武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

12話 蟻とも蚊とも

 見慣れない天井だった。
 周囲はまだ薄暗い。早朝に起きる総一郎にとってはいつもの事だが、それにしてもおかしい。上体を起こしてみれば、白羽が居なかった。本来なら、自分の布団の近くで幸せそうに布団を抱きしめているというのに。
 そこで、「ああ」と思い出した。荘厳ささえある、この板張りの大部屋。そして、奥に佇む『武士は食わねど高楊枝』の掛け軸。そうと思えば、風を断ちきるような素振りの音が聞こえてくる。きっとそれは、父の物なのだろう。
「そっか。昨日から、道場で寝る事になったんだっけ……」
 緩く瞳を閉じながら、総一郎は呟く。怖いほどの風断ちの音が響く中、立ち上がった。
 素振りは、欠かせない日課だった。故にしないという訳にもいかず、父の隣でする事になるのかと居心地の悪い気分で外へ出たのだった。しかし丁度終わる所だったらしく、入れ替わる形になって肩透かしを食らった。
 その後一時間程度の素振りを終え、井戸水で汗を流すべく井戸水を汲むと、その中に蟻が浮いていた。摘まむが、ピクリともしない為、死んでいるのだと判断する。
 溺死する蟻は珍しい。その様は奇妙に物悲しく、少し眉を垂れさせながら、総一郎はその名もなき蟻の墓を作った。土饅頭の中に蟻を入れ、転がっていた木片を突き刺す。墓だと言われなければ、誰も分からないようなそれだ。総一郎は、きっと自分でさえすぐに忘れるのだろうと考え、それがまた悲しさを呼び、目を細める。
 道場に帰ると、父は新聞紙を広げ、その上で何かを削っていた。聞けば、総一郎の新しい木刀であるという。形になるまでは長いだろうから、待っていろとの事だった。
 するともういい時間だったので、朝食を取った。変わらない白羽の「頂きます」を聞いて、別段昨日の事は大したことではなかったのかとも思ったが、母が寝込んでいるとの話を聞いて考えが変わった。その世話を白羽に看させるという父の命令に、抗う者はいなかった。
 そして今、総一郎は父に渡された漆塗りの刀を見つめている。
「抜け」
 父はそれが、まるで自分への言葉だったかのように、なだらかに刀を抜いた。寸前まで渋面だったのが、抜き終わる頃にはいつもの鋭い無表情に戻っている。白刃は、記憶にたがわぬ鋭い光を湛えていた。反射の様にして、総一郎も刀を抜く。
 対峙していると、数年前の事を思い出した。闇の中に浮かぶ真剣。一瞬の殺気。
 それが、総一郎の気管を真綿で締めるようにした。眼前に立つ父の迫力は、変わる所が無い。それどころか、増しているような気さえしていた。その体躯は、少しずつ大きくなり、微動もしていないのに捉え所がなくなる。そして、総一郎の腰は砕けた。
 気付けば、珠のような汗が浮いていた。
 しかし、父はそんな総一郎を見ても、不満げな様子は無かった。叱責された事などなかったが、それだけに恐ろしかった為に少年は安堵に荒い息を吐く。父はそれを見て静かに言った。目を剥いて、その顔を見る。
「総一郎。これより日毎、真剣で対峙する。今日は、ここまでにしておこう。竹刀を取って来なさい」
 聞いてしばらく硬直していたが、再度の声で我に返り、駆けていく。打ち合いは無論、素面素小手で行われた。何度か総一郎を打ちのめすと、父は竹刀を木刀に変えた。一度打たれた途端、相手の刀が肥大化して見える、あの恐ろしい感覚が蘇った。
 翌日からは、総一郎の起床時間が一時間早くなった。
 父に命ぜられた通り、加護を貰ったあの山を登るためである。石階段を十往復して来いと言われ、無謀だとも思ったが、反抗しようとは思わなかった。
 素振りを済ませ、水を数本持参して、入り口に立った。息を深くついて、駆けあがる。すぐに、息が切れた。折り返し地点である頂上の神社は、見えもしない。
 初めて頂上に辿り着いた時、朝食の時間を過ぎていた。急いで階段を駆け下りたが、家には帰ることが出来なかった。水の横に、握り飯が二つ、置いてあったのだ。それは優しさの様で、十往復が終わるまで帰って来るなという意思表示でもあった。
 十往復が終わるころには、日も暮れかかっていた。
 石段にもたれながら、自分は何をしているのだろう、という気分にさせられた。酷く、無為な事のように思えたのだ。烏の鳴き声に、俯いて歯を食いしばった。昼食を抜いていたが、食欲はとうに失せていた。
 徒労感を抱えて帰ると、木刀を渡された。昨日削っていたものを、完成させたのだという。それを生気無き瞳でじっと見つめていた時に、ぽん、と頭に手が乗った。次の「よくやった」の声で、初めて報われたという気がした。
 真剣での立会は、行われた。少しだけ腰砕けになるまでの時間が伸びたと言われ、誇らしい気分になれた。
 その日総一郎は、正体を失くして泥の様に眠った。


 夏休みのあの日から、ずっとそんな日々の連続だった。
 山を登らせられて、真剣で対峙し、木刀で打ち合う。意外にも、真剣での立会が一番辛かった。しかしそれだけ、何かがある、というようにも思った。
 実際、何かを掴みかけている、という感覚があった。雲を掴むようでもあったが、いずれ掴める、というのは確信にも近かった。
 だが、不意に総一郎は、魔法に対する渇望に襲われた。
 剣だけでは、満足できなかったのである。それを父に伝えた所、一拍置いて許可が出た。一週間に一度、白刃にて対峙するのみで稽古を終えるという日が作られた。日曜日の今日が丁度その日で、禁断症状が出掛かっていた総一郎は、目をギラギラと輝かせて魔法書を読み漁った。
 今読むのは、闇魔法について言及している新書である。
 闇属性の加護を与える亜人というのは、存外に少ない。というのも、その大抵は悪魔に偏られるからである。日本の妖怪などでは夜雀なども与えてくれるようだったが、大抵は夜叉や鬼女、中には魔王と称される山本五郎左衛門なんかも、闇属性を授けたという記述が載っていた。
 総一郎の予想では、あの『ナイ』と名乗った少女の加護である事は、確かな事だった。しかし、それにしては明朗にして可憐な少女であったので、悩ましい事である。一通りその本は読んでしまったが、それ以上の情報は出てこなかった。
「ふー」
 声半分息半分と言った風な吐息。頭がいい具合に痺れる感覚に、畳に転がりぼんやりと虚空を眺めた。ふと視線を感じて横を見る。襖が微かに開いているが、そこに人影はない。無いながら、分かってしまった。笑いながら、声をかける。
「白ねえ、出ておいでよ」
 言うと、露見したのが恥ずかしいとでもいう様に、唇をもごもごさせた僅かに赤面している白羽が、光魔法を解いて姿を現した。
 総一郎は自分用に持ってきておいたお菓子袋を引っ張りだし、分けるようにして白羽とつついた。頭の軋みも取れて、立ち上がる。まだ、日は高い。その為、白羽を空中散歩に誘った。
 子犬の様な愛らしい笑顔で、白羽は首肯する。
 翼を広げた白羽が飛び上がるのを見ながら、総一郎はまず重力魔法で自重を軽くした。更に風魔法を身に纏い、最初だけ物理魔法を使って飛びあがる。それで白羽を追い越すと、ムキになって彼女は総一郎を追い越し返す。総一郎も笑いながら、風魔法で白羽の上に浮き昇った。
 そんな他愛のないやり取りが連続して、いつの間にか遥か高くに舞い上がっていた。町がフィギュアの様に細かく小さい。そんな景色に感動しながら、総一郎は不思議な全能感に包まれていた。と同時に思う。ただ剣だけの勝負ならいざ知らず、魔法も交えれば父との稽古でも、一本くらいならばとれるのではないかと。
 周囲を見回しても、白羽以外に上空を飛ぶ人間はいない。殊更、空高くを飛んではならないという法律や規則もないというのに、である。それはつまり、ここまで飛び上がることそのものが、困難だからではないだろうか。この景色は、毎日見ても薄れる事は無いほどに美しいのだから。
 そんな風に思ってから、稽古に対する真摯な態度は変わらずとも、総一郎は父を侮るともいえない、小さな不満を溜めこむようになった。
 稽古を始めた理由を、教えてくれない。というのが最も比率の高い不満だった。三種の稽古は、それぞれ辛いながらも納得できる。しかし、今まで気配もなかった稽古を再開させた理由くらい、と思ったのだ。
 そして、とうとう鬱憤を晴らすべく、総一郎は父に直談判を敢行した。
「お父さん、何で、稽古を再開しようと思ったのですか?」
 真っ直ぐな目で尋ねたのは、山登りにも慣れた夏休み最後の日の、午後の事だ。真剣での対峙は終わり、竹刀での打ち合いに入る直前の空白時間を狙ったのである。
 父はそんな総一郎を、無表情のまま、何処か値踏みするように見据えていた。総一郎は、それに負けるつもりは少しもなかった。睨み合っていると、父はふいと視線を逸らして「付いて来い」とだけ言った。
 そこは、掛け軸の裏にあった。
 掛け軸は取っ払うと、分かりにくい扉があった。それに驚く暇もなく父は入っていき、総一郎も追っていく。電気をつけると、その中の部屋は小さいのにも拘らず雑多な古ボケた本で溢れていて、「書斎だ」と一言父は言った。
 だが、それで終わりではなかった。
 父は部屋の中央にあった机を退かし、床を探った。しばしそれが続くと、父は何らかの感触を得たようで、その場所を強く押して床戸を開けた。まるでも何もない、秘密扉である。その階下には無機的な階段が伸びていて、最後には闇に呑みこまれていった。
 父はその手に光魔法を灯し、部屋に投げ入れた。闇は一瞬の内に光に食い破られ、常人にも問題ない程度の光量を保ち始める。父に連れられ、下りて行った。階段は、急だ。
 そこに在るのも、本だった。だが、上階のような煤けた雰囲気は無い。古いのだと推察できるものは有れど、どれも整理整頓され、それぞれ妙な存在感を放っている。ある一冊に目を惹かれ、それに手を伸ばそうとした瞬間に、父はそれを制止した。その声は、隠しきれない必死さがあった。
「……お父さん。ここは一体……」
 父は問いに答えないまま、黒々とした数冊の本を取り出した。その数冊を見て、総一郎は思わず息を呑んでいた。存在感、どころではない。禍々しい瘴気を纏っている。
「この本は、まだ安全な方だ。見ても、害はない」
 逆に言えば、見るだけで害を及ぼす本がこの部屋には在るという事だった。
 恐る恐る、総一郎は覗き込んだ。アラビア辺りの字が気違い染みた羅列を残していて、見るだけで嫌な気分になってくる。本に視線を落としたまま、父は闇魔法を授けた者に心当たりはあるかと問うた。
「多分、女の子だったと思います。自分が神であると、言っていました。確か、イギリスや、エジプトなどの国の神だと……」
「……名は、聞いたのか」
「ナイ、と。日本では、かつて『持たない神』と呼ばれたとの事です」
「容姿は、どうだ? 醜いか、それとも美しいのか」
「可愛らしい、子でした」
 言いきってから、総一郎は震えるように息を吐き出した。息が詰まるとも言うのか。吐き気とも知らぬ不快感が、喉のあたりにへばりついている。
「……そうか」
 目を瞑って、父は言った。数瞬の間があり、ため息とともに緩く開かれる。何か特定のページを探しているのか、紙擦れの音と共に捲られていった。そして、手が止まる。
 その中央には、しなびた人のような、足が三本の、頭が舌のように尖った怪物が描かれていた。
「お前に闇魔法の加護を与えたのは、恐らくコレだ。『無貌の神』。持たない、というのは、きっと顔の事だろう。渾沌を好み、破滅を誘う。外宇宙の強大な神々の内の一柱だ」
「ずいぶんな言い様だね。総一郎君のお父さん?」
 総一郎は、バッと顔を上げた。総一郎と父の眼前。そこに、愛らしい笑顔を浮かべたナイが立っている。
「……お前が、件の『ナイ』か」
「うん。――でも、ひっどいなぁ~。こんなにすぐにバラされちゃうなんて、思ってもみなかったよ。どうしようかな。腹いせに殺して、総一郎君の記憶も消して帰ろうかな?」
 笑みは、いつの間にか歪さを灯していた。蝋燭の火に、油を足していく様にも似ている。総一郎は、一歩下がって警戒態勢を取った。幸い、手にしていた木刀は手放していない。しかし父は動じもせずに、淡々と尋ねていく。
「何故、総一郎に興味を持った」
「だって、こんなに可愛いんだもん!」
 ナイは飛び上がり、総一郎に押し倒してその唇を吸った。もがいて逃れようとするが、上手くいかない。ナイの力が強いのではなく、思い通りにさせない方法を熟知していると言えば正しいのか。
 彼女の短い髪が顔にかかり、甘い匂いが香った。睡蓮の花にもよく似ている。甘く、女を意識させる匂いだった。舌が口に入るのを、必死に拒む。
 集中した反動か、その手は、彼の幼いながら引き締められた肢体を柔らかく撫でつけた。快感が走り、余計にもがく総一郎。ナイは唇を放して、淫靡に笑った。伝う涎が、少年と女神を結び付ける。総一郎が暴れたせいなのか、その衣服は少々の乱れを見せていた。
「下らない誤魔化しは止めろ」
 父の何処までも冷静な声が、部屋中に響いた。
 一瞬、ナイの表情が抜け落ち、しかし喜悦を含んだそれに戻っていく。馬乗りからしな垂れかかるようにすると、その体温が一層近く感じられた。純白の柔肌の感触が、総一郎の体の血の巡りを加速させていく。耳元に、囁かれた。
「……総一郎君のお父さんって、厄介だね。本当に、ここで殺しちゃおっかな」
 止めろという言葉は、力なく首を絞める手によって阻まれた。だが、その表情は慈愛に満ちているようにさえ見える。母親が赤子を抱く視線。愛しい恋人を感じる唇。ある種の期待を込めた目は総一郎から外され、ゆったりと背中を曲げながら、ナイは上体を起こして肩越しに父を見やる。
「――そこまで言うなら、教えてあげるよ。総一郎君はね、……特別なんだ」
 父に向けられた笑みは、先ほどの歪なそれだ。ならば、先ほどの愛しいそれは何なのだ、と訝しむ気持ちが湧く。
「総一郎君が生まれた同日同時刻、数人の赤ちゃんが、世界中の様々な文化圏で生まれ落ちた。その間には、人間である事くらいしか、共通点が無いような子供たちだ。でも、ただ一つだけ、共通点がある事をボクは知った。……何だと思う?」
 父は変わらず、唇を一文字に引き締めている。
「ボクにも、ある先からの未来が見えないんだ」
 面白くて仕方がないという声だった。
「ある程度なら、見える。けど、それ以上はいけないっていうのかな。木っ端妖怪がその先まで見ようとしていて苛立たしいから殺してしまったけれど、多分、放っておいても奴は死んだよ。多くの神を従えるボクでさえ、総一郎君の未来は少ししか見えない」
「少しって、どのくらいなの?」
 険しい顔で、総一郎はナイを見上げた。ナイは視線を戻し、にこ、と笑って言う。
「大体、二年後くらいかな。一種の、契機があるんだと思う。それがまだ確定していないから、見えない。その先の未来が、どの様になるのかがね」
 そのまま、彼女は立ち上がり、目を細めて父を見た。笑んでいるものの、敵意が滲んでいる。「じゃあ、そろそろかな」と言った。女神の目の色が、金色に変わる。
「これだけ可愛い息子さんの事を教えてあげたんだ。冥土の土産にはちょうどいいでしょ? そういえば、総一郎君、マヨヒガで雷神が同じようなことを言っていたね。あの時の様に、ボクを止めてみる?」
 総一郎は、ナイの手を握り拘束しようとした。しかしその手は空を切り、ナイは気付けば父の目の前に居る。
「何か、言い残すことはあるかな」
 長身の父を見上げながら、人差し指の先を使い、艶めかしい仕草でその顎筋を撫でる。父は死に直面しても変わらず、冷たい声と共にその指を平手で打ちすえた。
「ここは、私の家だ。今すぐ、出て行って貰おうか」
 凄惨な笑みと共に、ナイの指先が空中を走った。禍々しい赤い印が、くすんだように光りはじめる。それを、父は刀を振るって砕いた。赤い印は、煙の様になって掻き消えた。
 その刀を、ナイは奪い取っていた。返す刃で父を両断しようとしている。素早く、外れはしないだろうと思わせる剣筋。父はそのまま、背後の壁を叩いた。
 ナイが、躰を折って崩れ落ちた。
 父は変わらず、力を入れず壁を叩いている。独特の、規則性のないように思えるリズムだった。這いつくばった女神は、驚愕と憎悪に染めた表情で、苦しげに父を見上げる。父はもう、彼女の事を見ようともせず、総一郎に命じた。
「総一郎、これの首を刎ねろ。お前の持つ木刀ならば、可能だ」
 その言葉に、総一郎は恐怖した。ナイの言葉も恐ろしかったが、それは総一郎に殺人を強要させるものではなかったから、ここまで恐ろしいとは思わなかった。だが、今は違うのだ。父は本気で、総一郎に殺しをさせようとしている。
 だが、そんな総一郎の様子を見て、父は最後とばかり壁を強く叩くだけだった。崩れ落ちたナイには脇目も振らず、総一郎の木刀を取り上げて振るう。ナイの首が、あっさりと飛んだ。その断面から黒い煙が湧いて出てきた瞬間に、最初から何も居なかったように、ナイの死体は姿を消した。
「光、音、そして空間魔法だ。お前に知覚できないようにしてから、ここから消した」
「……空間魔法とは、何ですか」
「いつかお前に出させた、あの虹色に輝く魔法だ」
 もうここに用は無いとばかり、父は踵を返し、「もう奴は日本には来れない。だが、油断するな。死んだという訳ではないのだ」と総一郎に告げて、階段を上り始めた。
 結局、稽古を始めた理由は告げられない。しかし、尋ねるのは愚かな事だった。すたすたと上る父の後姿を見送りながら、総一郎は一度、軽い力で壁を叩いた。「お前にはまだ早い」という言葉に、ビクッと身を震わせて、急いでその後を追っていく。


 これは、その日の夜食の事だ。
「白羽。総一郎と手合せする気はあるか?」
 父の言葉に、子供たち二人は顔を上げた。そもそもの意味が分からないとでも言いたげに、白羽は「え?」と首を傾げている。
「ライラ、白羽はどの程度だ」
「天使としては半人前って所かしら」
「……そうか。まぁ、その程度ならいいだろう。総一郎、一度、白羽と手合せをしろ」
 言われて、戸惑う姉弟。総一郎は言う。
「ちょっと待ってください。白ねえは、光、火魔法は使えますが、それだけじゃないですか。稽古をつけないで手合せなんて無謀です」
「私は、そのお前の驕りを正したいのだ」
 父の言葉に呆然となる。驕りとは、どういう事か。それでは、総一郎が白羽に負けるとでも言うのか。
 総一郎、と父が呼ぶ。
「今回の件で、私は自らの考えが浅薄であった事を知った。お前は、過ぎるほどに謙虚であったほうが良い。蟻とも、蚊とも言えない。それが、お前自身の強さであると」
「……そこまで、白ねえは強いのですか?」
「白羽、どうだ」
 男たちの視線が、白羽に向かう。少女は一瞬考え込んだが、結局、首を傾げた。
「やってみるまでは、分かんないよ」
 勝つ可能性を加味した判断は、総一郎に反骨心を抱かせた。白羽は母に何か教えてもらっている事はあったが、総一郎の様に辛い修行という物を経ていない。しかし、父は勝つと思っているのだ。それならば、今までの稽古が実を結ばないではないか。
 半ば意地になって、夕食の残りをかっ込み、総一郎は立ち上がった。「ごちそう様!」と叩き付けるようにして、道場に向かう。
 素振りをし始め、十分が経った頃に、白羽と父が現れた。白羽は総一郎と目が合うと、挑むように輝く瞳で、好戦的に笑みを浮かべてくる。総一郎は、敵意を見せるように木刀を振った。風断ちの音。頭が冴えていく。
 お互いに一定の距離を取り合って、向かい合った。総一郎は木刀を構え、白羽は何も持っていない。魔法を使っていいのかと父に問えば、当然だとの事だった。
「総ちゃん。忘れてるみたいだから言うけど、私、種族魔法が使えるから、結構強いんだよ?」
「あんなの、風で飛ばせば何とかなるじゃないか。そんなのは強いとは言わないよ」
 言い返すと、白羽はむっと唇を尖らせた。総一郎は少し大人げないことを言ったと思ったが、白羽は気にするタイプでもないし、むしろ手合せに対する意気も揚がるだろうと考え、弁解は口にしなかった。
「では、双方――始め」
「主よ」
 いつかの母の様に手を組んだ白羽が、俯いて、言葉と共に翼を広げた。改めて見れば、記憶より一回り大きいような気もする。翼から羽根が舞い、彼女の周囲を包み込んだ。問題にもならない、と視線を鋭くし、総一郎は駆け出す。
 先ほどの通り、風魔法を使った。羽根は易々と吹き飛んで行き、瞬時に白羽を肉薄にする。すかさず木刀を振るった。総一郎の得物は、白羽の胴体を両断した。
「え?」
 彼女の体は瞬時に崩壊し、大量の羽根に変わる。幻覚だと気付いた時には遅かった。白羽の翼の断片は、総一郎に大量に付着していた。
「地に下り立つ為の、羽ばたきを下さい」
 総一郎に触れた多くの白き小さな翼は、その微毛を自らの分身として、白羽のそれと全く同じに生まれ変わった。総一郎はそれらが一度に羽ばたくことによって、強い力で地面に押しつぶされる。
 その力を失くすべく、風魔法を使い体のあちこちから生える翼の周囲から空気を奪った。羽は、空気があるから羽ばたける。しかしそれにも関わらず、総一郎の枷は外れなかった。
「無駄だよ、総ちゃん。その翼は主から賜った、『飛ぶ』という概念を纏ったものだから、物理……だっけ? そういう原理から、外れてるの」
 お父さん、これで終わりで良いですか? という白羽の素っ気ない宣言に、強くもがき続けた。脱出することは、叶わなかった。十秒近く、父の冷めた視線を受け続け、総一郎が力を失ったのと同時に、立会いの終了が告げられた。
「えっと……。じゃあね、総ちゃん」
 試合前と何ら変わりのない声音に、総一郎は深い衝撃を受けた。羽根による拘束が無くなっても、立ち上がれなかった。ただ、今までの苦労は何だったんだ。と思わせられる。脱力している間は、何も起こらなかった。歯を食いしばった瞬間に、涙が伝った。
 総一郎にとって、白羽は守るべき相手だった。何よりも、大切にしなければならない存在だった。
 それも碌に適わないのだと知ると、重たい無力感が全身を包み込んだ。
「総一郎、それがお前の今の強さだ。守りたい相手にさえ、負ける。その事を、心に刻み込め」
 父の足音が、段々と遠ざかっていく。道場の電気が消され、暗闇が満ちた。やむなく、総一郎は立ち上がり外に出た。人のいる場所に、居たくなかったのだ。
 満月が、空高くに輝いていた。しかし蛍は飛んでいない。鬼火も、今日は居ないようだった。総一郎以外、何も居ない。それが有難いようで、何故か寂しさが募った。
 その時、腕に蚊が止まっているのに気付いて、考える前に叩いていた。手を退ければ、潰れて死んだ蚊が掌にこびり付いている。
 父の言葉が、脳裏によぎった。井戸の脇を見れば、いつか建てた蟻の墓がある。
「弱かったからだ」
 ぽつりと、呟いていた。蟻は、溺れない。だが、あの蟻は特別弱く、故に溺死した。蚊も、同じだ。総一郎に気付かれないだけの力量が無く、叩き殺された。
『蟻とも、蚊とも言えない』。それほど、総一郎は弱い。ぐ、と噛み締めて、月を見上げる。 重力魔法で自重を軽くし、物理魔術、風魔法をひたすらに使っても、到底届かない成層圏のその先。その存在すら知覚せず、総一郎は中空で驕っていた。
 蟻や、蚊と同じなのだ。何も知らず、自分の弱さも分からない。潰れて手に付いた蚊の死骸を、総一郎はじっと見つめていた。
 月の光を一身に浴びながら、一人静かに磨り潰す。

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