した総一郎はヒューゴに「じゃあホリスが嘘を吐いてるっていうのかよ!」と恫喝され、思わず謝ってしまった。
 そのヒューゴは、大して興味もなさそうに階段下の片隅で聖神法の教科書を読んでいた。彼はギルに続き騎士としての評価が高く、その更に下にホリス、最下層に総一郎が居る。
 助けを求める様に、上目遣いにギルを見た。こちらを観察するような視線で見ていた彼は、総一郎の視線に気付いて「ああ」と声を漏らす。そして、安心させるようににこやかな笑顔を浮かべて、こう言うのだ。
「大丈夫だよ、イチ。君は既に謝ったから、ホリスが満足したら解放してあげる」
「あ……」
「じゃあまずは手の方の爪を剥がすからなー」
「ぁぐっ……!」
 小刀が、総一郎の指先を抉った。爪の根元。深く突き刺さった小刀は傷口をさらに広げ、ほじくる様に爪を押し上げていく。
「くそ、上手くいかないな」
 声と共に小刀にかかる力が増す。痛みのあまり絶叫を上げると、「うるせぇ! 勉強してんだから邪魔すんじゃねぇよ!」とヒューゴが総一郎に近づき、鳩尾を蹴りぬいた。悶絶し咳き込む総一郎に、「一枚目~」と嬉しそうな声が届く。
 再びギルを見て、涙に歪む瞳を向けて「助けて」と懇願する。
「まだ、ホリスは満足していないよ?」
 目を、剥いた。地獄は終わらないのだと悟った。視界が歪むような感覚。朦朧とする頭に、だいたい等間隔に訪れる激痛が否応なく総一郎を覚醒させる。
「おし、これで手は終わりだな」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 ホリスの一仕事終えたような声に、総一郎は繰り返していた。七枚目を剥がされ終えたころ、総一郎の口にできる言葉はそれだけになった。痛みに叫ぶたびヒューゴが剥がし終えた爪を踏みに来るので、小さな声でこう呟くしかなくなっていたのだ。意識はもう遠い。
「釘一本足りないためにって言うけど、この場合は三本だな」
 ホリスが、総一郎の爪をジャラジャラと弄びながら言った。爪と釘のスペルが同じことからのブラックジョークだった。それにヒューゴは鼻で笑い、ギルは嘲笑うような半眼で総一郎を眺めている。
 だが、新たな足音が近づくことによって、場の空気が変わった。
 ぴり、張りつめたのが総一郎にも分かった。ここには魔獣実験室という部屋への扉がある。文字通り魔獣の生態を研究する部屋なのだが、研究部の上級生は大抵もっと立地や施設が充実した違う方へ行くので、そう人が来る場所ではなかったのだ。だが、決して来ない訳ではないらしい。その事を、総一郎は今知った。
「助けて!」
「お前!」
 ヒューゴの蹴りを、身を硬くして防御した。あまり痛くはない。爪が剥がされた時の痛みに比べれば、全然だった。もっと大きな声で繰り返す。近づく足音が早まるのを聞いて、ホリスとヒューゴが焦り出した。
 階下まで下りてきたのは、見も知らぬ教師である。「一体何をやっている!」と総一郎へ目を向けて、彼は息を呑んだ。総一郎に駆け寄り、「大丈夫か、君!」と呼びかける。男性教諭は三人を強く睨み付けるが、何故かギルだけは冷静なのが見て取れた。
「これはどういう事だ……。下手したら刑事罰だぞ!」
「いや、その、これは……」
「先生、一体何を言っているんですか?」
 しどろもどろになるヒューゴを押しのけて、ギルが教師の前に立った。彼はギルに圧されたかのように一歩後ずさり「な、何がだ」と瞠目している。
 そこに、ギルは笑みさえ湛えて言う。
「彼は半魔ですよ? 我ら人間を、今までずっと苦しめてきた亜人と、そんな存在に罪深くも惑わされた愚物との混血。それが、亜人や魔獣の天敵である我らが騎士学園になんの手違いか入学した。……殺さないだけ、慈悲があるとは思いませんか?」
 総一郎は、唾を飲み下した。教師の男性へ視線をやると、丁度目が合う。声に出さず、助けて、と唇を動かした。縋れるものは彼の良心だけだった。幸い、聖神法を担当する教官でないから、希望があるはずだと思ったのだ。
「……それを、先に言いたまえ」
 希望が潰える音が聞こえた。
 教師はもう総一郎に一瞥もくれず、扉をくぐって素早く荷物を取り、逃げる様に階段を上っていった。それを背後に迫る恐怖を感じながら見送った。躰の震えを止めようとしても、止めることは出来なかった。
「イチ……。お前、よくも裏切ったな?」
 振り向くと、尋常でない怒りを漲らせてホリスは立っていた。巨躯が覆いかぶさるようにして、総一郎を見下ろしている。「ギル」と彼は短くリーダーの名を呼んだ。「ああ」と薄い金髪の少年は答える。
「謝らなくてもいいよ、イチ。謝って済ませるようでは躾にならないから」
「あ、ごめ……!」
「謝らなくてもいいって、言ったよな?」
 ギルの蹴りが、顔面に直撃した。鼻が折れ、顔中が血で汚れる。彼はその一発だけで止めて、「ホリス、足も全部やっちゃえ」と指示を出した。
「覚悟は出来てんだろうなぁ、イチ!」
 力なき少年はただ、泣きながら謝罪を繰り返すことしか出来ない。


 爪剥ぎを計二十回繰り返した総一郎は、絶叫を上げる体力も残ってはいなかった。浅い呼吸を早く繰り返すだけで、ホリスが小刀で刺してもろくな反応をしない。興が削がれたという風に、三人は自然解散していった。総一郎はそれから数十分動かず、我に返ってから転がっていた小刀で縄を切って手足を開放した。
 物を握るのも、ただ歩くだけでも激痛が走った。幸いとも言うべきか、余計な荷物などは無い。自前の物はせいぜいが杖くらいで、この小刀も持って帰ろうという気にはなれなかった。
「『神よ、癒しの雫を与え給え』」
 水属性の聖神法は、氷などの攻撃はもちろん癒しさえも司っている。その辺りは、やはり日本などの魔法とは違かった。日本における回復とはあくまで治療や生物魔術であり、光魔法は天使の血を継ぐ総一郎などにしか効き目はない。
 杖先に出た水色の輝きを、何回も爪に落していった。総一郎の聖気は折れた鼻を治したところで枯渇した。腹部などの痣は治せないか、と優しく撫でることしか出来ない。
「……い、いいじゃないか。子供の遊びだ。僕は大人なんだから、我慢できる。……僕は、これくらいじゃあ折れたりしない」
 『武士は食わねど高楊枝』。呟く。父のことを思い出す。そうすると、少しだけ元気になる。
 階段を上ると、もう夜になっていた。月は残念なことに少々欠けている。円形は保っているものの、有明と言う所か。ここから順々に欠けていき、最後には新月に戻るのだろう。
 部屋に帰って、ベッドに寝転んだ。このまま寝てしまおうとも考えたが、眠れない。起き上がってシャワーを浴び、寝間着に着替えた時にはもはや眠りにつく気分ではなかった。
 そういう時、総一郎は画材を引っ張り出して絵を描くことにしている。『美術教本』はまず油絵から教えていて――それが一般的な事なのかは分からなかったが――故に総一郎もそれに倣ったのだ。
 白羽を描こう。無意識に、そんな事を思った。だが、少し書いた所でムズ痒くなり手が止まってしまう。趣向を凝らそうと考えた。虐待から解放された反動で、総一郎は少々高揚していた。
 電気を消して、真っ暗の中絵の具を取り出した。白はこれだったはず、と勘でチューブを押しだす。頭の中に描くのは白羽だが、現実にどう描かれているのかは終わって電気をつけるまで分からない。けれどその不明確さが、総一郎の手を止めさせなかった。先ほどまでは、理想が高すぎて描けなかったのだろう。
 暗闇の中で絵を描くというのは、その時の総一郎にとって快楽でさえあった。無我夢中になって、頭の中の白い絵の具で白羽を彩る。あの健気な姉への恋しさが溢れるのが分かった。体温の上昇を感じながら、ひたすらに描きなぐり続けた。
 納得するまでしつこく絵の具をキャンバスに塗りたくって、完成だと自認できたのは二時過ぎだった。日本なら丑三つ時である。どんな風になっているかと、胸を躍らせて電気を付けた。
 キャンバスに描かれていたのは、見るもおぞましい悪魔だった。
 白の絵の具なんて何処にも見えはしなかった。細かな色は混ざり合って茶色の様に変わってしまっていて、ただはっきりと分かる色は、赤と黒の二つだけとなっていた。
 しかし皮肉なことに、その絵はとても見事だった。それこそ、狙っていたら到底総一郎には描けない程にである。その絵の中で、おぞましさと、悲しさが両立していた。そういえば、悪魔とは神に見捨てられた天使の成れの果てではなかったか。
「は、ははは、あはははは……」
 笑いながら、総一郎は涙を零した。つぅ、と伝う二粒の雫は、それぞれの軌跡を残しながら顎の先で合流し、一つにあわさって首へ落ちていく。
 筆を乱雑に転がし、汚れた前掛けを投げ捨てた。そのままベッドに寝転んで、シーツにしがみ付き嗚咽を堪える。脳裏では、日本に居た頃の事を何度も繰り返し思い出す。
 だが、肝心の白羽の顔が、時を経る度に薄れて見えにくくなっていくのだ。
 郷愁の念は、総一郎にとって麻薬の禁断症状にも等しい。逢いたいという感情に振り回されて、訳が分からなくなる。白羽に逢いたい。あの純粋と無垢を体現したかのような天使の子に会って、力いっぱい抱きしめたい。――そんな強い欲求が、総一郎に希望を捨てさせない。魔法を使えば、白羽にすら会えなくなる。
 ベッドのシーツは、いつの間にか皺くちゃになっていた。それを直そうと考える前に、総一郎は再び狂おしい感情を抱いて、夢へ誘われていく。

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