武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

2話 彼女

 二歳のある日、総一郎は何故、自分は死に別れた彼女の事を思い出さなかったのだろう、と思った。 髪が長くなり、ある程度ちゃんとした体形を得た三歳の姉、白羽が、生前かつてアルバムで見た、読書好きの彼女の幼き姿に瓜二つであると気付いた瞬間であった。


 総一郎は、とても早熟な子であると良く言われた。
 一歳の初めには姉である白羽をあやし始め、二歳の初めの夏にクイズ番組に食い気味に答えを呟いたのが露見し、家族中が騒然となった。
 あの荘厳な父でさえ、目を丸くしていた。
 逆に、姉である白羽は、少しだけ育ちが遅い、と言われていた。
 しかし、と総一郎は思う。それはただ単に自分が前世の記憶を残しているから早熟であるだけで、姉である白羽だって、成長は早い方であると思う。
 二歳丁度には片言ながら文章で話し、親譲りの気性の強さを見せつけた。我が儘をよく言ったが、その度に叱られ、その度にまぁまぁ上手い言い訳をした。だがその大抵が総一郎に罪を押し付ける形になっていて、無言で総一郎が彼女の頬を抓ると、その上、父の雷が彼女の頭上に落ち、泣きに泣いた。
 普通よりもしっかりしているだろうに、と総一郎は白羽の頭を撫でる。大人しく撫でさせてくれるのは、いつまでだろうか、と思うと、寂しくなる。


 気付いたのは、そんなある日、白羽が、足の届かない椅子に座り、本を読んでいる時だった。
 口を尖がらせて、熱心に見つめている。ふと、総一郎は惹きつけられて、「白ねえ、何やっているの?」と聞いたところ、「お父さんの本読んでるの」、と返されたのだ。生憎と持ち手が逆さまだったが、その姿が、総一郎には妙に懐かしかった。
 そこで、思い出した。
 死ぬ間際、恐怖に歪んだ彼女の泣きそうな表情。血の臭い。音を立てて昇る炎。そして、あの少年。
 息を呑んだ。何で忘れていたのだろう、と思った。思って、総一郎は、今更になってから、恐怖のために泣きじゃくった。
 生まれて初めての総一郎の号泣に、家族の内の、誰一人それを宥めることが出来なかった。


 それ以来、総一郎はふさぎ込むようになった。形無き何者かに怯えるようになった、と言っても、間違いはあるまい。母は悩み、父も悩み、白羽だけは単純に不満そうに頬を膨らませた。
 しっかりとしたといえども、まだ三歳。自分よりも一年新参である総一郎が、両親の注目を一身に浴びている事に、嫉妬したのである。
 彼女の悪戯は多岐にわたった。玩具を壊しおしゃぶりを隠した。しかし総一郎はその二つにまるっきり興味を抱かないので、結局、辞め時を見失った悪戯の途中を母に見咎められて、諭されるように叱られて泣いた。
 次にトイレの鍵を閉め、裏窓から脱出するという妙に賢い悪戯を仕出かした。総一郎が動くのはここ最近、トイレと食事と睡眠という、動物染みた物のみになっていたため、それを読んでタイミングよく行った。 しかし総一郎は二歳の為、漏らしてしまっても、今まで漏らさなかった分かえって両親に心配されるだけで、逆効果だった。
 そんな訳で、白羽は総一郎に対して、直接攻撃と言う手段に出た。

 睨み顔で、白羽は総一郎の眼前に立っていた。腰に手を当てての、母が起こる時の真似である。しかし三歳。最初に何を言えばいいのかが分かっておらず、とりあえず「ダメでしょ!」と、総一郎に怒鳴りつけた。
「……何が、駄目なの?」「何でも、ダメなの!」
 一層睨み顔をきつくするが、三歳児が怒ったところで可愛らしい事には変わりはない。勝気そうな釣り眉がさらに上がっているのが、たまらなく愛おしい。そういう無邪気なところが生前の総一郎の彼女にどこか似ていて、総一郎が対応を嫌がらない相手は今の所白羽だけとなっていた。
「そんな抽象的なことを言われたって、分からないよ」「分かるの! 分からなきゃいけないの!」
 ちゅうしょうてき、とはどういう意味かとすら考えない白羽は、言葉尻だけを拾い上げて癇癪を起している。 総一郎は、中身自体は青年であるので、何とか彼女の思惑をくみ取ろうと会話を続けた。
「白ねえは、今、何で怒っているの?  何が嫌で、そういう事を言うの?」「だって、お父さんも、お母さんも、みんな総ちゃんの所に居て、私だけ、一人ぼっち……」
 言いながら、白羽、表情が泣き顔に歪んでいく。慌てて、「ごめんね」と総一郎は言うが、何が理由でそのようになっているかは、彼自身にも自覚がない。 両親の気遣いが感じられると、すぐに自室に引っ込んでしまう為、気を遣われているという自覚自体が、そもそもなかったのである。
 だが総一郎は、白羽と話をしているだけで、少しずつ元気になっていく。それも無自覚であったが、流暢に話す総一郎を見て、白羽はふと、こんなことを言った。
「総ちゃん。何で、あんなに恐がってたの?」
 言われて、総一郎はどきりとした。こんな小さな子にも分かるほど、自分は怯えていたのだと、事実を突きつけられた。
 言うべきか悩み、小さい子にも分かるよう、噛み砕いた上で単語を置き換えて、まごつきながら、告白した。
「大切な玩具が、あったんだ。他の玩具全てに代えても守りたい、宝物だった。だけど、他の玩具全てを上げたのに、玩具を壊す癖がある子に、もしかしたら取られちゃったかもしれないんだ」
「取り返せばいいのに」
「取った子が、今何処に居るかも分からないんだ。……ううん。違う。別に、取られるだけなら、良いんだよ」
 訝しげな表情で総一郎を見つめる白羽。取られた物は取り返すべきだと、勝気な彼女は思っている。また、父もそのように育てていたのである。
 しかし、次に総一郎が言った言葉に、彼女は何故か総毛立つような思いをした。
「その子が玩具を大切にしてくれれば、僕は満足なんだ」
 俯き、震える声で言った総一郎の耳に、突如、大きな翼が羽ばたくような音が聞こえた。しかも、虚ろだった目には、床越しに、目が眩むほどの光が届いた。 思わず視線を上げて、総一郎は目を剥いた。白羽の体が、目映く光っている。そして、その背中からは、見事な翼が生えていた。
「な、何? それ……」
 戸惑いながら言った総一郎の頬にその小さな手を当てて、白羽は優しげな笑みを浮かべ、ゆっくりと笑いかけた。 その瞬間から、白羽の事が総一郎には生前の彼女にしか見えなくなってしまう。ぽろぽろと零れ落ちる涙に、総一郎は戸惑った。そんな彼を、白羽は優しく抱き留め、こんなことを言った。
「ありがとうね、メール。私の事を、助けてくれようとしたんでしょ?」
 えっ、と総一郎は白羽の顔を見た。彼女の表情は白羽の物でなく、完全に彼女の物に変わっていた。
「ち、違うよ。俺はただ、デートの時に風邪をひいちゃっただけで、」
「貴方は、寸前で断りを入れるような人じゃない。ただ、プロポーズの事だけは、言って欲しかったな。……あんな別れ、悲しすぎるよ」
 彼女だ。と総一郎は確信した。彼女が、ここにいる。異世界に来てしまった自分より一足先に来て、自分を待っていてくれたのだ、と。
「でも、言ったら、君は感づくじゃないか。優しい君は、俺を助けようと考えるじゃないか。そんなことで君が死んだら、報われないよ。だから、言えなかったんじゃないか。だから、言わなかったんじゃないか……!」
「そうだよね。ごめんね? 貴方、メールしながら、泣いてたよね。怖かったもんね。だから私、助かったよ? 貴方が命を掛けてくれたから、私、助かったよ?」
 彼女の表情は、くしゃくしゃに歪んでいった。それは、若者も一緒だ。お互いに名前を呼び、抱き合って泣きじゃくる。
その日を境に、総一郎は元気を取り戻していった。


「天使の慰め、ですか?」「ああ、そうだ」
 父は、茶をすすりながら、そう言った。 今回の白羽の行動は、彼女の種族、『天使』に伝わる本能的な行動の一つらしい。
「『天使』の血が白羽は強く、その証拠にあの子の背中には、小さな羽が生えていた。逆に、『人間』の血が強いお前には、羽が生えていない。この違いは幼い頃はほぼ無いも等しいのだが、今回の件で大きく表に出た。 天使の慰め、というのは、天使の三大欲求の一つにも数えられている、『求人本能』から来た能力と言っていい。効果は、対象とする相手が、もっとも言って欲しい言葉を、最も救いとなる仕草で言う事だ。当然嘘も混じる事になるが、それを聞いても相手は憤慨しないとすら言われている。 その点、総一郎はどうだ?」「……確かに、嘘かもしれないと言われるとショックですが、怒る気にはなれません」「そうか」
 平然と相槌を打ち、再び、父は茶を啜った。その後彼は、隣の扉を一瞥する。総一郎の視線も、その後に続いた。
 隣の部屋では、白羽は母から天使で居るために必要な事を教え込まれているらしい。父は今しがた三大欲求の一つと言ったが、求人本能は人間でいう性欲に匹敵するもので、この状況は、有り体に言うとかなり早くに生理が来たような物なのだという。
「しかし、何で僕なのでしょう」「何がだ?」「何で、僕に対して、求人本能が起こったのでしょう」
 家族の住むこの街は、都会だ。生前の日本よりも、文明が進んでいるようにさえ思われる。その反面浮浪者なども居て、そんな人にこそ求人本能が起こるのではないかと、総一郎は思ったのだった。
「総一郎、それは違うぞ」 しかし、父に否定されてしまう。
「そもそも、求人本能と言うのは、このように急激な開花をするものではないのだ。天使たちが、生きていくうちにゆっくりと芽生えさえていく。そもそも天使と言うのは寿命が長い。これほど早くに開花したとなると、正直将来が恐ろしいとさえ思える」
「では、何故開花したのですか?」
「それは、その必要があったからだ」
父は、総一郎の目を、真っ直ぐに見つめる。
「天使は、強く、優しく、英雄にさえ成り得る人間が深く悩んでいる時、それに自然と惹き寄せられ、肉体的にも精神的にも距離を限りなく縮めて、初めてこのような急激な開花をする。つまり、お前はその条件に満たしていたのだ」
「いえ、そんな。僕なんか、優しいなんて言っても見捨てるのが怖いだけですし、強くも、無いです。ましてや、英雄なんてありえません」
「しかし、白羽は開花した」
 父の一言で、総一郎は何も言えなくなってしまう。 それに、と付け加える。
「お前は見捨てるのが怖いと言うが、普通は逆なのだ。助けて、それを裏切られるのが怖く、何もしないという場合が多い。その時点で、お前は強さを持っている。それに、優しさもだ。 英雄的であるかは、まだ分からない。だが、今の世では、明晰な頭脳さえ持っていれば、いくらでも世に名を残すことが出来る時代だ。 今度、母さんに魔法を教えてもらいなさい。早いというかもしれないが、私が許したと言えば、アレも譲るだろう」
 それと、これだ。と父は木刀を総一郎に手渡した。
「これは……?」「桃の木の木刀だ。毎日それで、素振りをしなさい。手に馴染んだら、稽古をつけよう」
 嫌と言うなら、やらないが、と父は目を瞑りながら言う。しかし総一郎、生前は剣豪小説を読みふけるほど、刀という物に惚れ込んでいる。
 嵌ったのが社会人になってからの為、遅いと考えやらなかったが、こんな幼少から稽古をつけてもらえるなら、願ったり叶ったりである。
 その目の輝きようを見て、父は「ならば、励め」といって、席を立ってしまう。
 木刀を見つめながら、総一郎は笑みと共に吐息を漏らした。

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