生きる喜びを教えてくれたのは異世界に転生した君でした
62.闘技大会~終結~
右手に優しい温もりを感じて、ゆっくりと目を開く。
そこには見慣れた天井があった。銀月の天井だ。
右手に目をやると、そこにはリズがユウの手を握ってじっと傍に座っていた。
「起きた? お疲れ様」
「ごめん……勝てなかった」
その言葉にリズは首を横に振る。
「あの戦いを見てユウを責める人はいないわ。どう見ても団長の強さが異常だもの」
ユウは最後の決戦で惜しむことなく実現を使用した。徹底的に、まさにシルフィを殺さんばかりの勢いで戦いに臨んだ。しかし、シルフィに対して痛恨のダメージを与えることはできず、結果、意識喪失でこの様だ。
魔力を出し切ってシルフィの腕の中で意識を失う時に、シルフィに何かを言われた気がしたが、何を言われたのかが思い出せない。思い出せないのだから大したことではないのだろうとは思いながらも、頭に引っ掛かったシルフィの言葉が気持ち悪かった。
しかしそれよりも、シルフィに敗北したことが今のユウにとっては最も気持ちが悪いものだった。リズはシルフィの強さが異常だと言ってくれているが、ユウは二度目の挫折に自身を許せない。
ネロとリーンに歯が立たず、そこから1か月以上の時をかけて鍛錬に励み、それなりに力を身に着けてきた。リズを守れる自分を作りあげるために。しかし結果はどうだ、大会に優勝こそできたものの、絶対強者と言われるシルフィを切り崩すことはできなかった。『お前にリズは守れない』と言われているようで堪らなく悔しかった。
――誰にも負けない強さがほしい――
絶対強者を前に味わった敗北は、ユウに心から強さを望ませた。
強くなるために何をするべきか。それはわかっていた。ユウの、ユウだけの武器は『実現』に他ならない。この武器を最大限に強化する。そのために発動に必要な魔力量を増やすとともに、自分の想像力を高める。想像力を高めることで実現が洗練されることはここ数か月、使用してきて実感していることだった。強くなるためのポイントは単純なことだった。
しかし、現実問題として魔力量を増やす方法などあるのかどうかもわからなかったし、想像力を鍛えるといっても感受性を高めることくらいしか思い浮かばなかった。
「また思い詰めた顔して何か考えてる。もう終わったんだから、今は何も考えずに身体を休めたら?」
沈黙を続けるユウを心配そうにリズが覗き込む。
愛する人を目の前にして自分は何をしているのだと自身を叱咤し、ユウは頭を切り替えた。
「そうだね……ごめん。みんなは? 終わってからどれくらい経つの?」
「半日くらいかしら。今は普段ならもう寝る時間。エリーとルカは珍しくもう1つの部屋で一緒に寝てる。私達に気を遣ってくれたみたい。ウィルさん達はまた旅に出るって。精霊石とかいうのを置いて『また会いましょう』って行っちゃったわ。レベッカ達はユウが起きたら『再戦はアタイがもっと強くなったらな』って伝えろってさ」
「レベッカは相変わらずか。ウィルさん達行っちゃったんだね。精霊石って?」
「よくわからないんだけど、私達は持っているだけでいいんだって。持っていればまた会えるって」
「ふ~ん……ネロさん達なら知ってるかな。あ、ネロさん達は?」
「片付けがあるからあと数日は忙しいみたいよ」
「そっか」
寝ながら話すのはリズにも悪いと思い、身体を起こそうとするも眩暈に襲われる。身体をリズの方に横に向けるのが限界だった。
「まだ無理でしょ? はい、お水。その体勢で飲める? 口移しする?」
「え?!」
「ウソウソ、冗談よ」
グラスを手に持ちながらユウの反応を面白がってけらけらと笑うリズ。
してやられたと思ったユウは、仕返しを試みる。
「いや、口移ししてくれるなら大歓迎なんだけど」
「え?! ……うん、今度にしよう。私にはまだハードルが高いわ。ユウって、そういうのも好きなの?」
「相手がリズならね」
「っ! もうっ!」
ユウ自身もリズがその気になっていたら戸惑うことは間違いないのだが、決して嫌ではなかったためにその想いはその想いで伝えておきたかった。そしてその選択は間違いではなかった。まだハードルが高いとは言え、やりたくないわけではないというリズの可愛い反応が見られたことに思わず頬が緩む。
頬を紅潮させたリズから差し出されるグラスを受け取ると、ほのかにリズから石鹸の匂いが香り、鼻をくすぐられる。その甘い香に包まれながら、こぼさぬようにゆっくりと口元にグラスを運ぶと、リズが何やらもじもじとしていた。
「どうしたの? トイレ行きたい?」
「ち、違うわよ! あ……あのね、ご褒美の件なんだけど」
「あぁ、そうだったね。いいよ、何?」
右手をぎゅっと握って離そうとしないリズの顔が俯き、3度ほど大きく呼吸を繰り返す。
こんなに緊張した様子のリズを見たのはいつぶりだろうか。リズの中でかなり勇気のいるご褒美の要求が来るのだろうということがこれだけでわかった。
「……一緒に寝ていい?」
「え?!」
その要求はユウにとってもご褒美となる要求だ。しかし、それを平気な顔で易々と受け入れるにはユウは経験不足であり、ユウの顔も見る見るうちに紅潮していった。そんなドギマギしているユウにリズのダメ押しの一手が加えられる。
「……ダメ?」
目を潤め、はにかんで甘えるように見つめてくるそんな姿を見てしまってはもう受け入れる他ない。そもそも断るという選択肢などないのだが。
「ダッ! ダメなわけないじゃん!!」
ユウは自分の身体をシングルベッドの端へとスライドさせて上掛けのキルトを翻すとリズを迎え入れる体勢を整える。
「はぁ……よかった。断られたらどうしようかと思ってた」
「口移しを要求する僕がどうして拒否するなんて思えるのさ」
「それとこれとは話が別なの。乙女心は複雑なのよ! それじゃ、お……お邪魔します」
「硬いよ。おいで」
そう言ってベッドにゆっくりと入り込んでくるリズを至って冷静を装いながら迎え入れる。いい匂いに包まれ幸せを感じたところで、ユウはとんでもないことに気がついた。
「あ!」
「え?!」
「リズ、ごめん、僕、汗臭いかもしれないからあまり近づかない方がいいかも」
そう、リズの石鹸の香りは入浴したということに他ならない。しかし、ユウは意識を失ってここに運ばれてからずっと寝ていたのだ。戦いで汚れたままの姿なのだ。自分では気づかなくともきっと汗臭いはずだった。
しかし、リズはそんなこと気にも留めない様子で、むしろユウの胸へと顔を押し付けてくる。
「ユウの匂いがする……臭くなんかないよ」
「何でそんなに可愛いことするのさ。嘘でもキュンと来るじゃんか」
「嘘じゃないよ? 臭かったら臭いって言うもの。そんな変に気を遣うことなんてしたくないわ」
「そ、そう? 本当に?」
「本当。ほら、好きな人の匂いはいい匂いとか言うじゃない?」
「まぁ……聞いたはことあるけれど、それ、リズ以外の他の人には臭いってことだよ」
「もう! 細かい! 今はいいじゃない。私しかいないし、私は好きなんだから」
リズの言う通りである。今この瞬間に、もし自分が臭っていたとしても――いや、きっと臭っているのだが――リズがそれを好きだと言うのならこの状況を甘受すべきだ。
腕の中にリズがいる。こんなにもちゃんと、じっくりと抱き締めたのは、初めて想いが通じ合った時以来かもしれなかった。
ユウが感慨深く今の状況を噛み締めていると、リズがポツリと呟いた。
「マルス副団長にね、ユウは私のこと、女として見てないって言われちゃった」
「え? 部屋に来いって言われたんじゃないの?」
「それも言われたけど、どうして知ってるの?」
「団長が団員の風の精霊の力で2人の会話を聞いてたって。副団長がリズに不快な想いをさせて申し訳ないって詫びてたよ」
「そうなんだ」
「で、女として見てないっていうのは?」
「男は女にホイホイ手を出すもんだって。それで私に手を出さないユウは私を女として見てなくて、他の女には手を出してる~とか意味わかんないこと言ってた」
「確かに偏見過ぎるね。男がみんな女性にホイホイ手を出すわけじゃないし、僕はリズをがっつり女性として見てるし、リズに手を出したい気持ちがないわけじゃないし」
すると、胸の中でリズが縮こまって身を固くしたのがわかった。
「あ、ごめん、別にどうこうするつもりはないから安心して」
「ううん、警戒したわけじゃないの。やっぱり、そう言ってもらえるのって嬉しくて。ユウは……したことあるの?」
何を、とは言わないがここで察しなければ流石に野暮と言うものだ。言葉に出さないということは、リズもその言葉に抵抗があるということなのだから。
「向こうではボッチの15歳で、心を許せる人もいなかったんだよ? 行き場のない鬱々とした感情と戦ってばっかりでそんなこと考えもしなかった」
「そうよね……ごめん」
「虚しくなるから謝らないでよ」
「ふふっ、ごめんね、あっ」
「まぁもういいけどさ」
思い返しても、向こうの世界での出来事はやっぱりいい想い出とは言えない。辛いと感じていたのだから、幸せを感じていた時期もあったはずだ。幸せを知らなければ、辛さなどわからないのだから。しかし、自分の中で芽生えた幸せの感情は、全てリズと出会ってからの記憶しかない。いや、それは言い過ぎか。ほんのひと時であれ友達と呼べる存在がいた時には明確に『幸せ』とは思わなくても居心地の良さを感じていたのだろう。だからきっと辛さを知ることとなったのだ。
「……したいと思う?」
「え、何を?」
過去に想いを馳せていたため、反射的に言葉を発してしまったことを後悔する。
リズの顔を見ると恨めしそうな視線をユウに向けていた。
「あ、ごめん。えと……まぁ興味はあるけど、その興味を満たしても得られる幸せって今感じている幸せとは別物な気がするんだよね。こうやってリズを抱きしめているだけで、すごい幸せなんだ。だから、この今の幸せな気持ちを汚したくないというか。汚すっていうのは語弊があるけど、なんというか――」
「うん、わかるよ……私も同じ感覚」
とは言っても、向こうではリズも社会人であり、ユウよりも9つも年上だったのだ。そういう経験もきっとあったに違いない。気にならないと言えばウソになるが、だから何だと言うのだろう。今こうして自分の腕の中で幸せそうな顔をしているリズがいる。それでいいのだ。
しかし、そんな胸の内を見透かしたのか、リズはユウに思わぬ告白をする。
「色々と迫られたことはあったけど……ファーストキスも、ユウが初めてだからね」
「……わざわざ言わなくてもいいのに」
「だって男の子ってそういうの気にするって向こうでよく聞いてたから、念のためと思って」
「うん、実を言うと、ちょっと気にしてた」
「ほらっ」
女性の口からこういう話をするのは恥ずかしいだろうに、リズは躊躇いもせずにその事実を明るく告げる。それもユウを想っての優しさなのだろうと思うと、愛しさで胸が締め付けられた。
「ありがと、リズ」
「こちらこそ。いつも幸せをありがとう」
2人は見つめ合うと、優しく唇を重ねる。静寂に包まれる部屋には唯一、幸せを噛みしめる2人のささやかな笑い声だけが響いていた。
もう1つの部屋では、すやすやと眠るエリーを傍目に、ルカが緊張のあまり一睡も出来ていないことなど知る由もない。
◇◇◇
「カッコ悪かったのぉ。ダサダサじゃったのぉ」
「あ゛ぁ!! うるせぇっ!!」
「『俺様の女になれ』とかドヤ顔しておきながら一発ですものね。あれは酷かったですわ。ギルが帰ってきたら事細かく話してあげないとですわ」
中身を飲み干すと、空の杯を勢いよくテーブルへ叩きつけるマルス。向かいに座ってちびちびと葡萄酒をなめながらそんなマルスを貶めるのはシルフィとイリーナだった。
「うるせぇっつってんだろ! イリーナてめぇ犯すぞ!」
「まぁ品のない。お姉様、この赤ゴリラどうにかしてくださいます?」
「品格に欠ける発言なのは間違いないが口だけじゃ。今は放っておけ。……マルスよ、あの娘、どうじゃった?」
「いい女だな。もう少し年喰った方が美味そうだ」
「冗談も程々にせぃ。我が聞いていること、わかっとるじゃろう?」
シルフィの笑っていないその顔を見て、マルスも観念したように溜め息を吐く。
「……どうもこうもねぇよ。なんだあの怪力。身体強化を極めた俺様が一発? ありえねぇ。言っておくが、俺様も全く手加減はしてねぇぞ。あの一発を受ける時も、身体強化はちゃんとやってたかんな」
「ふむ……そろそろ世代交代なのかもしれぬな」
「ざっけんなっ! 俺様はまだまだやれっぞ!」
「なら鍛錬に励むことじゃな。あんな無様に負けるのであればお主のことを『鬼人』なぞと呼ばさせとうないわ」
「……わぁったよ、クソババア」
「こんの赤ゴリラ!! お姉様になんて口の利き方を!!」
「イリーナ、よい、今更じゃ。じゃがマルス、クソはやめぃ」
「へいへい」
神都の城内の一角に居室を持つ団長の室内で、シルフィとイリーナは夜通し、反省会という名のマルスいじり会を続けた。負けてしまった手前、マルスは何も言えずに、ただ目の前に並べられた酒の肴程度のつまみを手にとり乱暴に頬張って時を凌ぐことしかできない。しかし、そんなマルスにもまた、新たな目標が出来ていた。マルスが勝てない存在は今やシルフィと黒魔剣士ネロくらいであり、その2人にも『力』で負けることはなかった。そんなマルスにとって、完膚なきまでに『力』で圧倒されたリズは新鮮だったのだ。
「天翔ける竜リズ・ハート……惚れたぜ……」
そう呟くマルスの言葉を、聞き間違いかとシルフィもイリーナも二度見する。恋など愛などに全く無頓着で女をただの情欲の発散相手としか思っていないマルスから『惚れる』などという言葉が聞こえたのはきっと聞き間違いだと、シルフィもイリーナも目を合わせては頷くのだった。
◇◇◇
「よろしかったのですか? 直接お別れを言わずに」
「よいのです。ウィルの精霊石がありますし、これが今生の別れというわけでもないのですから」
昼間にギフティアを発ち、次の街へと旅を再開したメルとウィル。夜も更けてきており、今は野営をしながら昨日、今日を振り返っていた。
「そうは言われましても――」
「よいのです。本当はユウ様とリズ様の仲睦まじい様子を遠くから確認するだけのつもりだったのですから」
「あ、それ、強引に昨日の祝勝会に連れていった私への不満ですか?」
「あら、よくわかりましたね」
「そんな――」
「冗談です、昨日は昨日で楽しかったですし、感謝していますよ」
「もったいないお言葉です」
焚火で温めたミルクを金属のカップに注ぎ、両手でそのカップを包み込みながら遠い目をして空を見上げるメル。つられて見上げれば、夜空には満天の星空が広がっていた。
メルがこうして時折見せる物憂げな表情を、ウィルは静かに隣で見守っている。この可憐な少女の視線の先には、今は亡き両親がいるのか、はたまた淡い恋心を抱いていたユウがいるのか、それは定かではない。本人曰く、ユウへの恋心は最早ないとのことだったが、乙女心というものは複雑なのだ。年頃の少女が、果たしてそう簡単に切り替えられるものだろうか。しかし、結論がどうであれウィルにはメルの心に踏み込む資格はない。それは一介の従者としては出過ぎた振る舞いだ。今はこの主を守り、この主の命に従い、この主に尽くすことだけがウィルの使命なのである。自らに授けられた使命を見つめ直していると、メルがカップを地に置き、両手でメル自身の肩を抱きしめる仕草をする。
「ウィル……寒いわ」
「毛布を出しますね」
メルとは反対側に置いてある荷袋に手を伸ばそうとすると、メルが肩にもたれかかってくる。
どうしたのかと振り向いてみれば、メルはウィルの胸へと顔を埋めるのだった。
「メ――」
声を掛けようとして、メルの肩が震えていることに気づく。泣いているのだ。
「ユウ様は……わたくしなら間違いなく幸せになれるとおっしゃいました。わたくしも……あのお二人のような関係になれる人に……本当に出会えるのでしょうか……」
どうやらメルはユウとリズの2人の背中に、自分の未来を見ようとして想いを馳せていたようだ。未来が心配なのも仕方がない。メルはこの年にして家族や信頼する使用人を失い、今や一人なのだ。国王という叔父の庇護のもと王城で生活できていようとも、それは気遣いな彼女からしてみれば非常に肩身の狭い生活だったのだろう。だからこうして、旅に出た。全く新しい人生を歩もうと、勇気を振り絞ったのだ。その先にある幸せを求めて。
心の拠り所の全てを失った年端もゆかぬ少女が、自らの幸せのために一歩を踏み出す勇気を、ウィルは応援したいと思った。
「大丈夫です。メル様は幸せになれますよ。七精霊士の私が保証します」
「……ありがとう」
震えの止まった少女の頭を優しく撫でる。そしてその肩に毛布をそっと掛ける。
「ただ、メル様の心を射止める殿方の見極めは、厳しくさせてもらいますからね」
「ふふっ。ウィルは優しいから、私が好きって言った人なら許してくれそう」
「さぁ、それはどうでしょう?」
目を赤くしながら笑う少女は、彼女を苦しめる想いを少し吐き出したことで元気を取り戻したようだ。
七精霊士は空を見上げる。
この夜空に煌く眩い星々のように、少女の幸せは世界に溢れているということをこの儚くも可憐な少女に教えていこうと決意する。
七精霊士と健気な姫君。
そんな2人の旅は、まだ始まったばかりだ。
◇◇◇
「お疲れ様。今回は大変だったわね」
「シルフィに振り回されるのは毎度のことっちゃ毎度のことだがな。だが確かに今回は疲れた。今度、酒でも奢らせよう」
邸宅に戻り、暖炉の前の2人掛けソファに深々と座るネロは背もたれに頭をぐったりと預けている。シャルはそうすることがさも当然のようにお茶を淹れていた。
「帰ってきたんだからお前もそんなことせず休めばいい」
「いいのよ。私も飲みたいし」
ネロの目の前のテーブルにお茶を置くと、自らもテーブルの両サイドにある1人掛けソファの1つに腰を下ろしてカップを手に取る。
「そうか、じゃあもらおう」
ここはネロとシャルが共に暮らす邸宅だ。ネロとシャルは決して夫婦でもなければ恋仲でもない。そんな2人がこうして共に暮らしているのは、今やもうそれが当たり前になってしまっているからだ。冒険者生活を続け、引退後も冒険者ギルドで共に後進育成に励んでいる。一緒に居続けた結果、一緒にいなければ逆に落ち着かないのだ。
ネロも一人で暮らすとなると身の回りのこと、所謂家事がろくに出来ないため、冒険者時代から何かとパーティのことをやってくれたシャルがいないと生活が荒れることは目に見えていた。
そんなネロを心配してシャルが共に暮らそうかと冗談交じりに提案したことを、ネロが是非にと願い出た形で実現したのがこの生活だ。
シャルからしてみればそれは幸せを感じる生活ではあるものの、それ以上の幸せを求めることができない生殺し生活でもある。
邸宅に住み始めた頃はこの生活に一喜一憂していたシャルだったが、今ではそのどうにもできない想いにも慣れつつあった。慣れというよりも、麻痺に近いのかもしれない。もしくは、もう何も感じていないと、思い込みたいだけなのかもしれなかった。
今もまた、そんな想いを誤魔化すように、愛しい弟子達のことを口にする。
「あの子達、頑張ったわね」
「だな。予想以上だった。まさかリズがマルスに勝っちまうとは……。しかも拳打っつーのがな」
「いいんじゃない? 最近、マルスも鍛錬を疎かにしていたみたいだし、いいお灸になったんじゃないかしら」
「そうなのか? ったくあいつも副団長の自覚が足らんな。大丈夫か、あの騎士団」
「ギルがいるから大丈夫よ。シルフィもなんだかんだで線引きはちゃんとしているわ」
「……まぁな。それよりもリズには、剣士なら力任せじゃなくて剣技を磨けって言わないといけないな」
「ふふっ、それはそうね」
終始力押しが目立ったリズを思い出し、思わず笑みがこぼれる。ネロの言う通り剣技を磨く必要はあるが、必死に相手を撃ち倒そうとする姿勢は、シャルには可愛く思えた。
「ユウは残念だったわね」
その言葉に、ネロが軽く溜息をついて首を横に振る。
「いや、よく頑張ったよ。負けちまったが、正直、あのユウと戦うとなったら、俺でも危ういかもな」
「あら、師匠がそんな弱気でいいの?」
「実現の使いどころをよく気をつけていた。電光石火に頼り過ぎな面は否めないが、シルフィ戦では攻撃的実現を使うべきところで使っていたように見えたよ」
「それ、ちゃんと本人にも言ってあげなさいね」
「いや、いいよ、シャルが褒めてやった方が喜ぶだろ」
「何言ってるの。あの子達が最も師匠と感じているのは貴方なのよ。貴方に褒められることで、あの子達の心に明かりが灯るの。そうしてあげるのは師匠の責任よ。それは放棄しちゃダメなこと」
「……そんなもんかねぇ」
「そんなもんなのよ」
茶を飲み交わしながら、新たな世代の息吹に心を躍らせる2人。
疲れているにも関わらず、そのひと時が楽しくて中々寝床につこうとはしなかった。
お茶を淹れかえようとシャルがその場を離れて戻ってくると、限界を迎えたネロがそのままソファで眠りについていた。
そんなネロに毛布をかけて、シャルはお茶の片付けをして自室のベッドへと潜り込むのだった――この幸せを享受することの喜びと、罪悪感に包まれながら。
かくして闘技大会は、各種の想いの交錯と共に、その幕を閉じたのだった。                                                   
そこには見慣れた天井があった。銀月の天井だ。
右手に目をやると、そこにはリズがユウの手を握ってじっと傍に座っていた。
「起きた? お疲れ様」
「ごめん……勝てなかった」
その言葉にリズは首を横に振る。
「あの戦いを見てユウを責める人はいないわ。どう見ても団長の強さが異常だもの」
ユウは最後の決戦で惜しむことなく実現を使用した。徹底的に、まさにシルフィを殺さんばかりの勢いで戦いに臨んだ。しかし、シルフィに対して痛恨のダメージを与えることはできず、結果、意識喪失でこの様だ。
魔力を出し切ってシルフィの腕の中で意識を失う時に、シルフィに何かを言われた気がしたが、何を言われたのかが思い出せない。思い出せないのだから大したことではないのだろうとは思いながらも、頭に引っ掛かったシルフィの言葉が気持ち悪かった。
しかしそれよりも、シルフィに敗北したことが今のユウにとっては最も気持ちが悪いものだった。リズはシルフィの強さが異常だと言ってくれているが、ユウは二度目の挫折に自身を許せない。
ネロとリーンに歯が立たず、そこから1か月以上の時をかけて鍛錬に励み、それなりに力を身に着けてきた。リズを守れる自分を作りあげるために。しかし結果はどうだ、大会に優勝こそできたものの、絶対強者と言われるシルフィを切り崩すことはできなかった。『お前にリズは守れない』と言われているようで堪らなく悔しかった。
――誰にも負けない強さがほしい――
絶対強者を前に味わった敗北は、ユウに心から強さを望ませた。
強くなるために何をするべきか。それはわかっていた。ユウの、ユウだけの武器は『実現』に他ならない。この武器を最大限に強化する。そのために発動に必要な魔力量を増やすとともに、自分の想像力を高める。想像力を高めることで実現が洗練されることはここ数か月、使用してきて実感していることだった。強くなるためのポイントは単純なことだった。
しかし、現実問題として魔力量を増やす方法などあるのかどうかもわからなかったし、想像力を鍛えるといっても感受性を高めることくらいしか思い浮かばなかった。
「また思い詰めた顔して何か考えてる。もう終わったんだから、今は何も考えずに身体を休めたら?」
沈黙を続けるユウを心配そうにリズが覗き込む。
愛する人を目の前にして自分は何をしているのだと自身を叱咤し、ユウは頭を切り替えた。
「そうだね……ごめん。みんなは? 終わってからどれくらい経つの?」
「半日くらいかしら。今は普段ならもう寝る時間。エリーとルカは珍しくもう1つの部屋で一緒に寝てる。私達に気を遣ってくれたみたい。ウィルさん達はまた旅に出るって。精霊石とかいうのを置いて『また会いましょう』って行っちゃったわ。レベッカ達はユウが起きたら『再戦はアタイがもっと強くなったらな』って伝えろってさ」
「レベッカは相変わらずか。ウィルさん達行っちゃったんだね。精霊石って?」
「よくわからないんだけど、私達は持っているだけでいいんだって。持っていればまた会えるって」
「ふ~ん……ネロさん達なら知ってるかな。あ、ネロさん達は?」
「片付けがあるからあと数日は忙しいみたいよ」
「そっか」
寝ながら話すのはリズにも悪いと思い、身体を起こそうとするも眩暈に襲われる。身体をリズの方に横に向けるのが限界だった。
「まだ無理でしょ? はい、お水。その体勢で飲める? 口移しする?」
「え?!」
「ウソウソ、冗談よ」
グラスを手に持ちながらユウの反応を面白がってけらけらと笑うリズ。
してやられたと思ったユウは、仕返しを試みる。
「いや、口移ししてくれるなら大歓迎なんだけど」
「え?! ……うん、今度にしよう。私にはまだハードルが高いわ。ユウって、そういうのも好きなの?」
「相手がリズならね」
「っ! もうっ!」
ユウ自身もリズがその気になっていたら戸惑うことは間違いないのだが、決して嫌ではなかったためにその想いはその想いで伝えておきたかった。そしてその選択は間違いではなかった。まだハードルが高いとは言え、やりたくないわけではないというリズの可愛い反応が見られたことに思わず頬が緩む。
頬を紅潮させたリズから差し出されるグラスを受け取ると、ほのかにリズから石鹸の匂いが香り、鼻をくすぐられる。その甘い香に包まれながら、こぼさぬようにゆっくりと口元にグラスを運ぶと、リズが何やらもじもじとしていた。
「どうしたの? トイレ行きたい?」
「ち、違うわよ! あ……あのね、ご褒美の件なんだけど」
「あぁ、そうだったね。いいよ、何?」
右手をぎゅっと握って離そうとしないリズの顔が俯き、3度ほど大きく呼吸を繰り返す。
こんなに緊張した様子のリズを見たのはいつぶりだろうか。リズの中でかなり勇気のいるご褒美の要求が来るのだろうということがこれだけでわかった。
「……一緒に寝ていい?」
「え?!」
その要求はユウにとってもご褒美となる要求だ。しかし、それを平気な顔で易々と受け入れるにはユウは経験不足であり、ユウの顔も見る見るうちに紅潮していった。そんなドギマギしているユウにリズのダメ押しの一手が加えられる。
「……ダメ?」
目を潤め、はにかんで甘えるように見つめてくるそんな姿を見てしまってはもう受け入れる他ない。そもそも断るという選択肢などないのだが。
「ダッ! ダメなわけないじゃん!!」
ユウは自分の身体をシングルベッドの端へとスライドさせて上掛けのキルトを翻すとリズを迎え入れる体勢を整える。
「はぁ……よかった。断られたらどうしようかと思ってた」
「口移しを要求する僕がどうして拒否するなんて思えるのさ」
「それとこれとは話が別なの。乙女心は複雑なのよ! それじゃ、お……お邪魔します」
「硬いよ。おいで」
そう言ってベッドにゆっくりと入り込んでくるリズを至って冷静を装いながら迎え入れる。いい匂いに包まれ幸せを感じたところで、ユウはとんでもないことに気がついた。
「あ!」
「え?!」
「リズ、ごめん、僕、汗臭いかもしれないからあまり近づかない方がいいかも」
そう、リズの石鹸の香りは入浴したということに他ならない。しかし、ユウは意識を失ってここに運ばれてからずっと寝ていたのだ。戦いで汚れたままの姿なのだ。自分では気づかなくともきっと汗臭いはずだった。
しかし、リズはそんなこと気にも留めない様子で、むしろユウの胸へと顔を押し付けてくる。
「ユウの匂いがする……臭くなんかないよ」
「何でそんなに可愛いことするのさ。嘘でもキュンと来るじゃんか」
「嘘じゃないよ? 臭かったら臭いって言うもの。そんな変に気を遣うことなんてしたくないわ」
「そ、そう? 本当に?」
「本当。ほら、好きな人の匂いはいい匂いとか言うじゃない?」
「まぁ……聞いたはことあるけれど、それ、リズ以外の他の人には臭いってことだよ」
「もう! 細かい! 今はいいじゃない。私しかいないし、私は好きなんだから」
リズの言う通りである。今この瞬間に、もし自分が臭っていたとしても――いや、きっと臭っているのだが――リズがそれを好きだと言うのならこの状況を甘受すべきだ。
腕の中にリズがいる。こんなにもちゃんと、じっくりと抱き締めたのは、初めて想いが通じ合った時以来かもしれなかった。
ユウが感慨深く今の状況を噛み締めていると、リズがポツリと呟いた。
「マルス副団長にね、ユウは私のこと、女として見てないって言われちゃった」
「え? 部屋に来いって言われたんじゃないの?」
「それも言われたけど、どうして知ってるの?」
「団長が団員の風の精霊の力で2人の会話を聞いてたって。副団長がリズに不快な想いをさせて申し訳ないって詫びてたよ」
「そうなんだ」
「で、女として見てないっていうのは?」
「男は女にホイホイ手を出すもんだって。それで私に手を出さないユウは私を女として見てなくて、他の女には手を出してる~とか意味わかんないこと言ってた」
「確かに偏見過ぎるね。男がみんな女性にホイホイ手を出すわけじゃないし、僕はリズをがっつり女性として見てるし、リズに手を出したい気持ちがないわけじゃないし」
すると、胸の中でリズが縮こまって身を固くしたのがわかった。
「あ、ごめん、別にどうこうするつもりはないから安心して」
「ううん、警戒したわけじゃないの。やっぱり、そう言ってもらえるのって嬉しくて。ユウは……したことあるの?」
何を、とは言わないがここで察しなければ流石に野暮と言うものだ。言葉に出さないということは、リズもその言葉に抵抗があるということなのだから。
「向こうではボッチの15歳で、心を許せる人もいなかったんだよ? 行き場のない鬱々とした感情と戦ってばっかりでそんなこと考えもしなかった」
「そうよね……ごめん」
「虚しくなるから謝らないでよ」
「ふふっ、ごめんね、あっ」
「まぁもういいけどさ」
思い返しても、向こうの世界での出来事はやっぱりいい想い出とは言えない。辛いと感じていたのだから、幸せを感じていた時期もあったはずだ。幸せを知らなければ、辛さなどわからないのだから。しかし、自分の中で芽生えた幸せの感情は、全てリズと出会ってからの記憶しかない。いや、それは言い過ぎか。ほんのひと時であれ友達と呼べる存在がいた時には明確に『幸せ』とは思わなくても居心地の良さを感じていたのだろう。だからきっと辛さを知ることとなったのだ。
「……したいと思う?」
「え、何を?」
過去に想いを馳せていたため、反射的に言葉を発してしまったことを後悔する。
リズの顔を見ると恨めしそうな視線をユウに向けていた。
「あ、ごめん。えと……まぁ興味はあるけど、その興味を満たしても得られる幸せって今感じている幸せとは別物な気がするんだよね。こうやってリズを抱きしめているだけで、すごい幸せなんだ。だから、この今の幸せな気持ちを汚したくないというか。汚すっていうのは語弊があるけど、なんというか――」
「うん、わかるよ……私も同じ感覚」
とは言っても、向こうではリズも社会人であり、ユウよりも9つも年上だったのだ。そういう経験もきっとあったに違いない。気にならないと言えばウソになるが、だから何だと言うのだろう。今こうして自分の腕の中で幸せそうな顔をしているリズがいる。それでいいのだ。
しかし、そんな胸の内を見透かしたのか、リズはユウに思わぬ告白をする。
「色々と迫られたことはあったけど……ファーストキスも、ユウが初めてだからね」
「……わざわざ言わなくてもいいのに」
「だって男の子ってそういうの気にするって向こうでよく聞いてたから、念のためと思って」
「うん、実を言うと、ちょっと気にしてた」
「ほらっ」
女性の口からこういう話をするのは恥ずかしいだろうに、リズは躊躇いもせずにその事実を明るく告げる。それもユウを想っての優しさなのだろうと思うと、愛しさで胸が締め付けられた。
「ありがと、リズ」
「こちらこそ。いつも幸せをありがとう」
2人は見つめ合うと、優しく唇を重ねる。静寂に包まれる部屋には唯一、幸せを噛みしめる2人のささやかな笑い声だけが響いていた。
もう1つの部屋では、すやすやと眠るエリーを傍目に、ルカが緊張のあまり一睡も出来ていないことなど知る由もない。
◇◇◇
「カッコ悪かったのぉ。ダサダサじゃったのぉ」
「あ゛ぁ!! うるせぇっ!!」
「『俺様の女になれ』とかドヤ顔しておきながら一発ですものね。あれは酷かったですわ。ギルが帰ってきたら事細かく話してあげないとですわ」
中身を飲み干すと、空の杯を勢いよくテーブルへ叩きつけるマルス。向かいに座ってちびちびと葡萄酒をなめながらそんなマルスを貶めるのはシルフィとイリーナだった。
「うるせぇっつってんだろ! イリーナてめぇ犯すぞ!」
「まぁ品のない。お姉様、この赤ゴリラどうにかしてくださいます?」
「品格に欠ける発言なのは間違いないが口だけじゃ。今は放っておけ。……マルスよ、あの娘、どうじゃった?」
「いい女だな。もう少し年喰った方が美味そうだ」
「冗談も程々にせぃ。我が聞いていること、わかっとるじゃろう?」
シルフィの笑っていないその顔を見て、マルスも観念したように溜め息を吐く。
「……どうもこうもねぇよ。なんだあの怪力。身体強化を極めた俺様が一発? ありえねぇ。言っておくが、俺様も全く手加減はしてねぇぞ。あの一発を受ける時も、身体強化はちゃんとやってたかんな」
「ふむ……そろそろ世代交代なのかもしれぬな」
「ざっけんなっ! 俺様はまだまだやれっぞ!」
「なら鍛錬に励むことじゃな。あんな無様に負けるのであればお主のことを『鬼人』なぞと呼ばさせとうないわ」
「……わぁったよ、クソババア」
「こんの赤ゴリラ!! お姉様になんて口の利き方を!!」
「イリーナ、よい、今更じゃ。じゃがマルス、クソはやめぃ」
「へいへい」
神都の城内の一角に居室を持つ団長の室内で、シルフィとイリーナは夜通し、反省会という名のマルスいじり会を続けた。負けてしまった手前、マルスは何も言えずに、ただ目の前に並べられた酒の肴程度のつまみを手にとり乱暴に頬張って時を凌ぐことしかできない。しかし、そんなマルスにもまた、新たな目標が出来ていた。マルスが勝てない存在は今やシルフィと黒魔剣士ネロくらいであり、その2人にも『力』で負けることはなかった。そんなマルスにとって、完膚なきまでに『力』で圧倒されたリズは新鮮だったのだ。
「天翔ける竜リズ・ハート……惚れたぜ……」
そう呟くマルスの言葉を、聞き間違いかとシルフィもイリーナも二度見する。恋など愛などに全く無頓着で女をただの情欲の発散相手としか思っていないマルスから『惚れる』などという言葉が聞こえたのはきっと聞き間違いだと、シルフィもイリーナも目を合わせては頷くのだった。
◇◇◇
「よろしかったのですか? 直接お別れを言わずに」
「よいのです。ウィルの精霊石がありますし、これが今生の別れというわけでもないのですから」
昼間にギフティアを発ち、次の街へと旅を再開したメルとウィル。夜も更けてきており、今は野営をしながら昨日、今日を振り返っていた。
「そうは言われましても――」
「よいのです。本当はユウ様とリズ様の仲睦まじい様子を遠くから確認するだけのつもりだったのですから」
「あ、それ、強引に昨日の祝勝会に連れていった私への不満ですか?」
「あら、よくわかりましたね」
「そんな――」
「冗談です、昨日は昨日で楽しかったですし、感謝していますよ」
「もったいないお言葉です」
焚火で温めたミルクを金属のカップに注ぎ、両手でそのカップを包み込みながら遠い目をして空を見上げるメル。つられて見上げれば、夜空には満天の星空が広がっていた。
メルがこうして時折見せる物憂げな表情を、ウィルは静かに隣で見守っている。この可憐な少女の視線の先には、今は亡き両親がいるのか、はたまた淡い恋心を抱いていたユウがいるのか、それは定かではない。本人曰く、ユウへの恋心は最早ないとのことだったが、乙女心というものは複雑なのだ。年頃の少女が、果たしてそう簡単に切り替えられるものだろうか。しかし、結論がどうであれウィルにはメルの心に踏み込む資格はない。それは一介の従者としては出過ぎた振る舞いだ。今はこの主を守り、この主の命に従い、この主に尽くすことだけがウィルの使命なのである。自らに授けられた使命を見つめ直していると、メルがカップを地に置き、両手でメル自身の肩を抱きしめる仕草をする。
「ウィル……寒いわ」
「毛布を出しますね」
メルとは反対側に置いてある荷袋に手を伸ばそうとすると、メルが肩にもたれかかってくる。
どうしたのかと振り向いてみれば、メルはウィルの胸へと顔を埋めるのだった。
「メ――」
声を掛けようとして、メルの肩が震えていることに気づく。泣いているのだ。
「ユウ様は……わたくしなら間違いなく幸せになれるとおっしゃいました。わたくしも……あのお二人のような関係になれる人に……本当に出会えるのでしょうか……」
どうやらメルはユウとリズの2人の背中に、自分の未来を見ようとして想いを馳せていたようだ。未来が心配なのも仕方がない。メルはこの年にして家族や信頼する使用人を失い、今や一人なのだ。国王という叔父の庇護のもと王城で生活できていようとも、それは気遣いな彼女からしてみれば非常に肩身の狭い生活だったのだろう。だからこうして、旅に出た。全く新しい人生を歩もうと、勇気を振り絞ったのだ。その先にある幸せを求めて。
心の拠り所の全てを失った年端もゆかぬ少女が、自らの幸せのために一歩を踏み出す勇気を、ウィルは応援したいと思った。
「大丈夫です。メル様は幸せになれますよ。七精霊士の私が保証します」
「……ありがとう」
震えの止まった少女の頭を優しく撫でる。そしてその肩に毛布をそっと掛ける。
「ただ、メル様の心を射止める殿方の見極めは、厳しくさせてもらいますからね」
「ふふっ。ウィルは優しいから、私が好きって言った人なら許してくれそう」
「さぁ、それはどうでしょう?」
目を赤くしながら笑う少女は、彼女を苦しめる想いを少し吐き出したことで元気を取り戻したようだ。
七精霊士は空を見上げる。
この夜空に煌く眩い星々のように、少女の幸せは世界に溢れているということをこの儚くも可憐な少女に教えていこうと決意する。
七精霊士と健気な姫君。
そんな2人の旅は、まだ始まったばかりだ。
◇◇◇
「お疲れ様。今回は大変だったわね」
「シルフィに振り回されるのは毎度のことっちゃ毎度のことだがな。だが確かに今回は疲れた。今度、酒でも奢らせよう」
邸宅に戻り、暖炉の前の2人掛けソファに深々と座るネロは背もたれに頭をぐったりと預けている。シャルはそうすることがさも当然のようにお茶を淹れていた。
「帰ってきたんだからお前もそんなことせず休めばいい」
「いいのよ。私も飲みたいし」
ネロの目の前のテーブルにお茶を置くと、自らもテーブルの両サイドにある1人掛けソファの1つに腰を下ろしてカップを手に取る。
「そうか、じゃあもらおう」
ここはネロとシャルが共に暮らす邸宅だ。ネロとシャルは決して夫婦でもなければ恋仲でもない。そんな2人がこうして共に暮らしているのは、今やもうそれが当たり前になってしまっているからだ。冒険者生活を続け、引退後も冒険者ギルドで共に後進育成に励んでいる。一緒に居続けた結果、一緒にいなければ逆に落ち着かないのだ。
ネロも一人で暮らすとなると身の回りのこと、所謂家事がろくに出来ないため、冒険者時代から何かとパーティのことをやってくれたシャルがいないと生活が荒れることは目に見えていた。
そんなネロを心配してシャルが共に暮らそうかと冗談交じりに提案したことを、ネロが是非にと願い出た形で実現したのがこの生活だ。
シャルからしてみればそれは幸せを感じる生活ではあるものの、それ以上の幸せを求めることができない生殺し生活でもある。
邸宅に住み始めた頃はこの生活に一喜一憂していたシャルだったが、今ではそのどうにもできない想いにも慣れつつあった。慣れというよりも、麻痺に近いのかもしれない。もしくは、もう何も感じていないと、思い込みたいだけなのかもしれなかった。
今もまた、そんな想いを誤魔化すように、愛しい弟子達のことを口にする。
「あの子達、頑張ったわね」
「だな。予想以上だった。まさかリズがマルスに勝っちまうとは……。しかも拳打っつーのがな」
「いいんじゃない? 最近、マルスも鍛錬を疎かにしていたみたいだし、いいお灸になったんじゃないかしら」
「そうなのか? ったくあいつも副団長の自覚が足らんな。大丈夫か、あの騎士団」
「ギルがいるから大丈夫よ。シルフィもなんだかんだで線引きはちゃんとしているわ」
「……まぁな。それよりもリズには、剣士なら力任せじゃなくて剣技を磨けって言わないといけないな」
「ふふっ、それはそうね」
終始力押しが目立ったリズを思い出し、思わず笑みがこぼれる。ネロの言う通り剣技を磨く必要はあるが、必死に相手を撃ち倒そうとする姿勢は、シャルには可愛く思えた。
「ユウは残念だったわね」
その言葉に、ネロが軽く溜息をついて首を横に振る。
「いや、よく頑張ったよ。負けちまったが、正直、あのユウと戦うとなったら、俺でも危ういかもな」
「あら、師匠がそんな弱気でいいの?」
「実現の使いどころをよく気をつけていた。電光石火に頼り過ぎな面は否めないが、シルフィ戦では攻撃的実現を使うべきところで使っていたように見えたよ」
「それ、ちゃんと本人にも言ってあげなさいね」
「いや、いいよ、シャルが褒めてやった方が喜ぶだろ」
「何言ってるの。あの子達が最も師匠と感じているのは貴方なのよ。貴方に褒められることで、あの子達の心に明かりが灯るの。そうしてあげるのは師匠の責任よ。それは放棄しちゃダメなこと」
「……そんなもんかねぇ」
「そんなもんなのよ」
茶を飲み交わしながら、新たな世代の息吹に心を躍らせる2人。
疲れているにも関わらず、そのひと時が楽しくて中々寝床につこうとはしなかった。
お茶を淹れかえようとシャルがその場を離れて戻ってくると、限界を迎えたネロがそのままソファで眠りについていた。
そんなネロに毛布をかけて、シャルはお茶の片付けをして自室のベッドへと潜り込むのだった――この幸せを享受することの喜びと、罪悪感に包まれながら。
かくして闘技大会は、各種の想いの交錯と共に、その幕を閉じたのだった。                                                   
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