武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

13話 修羅の血

『武士は食わねど高楊枝』の掛け軸の向こうには、隠し小部屋がある。そこには何千冊もの魔法魔術に関する蔵書があり、小学二年生に進級した際入室が許されるようになった。
 稽古が無い日は、大抵そこへ足が向かう。今日もそうで、丁度今日の三冊目を読み終えて次の本を探していた所だった。
 目ぼしい本は、と指で題名を次々になぞっていく。すると、妙なものを見つけて瞬間眉を顰めた。取り出して、やっと納得する。
 これは、アルバムだ。
 年号を探すと、総一郎が生まれる十年以上前の物であることが分かった。意気揚々と捲ると、少年らしくあどけなく笑う父の姿がある。
「わぁ……!」
 父にもこんな時代があったのか。と少し嬉しくなった。総一郎の中では父はずっと今の父であったような気がして、それはそれで寂しいと思っていたからだった。
 次のページ、次のページ、と進んでいくと、剣道の大会で優勝する父や、母ではない恋人と笑いあう父の写真が出て来た。そこまで行くと、少しの違和感を覚えるようになる。少年時代の純粋さをそのまま受け継いでいった青年の姿。笑顔で制服を着こみ、警察署の門の前で敬礼をしている。
 そこから先のページには、写真が無かった。
「総一郎、また、こんな所に居たのか」
 父の声に肩を跳ねさせる総一郎。隠す前に覗きこまれ、「……ああ」冷淡な納得を示される。
「私がまだ、まともであった頃の写真だな」
 声を漏らして振り返ると、父は懐かしそうに目を細めてアルバムを眺めている。警察署で敬礼する最後の写真を何度かその指でなぞり、息子の名を呼んだ。
「この先の事が、知りたいか?」
 知りたい、と言おうとした。しかし、その表情には隠しきれない憂いがあった。それが総一郎を惑わせ、彼の言葉を詰まらせた。父はただ目を瞑り、「そうか」とだけ言った。
「ならば、決心が着いた時、また来い。無貌の神が言ったように、あと一年の間ならば答えられるだろう」
 踵を返して、父は立ち去っていく。道場の方にではなく、地下の方へ。地下部屋は、立ち入りが許されていない。興味本位で探したものの、開き方はとんと分からなかった。
 父の開け方を凝視していても、同じだ。同様の所作をしているつもりでも、どこか違うのか、手がかりさえ見つからない。けれど冷静になってみれば、行きたいとも思わないのだった。あの陰気な様子を思い出すだけで、たまに震えがくる。
 稽古は、順調といってよかった。
 山登りも慣れ、五往復ほど増やされたが、問題にはならなかった。総一郎は筋肉が付いたのかとも思っていたが、同い年の平均に比べて四肢が太いという事もない。父に聞けば、やり方を理解したのだと教えられた。前世の常識から考えればやり方の問題では無かろうとも思ったが、事実総一郎の体躯は人並みを超えない。
 竹刀では、もう稽古は行われなくなった。木刀で、素面素小手で向かい合う。木刀に力いっぱい打たれると容易く骨が折れるのは身をもって知ったが、それ以来打たれるという事が無くなった。今では突きも上段も平然とされるが、総一郎は避けきっている。
 真剣での向かい合いは、やっとコツを掴んできたという具合だった。体が動かなくなるような迫力は手練れならば誰でも持っていて、立会いはそれの押し合いであるという事を知った。だが総一郎は押し返す方法を知れども、いずれは力が足らず押しつぶされてしまう。迫力そのものを増やすのは難く、今でも難儀していた。
 多かれ少なかれ、上達しているのは自覚している。しかし、それでも弱さの実感を拭えなかった。
 木刀での立会いで、一度も父に打ち込めていないのがその原因だろうと踏んでいる。
 夜明けの日差しが薄々と感じられる秋の山の麓。総一郎はいつも通り日課をこなすべく、そこで準備運動をしていた。初めに一杯分の水を呑み干し、駆けあがる。
「よう! 今日も朝から精が出るじゃねぇか、総一郎!」
「おはよう! タマ」
 横を見ると、ケットシーのタマが総一郎と並走している。去年の暮辺りからのランニング仲間だ。
 示し合わせている訳ではなかった。タマが勝手に横を走り始めただけだ。彼は他の町に行く途中に総一郎が山登りをするのを知って、彼がばてるのを茶化すべくもう少し残る事に決めたと言っていた。休日はよく縁側で茶を飲み碁を打つ間柄なので知った事なのだが、総一郎が全然ばてない為に、いまだに残っていると。いつか「あつかわ村はそろそろ最長記録に届きそうだ」と彼は笑っていた。
 山登りは、慣れると苦ではなくなる。去年は永遠にさえ思えた距離が、今ではこの程度だ、と思えるようになった。ほぼ毎日、途中で何らかの亜人たちが総一郎の様子を見に来るので、暇だとも思わない。この一年で、総一郎はこの山の加護のコンプリートを達成していた。マヨヒガは、彼にとってもう庭に等しかった。
 朝食前になって、総一郎は十五往復を終えた。持参した水の全てを呑み干し伸びをして、今日話し相手になった天狗とシルフィード、そしていつも通りタマに手を振って、家路に着く。その途中で、父に会った。その手には、握り飯がある。
「あ、お父さん。おはようございます」
 駆け寄って、挨拶をする。それに、少し驚いたように目を開きながら「おはよう」と返された。
「もう、終わったのか」
「はい。慣れた物で」
 にこにことする総一郎。握り飯を置きにくる父に追いつくのが、彼の目標の一つだった。自分の成長に驚いた顔をされるのは気持ちがよく、その度に一往復増やされるのも苦にはならない。
 父から握り飯を受け取り、齧りながら歩く。こういう時の歩き食いを注意しない辺り、父も粋だ。帰れば、更に朝食が待っている。最近の総一郎は、大食らいであった。
 朝食後は真剣で向き合い、学校へ行く。総一郎はこの頃になると授業を抜け出すというやんちゃもしなくなった。退屈だった算数で、平気で二桁三桁の掛け算が出るようになったからだ。しかも、暗算でないと間に合わない。一年の時とは違って、今は少し必死である。
 気に病むことは、自らの向上だけ。何とも健全な少年の日常だ。
 しかし父の過去の一端に触れかけた時点で、そこに影は差し始めていたのかもしれない。


 夜だった。
 総一郎は、今も道場で寝起きしている。父も最初はそうだったが、いつの間にか居なくなった。道場で寝ているのは、総一郎一人だ。
 総一郎はこの頃、恐ろしい夢を見る様になった。見ているときは酷く具体的でおぞましいのだが、起きた途端に不思議な悲愴に変わるのだ。その所為で、起き上がりながら訳もなく泣きじゃくる事がある。
 今もその為に跳び起きて、啜り泣きを終えた所だった。乾きかけた涙を拭い、冷めた思考で何をしているのかと問う。
 自答は、いつも通り筋立たなかった。
「……トイレ行こ」
 ぼそりと呟いて、もそもそと立ち上がる。
 今の時代の秋は長い。亜人という存在は兵器の無力さを自らの魔法で訴え、人間の科学力そのものの確固たる自信を揺るがした。そのお蔭なのか、地球温暖化などはとうに逆走を終えてとても良い状態が保たれているという。総一郎の前世では、秋はとても短い物だった。
 しかし、それでも終わりかけの秋となると肌寒い物がある。総一郎は袖同士を繋げ合い、裾を踏んづけ顔以外が外気に触れない状態で、小走りに進んでいく。
 その、途中にあった。
 総一郎はちょっと立ち止まり、横を見る。夜半もすぎる時間に襖越しに行燈の光が漏れていた。風もないのに、ガタガタと揺れている。うっすらと影が見て取れるような気もしたが、中の様子は分からなかった。
 特に興味を抱くという事もなく、一旦は無視して厠へ向かった。だが道場へ帰る時には目も覚めていて、そこで初めて興味を感じた。
 魔法は使わないまま、こっそりと襖を開ける。その先で、父が母を殺していた。
「っ」
 むわ、と湿気に帯びた空気が総一郎の顔に当たった。父は母の真っ白に血の気のない、横たわる華奢な体に覆いかぶさって蹂躙している。その様はまるで鬼や悪魔のようでさえあって、まず恐怖が総一郎を包み込んだ。しかし一瞬遅れて、背中の痺れるような、熱が込み上げたのも確かな事だった。そこでやっと、殺しているのが勘違いだと悟った。
 母は頬を上気させて切なそうにもがいていた。その声は間違いなく何かを叫んでいて、音魔法を使っている事に総一郎は感づく。その首を、父は激しく掴み揺さぶった。母が無言で叫びをあげる。音魔法を使うまでもない。彼らは自らのそれに夢中で、総一郎の存在になど気付いても居ないのだ。
「……総ちゃん? 何やってるの?」
 はっとして、横を向いた。そこには総一郎の様に肌を外気から守って、眠そうに目を擦る白羽が居た。
 総一郎は慌てて白羽を遠ざけようとしたが、遅かった。昼間の両親とは似ても似つかぬ姿に、幼き少女は総一郎と同じく短い悲鳴を漏らした。
「そ、総ちゃん……、お母さん、お父さんに虐められてるの?」
 その声は怯えを含んでいた。縋る様に白羽は総一郎に抱きついて、細かく震えている。その頭を、総一郎は優しく撫でた。白羽は小学三年生にしては小柄で、総一郎より背が小さい。母の血だろう。という話だった。襖の奥で、子羊のように貪られる母の。
 総一郎は何も言わず、そっと襖を閉じた。聞こえない声によるものなのか、障子の振動が手に伝わった。一刻も早く、逃げ出したい気分だった。それを、白羽が捕らえた。
「……、白ねえ……?」
 白羽は総一郎の服を強く握りしめて、放そうとしない。俯いた顔から覗く小さな口は、下唇を噛んでいるようだった。どこか熱っぽい口調で、少女は言う。
「ねぇ、総ちゃん。今日は前みたいに、一緒に寝ない……?」
「え、……いいけど、どうしたの?」
 俯いたまま、カリカリと人差し指で自分の親指をもどかしそうに掻きつつ、独白の様にその口が蠢く。
「一人で寝るのはね、寂しいの。ずっと我慢してきたんだもん、いいでしょ?」
 ゆっくりと顔を上げ、上目遣いで総一郎の目を見つめた。その瞳は、潤んでいる。小さな姉の姿が、僅かに母のそれと被る。
「じゃあ、明日にしない? 今はもう夜中だから、少し勿体無いよ」
 口が勝手に、やんわりとした抵抗を示した。やだ、と白羽は駄々をこねる。
「今日がいいの。明日じゃ、嫌なの……! お願い、総ちゃん。一緒に寝てくれたら、何でもいう事聞くから」
 総一郎は、その時疼きのような物を感じた。胸の奥が、心臓とは別の鼓動をしている。我が儘を聞いてあげてもいいかな、と言う気持が、急に起こった。冷静な自我が、しかしその提案を一蹴した。
「何で、今日がいいの? 明日でもいいじゃないか」
 尋ねても白羽はまた俯いて、下唇を噛みながら「今日じゃなきゃ嫌なの……」と言うばかりだった。頬は桃色に染まっていて、左手で総一郎の服を掴み、右手で自分の柔らかそうな寝間着を、皺が寄るほどに強く握っている。その様が、何故か酷く愛しく映った。抱きつきたい衝動が、ジワリと体の奥から湧きだした。最近ろくに遊ぶ時間もないし、今日ぐらいは、と言いかけた瞬間だった。
 白羽は二歳の時点で開花して、とっくに生理を迎えていた事を思い出した。
 それが、総一郎の頭を醒ました。衝動は掻き消え、白羽の手を振り払った。すると白羽は無自覚の内に羽を広げたのか、羽根が散って周囲を舞っている。悪戯に成功したような笑みを浮かべて、再び総一郎に抱き縋る。
「つっかまーえたっ」
 その笑みは、蹂躙される母でなく、貪る父の物だった。
 思わず、手が出ていた。掌に走る痺れ。紅葉型に赤く染まる白羽の頬。きょとんと、何も分かっていない少女の表情。
 総一郎はただ彼女の寝室の方向を指差し、厳しい睨み顔で言った。
「白ねえ。もう、遅い時間だから寝なさい」
「え、で、でも……」
「早く!」
 強固な拒絶を受け、白羽はしばしの瞠目の後、何処までも切なく沈んだ面持ちで「うん」と答えた。その瞳には涙が溜まっていて、ただただ、痛々しい。総一郎は、遠い気持ちで思う。手には、震えさえある。
 されど、問題なのはこれが恐怖によるものでないという事だ。
 武者震いであると、言っていい。
 震える手を、握りしめた。震えを握り潰そうとした、と言う方が正しいのか。もっと上手い立ち回りは出来なかったのか、とすでに消えた姉の背中を想い考える。突如、襖の方から声が聞こえた。
 苦しむような、啜り泣きだった。
 だが、母の物ではない。とすると父しか有り得ないはずだったが、どうにもその事実が総一郎には受け止められなかった。襖を再び開けよう、と言う気にもなれず、少しの逡巡が起こる。結局、そのまま総一郎は駆け足で道場へ戻り、そのまま悶々としたまま寝付いたのだった。
 翌日の早朝、素振りをしていると、母が姿を現した。
「総一郎、いつも頑張っているわね」
 そういえば、いつだっただろうと考える。母が、総一郎を『総ちゃん』と呼ぶのを止めたのは。
「……どうしたの、母さん。こんな早くに」
 悶々として調子も出ず、総一郎はその声に応じた。しかし昨日の記憶がよぎったせいで、不自然な間が開く。改めて見た母は成人にしては小柄で、長身痩躯の父と比べると子供のように見える事もあった。もっとも、総一郎はまだそれよりも小さかったが。
「ううん。何となく、総一郎の素振りが下手になったような気がして」
 母は、その外見に反してモノをずばずば言う。もっと端的に言えば毒舌なのか。
 その毒舌にぐさりとやられながら、総一郎は無言で素振りを再開した。「怒ってるの?」と言うからかい半分の声は、無視した。
「昨日の夜、見てたでしょ」
 ぴく、と図星を突かれた総一郎は瞬間身を硬くした。「バレバレ」と笑う母の声に少々の安堵を覚えたが、それを自らの子供に突き付けるのは、教育上どうなのだ、と言う怒りもあった。
 だが、視線でそれを悟ったのか、母は笑んだまま視線を伏せて、「分かってるわよ」と言う。
「白羽には言わない。総一郎は受け止めるだけの土台があるだろうから、少し、心の整理の手伝いをしてあげようかと思ってね」
 白羽は総一郎が適当に誤魔化しておいて、と母は手をぱたぱたと振り、縁側に座った。天を見て、「夜明けって綺麗ねー。あの向こうには我らが主がいらっしゃるのかしら」と呟き、耳打ちするような小さな声で、総一郎に問う。
「お父さん、怖い?」
「……恐いよ。ずっと前から」
「でも、それは恐いだけじゃない、『恐い』でしょ? お母さんが言ってるのは、昨日思った、『怖い』」
「……うん」
「どう思った? アレを見て。変な事言ったら怒るからね」
「言わないよ。――何て言うか、……知らない、何かを見てる気分になった。母さんも、……父さんも、別人に見えた」
「実際、別人みたいなものだしね」
「えっ?」
「んふふー」
 母はお茶目に唇を作って笑っている。思わせぶりな態度に、半眼で睨む総一郎。母は悪びれずにカラカラと笑いながら謝り、彼に言う。
「ああいう時、私は大抵素が出てるっていうの? 翼が広がった時っていうか、覚醒版っていうか」
「自我が天使よりになってるって事?」
「流石、読書してる子の語彙は豊富ね~。昔からそう言う所はあったけど、最近の方が子供らしいわよね、総一郎。――まぁ、そういう事。逆に言えば、お父さんの状態がおかしいから、私もそれに釣られてるっていうのかしら」
「……」
「お父さんね、貴方達が生まれてからはしばらく自粛してたんだけど、最近は結構来るのよ。……耐えきれない、っていうか。あの人は、本当に強い人よ。でも、その強さは一人の時にしか発揮できない、歪な鎧。守るものが出来ると、改造と補強が必要になるの。定期的にね」
「意味が、分からないよ」
「そして、貴方達はお父さんの血を継いでいる」
 総一郎は、瞬間動けなくなった。昨日の白羽の獰猛な笑みが、色濃く蘇ったからか。それとも、それに呼応する自らの衝動を感じ取ったからか。
「白羽はまだいい方だって、お父さんが言ってたわ。私の血が強いからって。でも総一郎の事は、何よりも気に病んでる。自分に似すぎたって、そんな風にね」
「そ、そんなの、実の親なんだから当たり前の事じゃないか」
 動揺する総一郎に、母は優しく笑うだけだった。しばらくそうして居るとだいぶ落ち着いてきて、見計らったように言葉が再開する。
「お父さんはね、昔、『修羅』って呼ばれてた事があるの。かつて日本に居て、知性があるのに魔獣扱いされて、気付いたら絶滅しちゃった、とある亜人に例えて」
「何で、そんな事が?」
「理性が無かった、……のかな。敵味方関係なく殺し奪うっていうのがその修羅っていう亜人の特性でね。人食い鬼みたく最初は隔離して保護しようっていう動きがあったんだけど、力が強すぎて無理だった。お父さんも、そうだったって聞いてる。初めて会った時の事は、正直忘れられないもの」
「……お父さんは、人を殺したの?」
「職業が職業だからね。警察の、組織犯罪対策課。精神魔法で相手の有罪無罪を決めて、検挙と共に略式の処刑を執行する……らしいわ。で、行き着いた仇名が修羅。どんだけ嫌われてたのって話よね。まぁ、私もあんまり細かい事は知らないんだけど」
 いつの間にか、総一郎は俯いていた。目蓋を開いているとも閉じているともいえない状態にして、静かに考え込む。父に聞けば、もっと詳しい話が聞ける。それは父が言った確かな事で、だが聞くだけの勇気が無い。
 あの無邪気な青年が、父の様な凄まじい強さと寂しさを得る話など、きっと陰惨なものであるに違いないのだ。
 総一郎は秋の朝に吹く木枯らしから、冬の足音を聞いた気がした。

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