武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

7話 銀世界(4)

 ベルが部屋に戻った時、ファーガスはすでに目を覚まして、いつの間にかやってきていたアメリアを抱きつつ、ネルと何やら話していたようだった。「お帰り」と出迎えられる。
「ファーガス、大丈夫だった? フェリックスが君を持ち帰って来た時思い切り白目を剥いて口を開けていたものだから、そこから魂でも出かかっているんじゃないかと心配で……」
「実際そういう亜人居るしな」
「本気でアホ面晒してたんだな、俺……」
 聞けばファーガスが起きたのはつい先ほどの事で、気絶させられた事をネルにからかわれていたのだという。「介抱してくれたんだってな、ありがと」と少々恥じながら、両手を合わせて感謝を示すファーガスと、追従して鳴き声を開けるアメリア。……しかし、この両手を合わせる所作は一体何なのだろう。
「いいよ、気にしなくて」
 ベルは言いながら、ティーカップに紅茶を注いだ。彼は一啜りして、「アッサムだな」と人差し指を立てる。「ううん、ダージリン」とベルはやんわり否定。ファーガスが固まるのと同時に、アメリアが主人の腕をぺしぺしやり出す。
「……」
「ネル、無言でニヤニヤするの止めろ」
「じゃあアレだ、指さして爆笑すればいいわけだ。……いや、でも改めるとそこまでは面白くねぇな。クリスタベル、オレにも茶をくれ」
「うん、はい」
「……ちょっと待ってくれ。今のこの、俺の宙ぶらりんな心境は一体どうすれば」
「二人とも、ラスクを持ってきたけど、食べる」
『食べる』
 見事声が重なったが、今更二人は細かい事を気にしない。それなりの信頼関係が築けているという事だろう。ネルの事を昔怖がっていたベルだから、それを思うとどうにも今が不思議に思えてくる。
 ネルと言えば、彼自身の兄に婚約解消を賭けた勝負を持ちかけ、勝利したという武勇伝を思い出す。しかし、父はいまだ首を縦にも横にも振っていないと聞いた。その視線は、どうやらファーガスに向いているらしいとベルは直感している。父は、勘がいい。ベルに遺伝したと言いにくいのが、複雑だったが。
 ラスクをかじる二人を眺めながら、ベルも紅茶に口を付けた。すると、ネルはベルが居なかった間の話を再開させる。
「しっかし、お前の実力なら本気でどうこうしようと思ったらどうにもならない物なんかねぇだろ。だっつうのに、何でお師匠サマには負けてやるんだ? あんなみっともない様を晒すくらいなら、ぼっこぼこにしちまえばいいじゃねぇか」
「俺は! ……あの力が嫌いなんだよ。逆にさ、あんなの使って楽しいか?そりゃあストレスも何もない生活が送れるだろうけど、そんなの詰まらなくないか?」
「……ま、ファーガスが使いたくないってんなら、別にオレはどうでもいいがよ」
 表情を作りつつ、彼は視線を窓の外へ投げかけた。雪が、朝よりも勢いを増している。今年はよく降るな、とベルは思う。アメリアも外の雪降りを眺めていた。
「それで、そっちの方の話し合いはどうなってんだよ」
 ファーガスが、話題を変えた。ネルは、ファーガスの言葉に「ああ」と嫌そうな顔をする。
「難航してる。というか、反対派がオレたち子どもだけだから、どうにもならん」
「は? お前の兄貴がどうにかしてくれるんじゃなかったのか?」
「あンのクソ兄貴め。せっかく必死こいて模擬戦で負かしてやったら、ここにきていきなり手の平返しやがって。ただじゃおかねぇからな……」
「それ、肉親に対して吐く言葉じゃねぇよ……」
「まぁ、二人は兄弟仲があまり良くないからね」
 クリスタベルが困り顔をすると、ファーガスが「そうなのか?」と聞いてくる。少女の脳裏に、過去の記憶が去来した。彼ら兄弟が我が家に遊びに来たのは数えるほどだったが、ほとんど毎回真剣を持ち出して大喧嘩になっていたはずだ。その割に怪我などはなかったけれど。
 しかし当のネルはと言うと、とぼけた顔で「ハ? ナニ言ッテンデスカ? 仲良イニ決マッテンダロ」と両手を上げて他を竦める。
「なるほど、クロだな」
「でしょ?」
 二人が苦笑すると、ネルは明後日の方向に向けて鼻を鳴らす。しかし、とベルは考えてしまう。ネルの兄上まで手のひらを返したとしたら、この話はもはや無くなったも同然かもしれない。――身震いが、した。下唇を、強く噛む。
 その時ネルが「よっと」と立ち上がった。そして、訊いてくる。
「おい、クリスタベル。ファーガスのお師匠様は、一体どこに居る?」
「多分、父のところだと思う」
「は? ゲイ?」
「怒るよ?」
 思った以上に低い声が出て、ネルはわずかに怯みを見せた。クリスタベル自身も若干驚いていると、すぐにいつもの状態に戻ったネルが、「初めてクリスタベルの事怖いと思ったぜ今。おぉう、こっわ! 怖いついでにお師匠サマに挑んで来っから、ちょいと待ってな!」と部屋を出て行ってしまう。
「……行っちゃったね」
「行ったな」
「勝てると思う?」
「有り得ないだろ」
「そうだね、じゃあ、賭けはなしってことで」
「驚いた。ベルもそんな冗談言うんだな」
「ファーガスの影響だよ? 私とローラの模擬戦で、ネルと賭けをやったでしょ」
「何でそこまでばれてんだ……?」
「ネルが言ってたよ」
「アンの馬鹿……!」
 ファーガスが拳を固めて、壁の向こうに居るのだろうネルを睨み付けていた。そんな所作がベルには可笑しく感じられて、くすくすと笑い声を漏らしてしまう。
 するとファーガスも、ベルと同じようにくつくつと笑いだした。しばらくそうしていたが、ネルの事を完全に放置するというのも何か起こしそうで怖い。仕方なくアメリアを置いて二人は部屋を出て、彼がどこへ行ったのかを探し始めた。
 索敵でもよかったが、聴覚拡大の聖神法を使った。ネルは、基本的に騒がしいからだ。そうしていると、こんな声が聞こえてくる。
『ファーガスのお師匠サマ! 軽くオレと手合せ願えねぇか!』
「執務室だ」とファーガスは言った。
「多分だけど師匠もいる。ベルパパとネルの兄貴に関しては分からん」
「執務室だね、じゃあ行こう!」
 二人は駆け出した。廊下を走り抜け、螺旋階段をファーガスに追従して数段飛ばしで下り、執務室に着く。荒い息。その所為なのか扉の向こうからは、何も聞こえてこない。顔を見合わせた後、意を決しドアノブに手を掛けた。
 扉を開けると、そこに居たのは父とネルの兄だった。彼らはチェスを打っている最中のようで、向けられた表情には歓迎の色が少なく思える。
「えと……、先ほどネルを見ませんでした?」
「ああ、あいつなら君のお師匠さんを連れて外に出ていったよ」
 ネルの兄は、気さくそうな口調でそのように言った。会釈をして、部屋から出ていこうとする。だが、それを引き留める声があった。
「少し待ちたまえ、グリンダー君。それに、クリス」
「ハイっ!」
 ファーガスはベルが驚くくらいの勢いで姿勢を正し、そのまま油の足りていない機械のように、ぎこちなくクリスタベルの父に向き直った。どれだけ緊張しているのだ、と少し呆れてしまう。
「な、何でございましょう」
「君の活躍は、学校の方から聞いているよ。ドラゴンを殺したんだってね」
「……ええ、まぁ」
 ファーガスは、言葉を濁した。触れられたくない話題だったのだろう。逃げ出したそうにしていたが、堪えている。
「まぁ、そこに座りなさい」
 父の言葉に、二人は従った。ファーガスはベルを見て、深く頷く。一体何だというのだろう。人の心が読めないクリスベルは、こっそり首を傾げている。
「凄いじゃないか。しかも、黒い龍だ。フェリックスでさえそんなことは出来ないと断言していた」
「いえいえ、そんな。聖神法だけで勝ったのなら俺も自信満々で居られたでしょうけど、違いますから」
「違う、と。具体的には、どういう事なんだい」
「すいません。それは、勘弁してください」
「……ふむ、そうか。悪かったね、言いにくい事を訊いてしまったようだ」
 ファーガスは、酷く居心地が悪そうだった。そんな風にした父に怒りを覚えると同時に、ベルはなぜそこまで彼が自らの力を忌避するのかと訝った。目を瞑り、自省する。興味本位で他人の傷口に触れようとするなど、愚かしい事だ。
 父はしばらく何かを考える様に、口に手を当てていた。ネルの兄も黙ってファーガスに視線を注いでいる。「では、ちょっと決闘の様子を見て来ます」ファーガスは立ち上がり、ベルの手を引いたところだった。
「クリスタベルと、ナイオネル君の婚約の事だがね」
 その言葉に、二人は硬直した。一層真剣な目をして座り直すと、父は言葉を再開させる。
「今の世は、封建社会ではない。別に家柄にこだわる理由もない。私と彼の父が懇意の仲だったから、つい許嫁の契りを結んでしまったに過ぎないのだと言われれば、私は反論を持つことが出来ないだろう。実際、クリスタベルが妻の命を継ぐようにして生まれた時からは、メイドも減らし、私がいつ死んでもクリスタベルはこの世を生き抜けるよう、逞しく育ててきたつもりだ。だから、貴族などという亜人との争いに身を投ず面倒な生き方を止めて、平民の人生を歩むという道だって、私は許さない訳ではない」
 父はそこで改めてファーガスの瞳を見つめた。強い眼光が、彼を貫いている。
「しかし、その為には確証が居る。大事な一人娘を、預けてもいい相手なのかという、確証がね」
「どうすれば、それを示せますか」
 噛みつくように、ファーガスは返答する。父はそんな彼の事を痛々しげな眼で見てから、このように続けた。
「グリンダー君。私はいまだに、君と邂逅した時の事が忘れられないのだよ。君は私に責められた時、泣いて力を求めた。私は、君の姿が力を求める無力な少年だとは、とても思えなかった。事実、君は聖神法でない方法でドラゴンを殺したんだろう?」
「……それは、そうですが」
 不安だった。ファーガスは冷や汗を垂らし、父の目は据わっている。ネルの兄は、ただ黙って経緯を見守っていた。ベルは、自分に何か出来ることはないかと思考を巡らせ始める。
「私はね、グリンダー君。君に似た目をした人間に会った事がある。とても奇異な場所だ。当ててごらん」
「……大学、とか?」
「いいや、刑務所だ。亜人との『獣姦』をしたという男を見に行った時に、ちらと他の罪人とほんの少しだけ話す機会があってね。――自らの行いを酷く後悔しているという罪人の目に、あの時の君の眼はそっくりだった。今も、君はドラゴンを殺した方法について言及しようとすると、目に後悔が浮かぶ」
「……」
「単刀直入に聞こう。君は一体、過去に何を仕出かした? 少なくとも、それを聞くまで私は婚約に関して言及する気はないよ」
「自分も、そのつもりだよ。それに、ネルは性格に問題があるから、せっかく捕まえておいた魚を逃がしたくはないんだよね」
「人の娘を捕まえて、魚呼ばわりか」
「すいません、おじさん。でも、弟の事を心配する気持ちは分かるでしょう? たった二人の兄弟ですから」
 ネルの兄が茶々を入れ、場の空気が少し緩んだ。ここだ、とベルはファーガスの手を取り、立ち上がらせる。ファーガスは地面を見つめて、尋常でない表情でいた。それはまるで――父の言うとおり、過去の罪を暴かれた罪人のような顔つきだ。
 ベルは、素早く部屋から飛び出して、そのまま「さぁ、当初の予定通り、ネルを探そうよ」と笑いかけた。「聞かないのか……?」と問われても、無視だ。自分から言い出さないという事は、言いたくないという事なのだから。
 ファーガスは、途中で激しく頭を振った。何事かと思っていると、すぐに顔を上げて「もう大丈夫だ」と少年らしい純朴な表情で笑う。それが嬉しくて、「早く行こう? フェリックスにネルがやられちゃうよ」と彼から顔を背けて走り出す。
 戦闘の音は激しく、聖神法を使うまでもないほど追跡は簡単だった。
 雪の為傘を片手に四苦八苦しながら森へ侵入すると、彼等の声までも聞こえる様になってきた。見れば、此処から十数メートル離れた場所で、二人の人影がぶつかり合っている。木陰に隠れながら、ベルは様子を窺った。
「っぁああ! クッソ、また外した! ジジイさっさとオレに華を持たせてくれよ!」
「ほっほっほ。丁重にお断りさせていただきます。今はファーガスの師匠を下りられませんので」
「チョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロチョロ……。あー、ムカつく! さっさとくたばれ、老いぼれ!」
「まだまだナイオネル様のような若造には負けていられませんな」
 案の定、ネルは良いようにフェリックスに扱われていた。しかし、彼の顔は罵倒しながらも楽しくて仕方がないというように、大きな笑みが浮かんでいる。
 彼の戦闘狂っぷりは、相変わらずのようだ。クリスタベルは、肩を竦めて嘆息した。
 しばらくして決着の時が訪れたようだった。ネルが決めに行くべく大振りしたのを見計らい、師匠はその手首を後ろ側から押さえて、得物を奪い取った。追撃とばかり、鳩尾に一発。「キュウ」とまるで人形のような声を上げて、ネルは崩れ落ちる。
「ファーガス! こっちへ来て運ぶのを手伝いなさい! クリスタベル様も手を貸していただけると非常にありがたいのですが!」
「お、おう。今行く!」
「フェリックス、少し待ってて!」
 二人は木々の間を縫って、ネルの介抱に向かった。ネル本体はフェリックスがファーガスよろしくお姫様のように抱き上げ、残る二人で彼の得物を運搬した。しかし、重い。こんな物をどうやって振り回しているのだと、運びながら渋い顔になる。
 ネルは、彼の部屋に入れて一分もしない内に目を覚ました。
 フェリックスは手応えと何かが違ったのか、自身の手を見ながら首を傾げている。ファーガスは「ほらよ」と覚醒した彼にパイを投げ渡した。小さい一品ではあったものの、口でキャッチした上に一回も手を使わずに完食したのを見て、少し表情が強張った少女。
「いやー、予想以上に強かったな、爺さん。老いぼれとか言ったのは冗談だから許せよな」
「いやいやなんの、ナイオネル様の表情がとても明るく豊かでしたから、私も不快には思いませんでしたよ」
「ん? そう? 何だよ謝って損した」
「一概にも損とは言えませんぞ? 少なくとも、謝られた事で私はナイオネル様の事が少し好きになりました。……もっとも、今の発言で帳消しとなりましたが」
「ゲイかよ、って茶々入れようとしたら先にオチ取られた、クッソ!」
「お前何処で悔しがってんだよ馬鹿かよ」
「ファーガス、ネルに何を言っても無駄だって」
「それもそうか」
「うっせーボケ共」
 軽口を笑顔で叩き合う四人。ネルは一息つきなおしてから「うわー、負けたー」と改めて頭を抱えた。ファーガスは、俺の師匠を簡単に倒されてたまるかと言う風なジト目で、ネルを見つめている。
 それを、ネルがいやらしい目で見つめ返した。傍から見れば男同士が無言で見つめ合っている図の完成であり、背筋に嫌なものが走ったベルはネルを強く睨み付ける。しかし肝心の彼はそれを無視。ファーガスの「何だよ」と嫌そうな声に、ようやく反応する。
「なぁ、負けたら悔しいよな? 久々に負けてそう思ったけどよ、そうすっと尚更お前の事が訳分からなくなるんだよ」
「は? 何言ってんだ?」
「勝てるのに負ける。しかも、負けるのが嫌だと思いながらだ。そこまでして使いたがらない理由ってのが、オレにはいまいち分からん。そう思うよな? お師匠サマ」
「……そうですな。私としては、いつになったら詳細を聞かせてくれるのかと弟子に期待しておりましたが」
 その言葉に、ファーガスは唇を引き締めて硬直する。彼らがファーガスの異常な力について話しているのだと勘付いたからだ。今のファーガスの様子は、先ほど詰問された時のそれと同じだ。
 しかし、フェリックスは肝心なところを言わないまま、ベルが淹れた紅茶を啜った。「お嬢様、腕を上げましたな」と老人らしく笑っている。
 ファーガスは渋い顔でいたが、唐突に時計を見上げて「あれ?」と声を漏らす。
「そろそろ、昼食の時間だな」
「あ、うん。そうだね」
「……俺、朝飯食ってないな」
「あっ」
 ベルはそのことをすっかり忘れていて、弁解しようとして上手くいかず、あわあわと理路整然としないことを口走った。ファーガスは「いいよ、忘れてたんだろ」と笑ってくれたが、代わりにベルは自己嫌悪に陥るタイプだ。
 有無を言わせず、全員を食堂まで連れて行った。フェリックスにも睨みを利かせたら、「分かりました、分かりました」と困ったように笑う。どうやら、今日のところは断念してくれるみたいだ。
 昼食を食べ、しばらくゆっくりし、夕食後、ファーガスに連れられていく。行き先を告げられることはなく、しばしぽかんとし、一瞬だけドキドキして、到着した場所にフェリックスとネルが居たことで全て察した。
 空を見上げる。夜。我が領の亜人が、こぞって起き出す時間帯だ。
「……」
「あの、ベル? 足踏んでる。ちょっと退いてく、痛い痛い痛い。え、何。どうしたベル」
 そんなやり取りを経つつも、四人は夜の森へと身を投じた。
 ざく、と処女雪に自らの軌跡を刻む。足には雪の感触と腐葉土の感触が返ってきて、森を歩いているのだとしみじみさせられる。夜は目が効かないのもあって、緑の匂いが朝よりも充満しているように感じられた。
「さぁて……獲物は何処に居やがるか」
 ネルがまるで殺人鬼のような声音でくつくつと笑った。ファーガスはそれを、後ろから軽く蹴り飛ばす。避けられていた。少し苛立ったように舌打ちしている。仲のいい事だ。
「まさか休暇中にまで亜人を見る事になるとは思わなかったよ……」
 ベルは、何とも言えない心持でそう言った。弱い力でファーガスの袖を掴む。しかしこれでは弓矢を使えないと我に返って、惜しみながら矢をあらかじめつがえておく。
 フェリックスは最前列で、無言のまま変わらない歩調をもって進んでいた。しばらくそうしていると、「来ますぞ、クリスタベル様、ナイオネル様。ファーガスも、気を引き締めなさい」と忠告してくる。
 その声に反応して、三人は共に武器を構えた。敵は五匹。どれも獣だ。前方は獅子、後方は蛇、肩口からは牡山羊の頭が生えている――キマイラである。
「キマイラが五匹! 蛇は毒を飛ばすから、光の聖神法を使うぞ! 目がくらまないように準備してくれ!」
 祝詞を唱え、ファーガスが杖を振ると、パッとここ一帯が明るくなった。味方は全員備えていたからすぐに行動を再開できたが、キマイラはそうもいかない。
 たじろいだ魔獣たちに、まずネルが飛び掛かった。大剣が、一匹の胴体を両断する。そこに、ベルが続く。矢が、一匹の頭を貫いて絶命させた。
「ファーガス、隙が出来たよ!」
 叫ぶ。そして、影がよぎる。……しかし、どういう事だろうか。ファーガスは、何もしない。
「ファーガス?」
 いまだ距離があり、振り向くだけの余裕もあった。ベルは、きょろきょろと周囲をうかがう。「おいおいどーしたぁあ!?」と大声でネルは大剣をふるっている。だが、見えない。ファーガスの姿が――それに、フェリックスも。
「え?」
 ベルは、ただ呆気にとられるばかりである。


 その、数十分後。ファーガスはクリスタベルとネルの二人に発見された。彼は泥と雪にまみれ、底知れぬ恐怖に身を焦がしていた。ただ何かを謝り続け、泣きじゃくる彼を宥める事はベルにすら出来なかった。そんな戸惑うばかりの自分を、彼女は憎んだ。
 それ以来、ファーガスは部屋から出ようとしない。

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