武士は食わねど高楊枝

一森 一輝

プロローグ

 その日は、プロポーズの日だった。
 若者は、鼻歌を奏でながら跳ねるような調子で歩いていた。デートの待ち合わせ場所へ向かうのである。服装は硬すぎず、しかし会社に着ていくには上品なスーツだ。少々夕食で奮発すると言ってあったから、彼女も少し察しているかもしれない。
 カバンの中には、指輪が入っている。最近のダイヤは安いものがあるが、若者は定石通り給料三か月分の物を選んだ。ぴったりの値段だったのだ。運命であったとしか思えなかった。
 待ち合わせ場所は、いつも通り駅から斜向かいの本屋に決めていた。もっとも、普通なら中に入って何か目ぼしい小説を探すのだが、今回はそういう気分ではなかった。だから、店頭で立ち尽くしている。こんなのも、偶にはいい。
 若者も彼女も、本好きだった。出会いは理系で有名な大学のサークルの飲み会の中、少々の疎外感が切っ掛けで仲良くなったように思う。共通の好みのジャンルは、ファンタジー。なんだか子供っぽいと、お互い笑ったのを覚えている。
 自分が一番好きなジャンルは剣豪小説で、彼女の一番好きなジャンルはミステリー。二番目がどちらもファンタジーで、三番目は互いの一番を交換したような具合となっていた。
 多分、それが大きかったのだ。本好きで一度盛り上がり、『ブレイブ・ストーリー』で二度目に盛り上がり、更に『眠狂四郎無頼控え』、『匣の中の失楽』と続いた。
 あの時は、酒の事もあり二人ともおかしかった。思い出すだけで懐かしくもあって、顔が熱くもある。
 見渡して彼女が居ない事を知った。時間は五分前。暇を持て余すのもなんだったから、持ってきた小説を読むことに決めた。古本屋で、少しボロけた不思議な表紙につられて買ってしまったのだ。内容は分からない。買った本ではあまり後悔しないタイプだから、別にどんな内容でも良かった。
 彼女もこの本を持っていて、何でも主人公がすぐに死んでしまうのだという。語り手と主人公が別なのかと聞けば、『読めば分かるよ』との事だった。酷いネタバレだとも思ったが、若者はあまり気にしない性質である。
 読み出し、確かに主人公がすぐに死んでしまった。ページをめくりながら、推理小説だろうかと目星を付けた。語る彼女の様子が、意気揚々として可愛らしかったからだ。頬を上気させ、身ぶり激しく語るのである。
 だが数ページ後、主人公は生まれ変わりを果たしていた。
 吹き出す若者。思わず、口をあんぐりと開けてしまっていた。理解に数秒を要し、その後に騙されたと口の中で呟く。そういう絡繰りか、と小説をななめ読みする。
 主人公が生まれ変わった先は、いわゆるファンタジー世界という奴だった。しかも、現実の地球に即したところがある。「こんな小説が」と言葉を漏らして、一番後ろのページを開く。今年に出た初版だったらしい。
「結構最近じゃないか」
 言って、集中力の途切れに一度彼女の影を探し、時計を見た。まだ三分ある。彼女は時間ぴったりに来るのが趣味なので、再び本に視線を落とした。三分なんてアッという間だ。
 その時、身を竦ませるような轟音が聞こえた。瞬間、躰が怯えたように微動した。しかし、本からは目を離さなかった。目の前の高いビルには、大画面で何かの宣伝をやっている。恐らくそれだろうから、気にするまでもなかったのだ。
 しかし、通りがかりの人にぶつかられては若者も黙ってはいられなかった。取り落とした本を拾いながら、文句を言おうとして顔を上げた。
 そこには、喧騒があった。
 煙が、上がっている。その元には車があった。高価そうなデザインだったが、見るも無残にひしゃげていた。ぽかん、と若者は口を開ける。大きな十字路の、中心。他の車は危機を察してその前で止まっていて、煙を上げる一台が事故に遭った理由が分からなかった。
「……とりあえず、通報した方がいいのかな」
 距離的には近いはずだが、感覚的には遠かった。突飛な出来事は、近くにあっても別世界、という気持ちがある。平和慣れした、日本人独特の感覚なのかもしれない。
 110に電話を鳴らしながら、煙を上げる車を眺めていた。中の人は大丈夫なのだろうか、と心配になる。その時、車が破裂した。部品が弾け飛び、通りがかりの数人に当たった。
 若者の目の前で、一人の男性がザクロの様に潰れた。
「……うわ、うわ、うわ」
 あまりの非日常性に、目を剥いて後ずさった。電話を落としてしまい、慌てて拾い上げる。それにしても、繋がるのが遅すぎた。しばし待つも答えは来ず、誰かが通報しているだろうと苛立ちにコール音を切った。
 電話に向けていた視線を上げると、煙を上げている車の近くに少年がいる事に気付いた。おや、と思う。次の瞬間、絶句した。彼は、人間の頭らしきものを持っている。
 どうやら、五十代くらいの男性の物の様だった。その下からは、綱のように伸びる黄色い何かがある。
 背骨だ、と何故か分かった。
「……え? 映画の、撮影?」
 戸惑いのあまり、そんな事を思った。撮影現場に、たまたま居合わせてしまったのではないかと。少なくとも、現実にこんな事が起こるよりかはあり得る話だった。
 だが、そこら中に満ちる鉄臭さが、現実であると断言していた。突拍子のない状況に恐慌状態に陥りかけるが、寸前で思い至った。
 もうすぐ、彼女が来る。
 慌てて、腕時計を見た。もう、一分を切っている。視線を巡らすと、三十メートル先に青ざめ、泣きそうな表情をした彼女を見つけた。
 そして騒動の中心に居た少年が、こちらを見ていることに気付いた。
 今度こそ若者はパニックを起こした。逃げろと言えば、彼女にも注目が行くかもしれない。
 だが、このままでは彼女は逃げ出さないかも知れなかった。若者がここにいるかもしれないという理由が、彼女を縛る可能性は高い。
 彼女は、優しいのだ。
 少年は、充血した赤い瞳をこちらに向けて、ぶつぶつと何かを呟いている。そして、少しずつ近づいて来ていた。そこで若者は、震える手で携帯を取り出した。
 メールで、彼女への文面を開く。そこにこう記した。
『ごめん。風邪ひいちゃったから、今日のデート、無かった事にして』
 書いていて、涙が零れた。プロポーズの事も記したかったが、そんなことをすれば彼女はきっと感付いてしまう。俯きながら、祈るように送信ボタンを押した。手の震えのあまり、携帯を落としてしまった。若者は、携帯を拾わなかった。
 少年が眼前に立っている。睨み付けて、問うた。
「何で、こんな事を」
「……」
 少年が何を言っているのかは、若者には到底聞き取れなかった。細かな羅列は、ただ劣等感と狂気にまみれている。振動音が、若者の耳に響いた。それから、視界が真っ黒に染まった。

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