ねこと一緒に転生しちゃった!?

十六夜 九十九

004話 嘘だろ……


 今、俺を見つめている碧っぽい翡翠の目はカヤのものだ。
 俺はその目を見つめ返す。カヤの目はとても綺麗だ。純粋な心を持ってると主張しているように感じる。そんな目を見ていると俺の心が洗われて、憑き物が落ちていくような錯覚を覚える。

 社会人になって、学生の比では無い程の社会の理不尽をこの身で受け、愚痴ばかり零していたこの心。
 日頃の同僚から受ける汚物を見るかのような鋭い視線、上司からの言われのない叱責、後輩――主に佐倉――の尻拭い。
 ブラック企業と言われれば、即答でそうだと答えるだろう。パワハラを受けているのかと聞かれれば、もちろんだと返すだろう。
 そんなストレスの溜まる日々だった。

 だが、カヤの目を見ただけでそんなストレスなんて一気に吹っ飛んで、今やカヤ無しでは生きていけない体に……。

「カヤぁ。どこにも行かないでくれよぉ」

「にゃっ!」

「うわっ!」

 少しふざけただけなのに、カヤの自前の鋭い爪で顔が引っ掻かれた。心做しか『話し合いが先でしょ!』って叱咤されている様に感じる。ここで『先でしょ』ってところが肝だ。後でなら許してくれるんだろう。
 しかしまあ、言葉は分からないのに気持ちが分かるのが不思議でならない。カヤが不思議なのは今に始まった事ではないのだが、これもカヤの特殊能力のおかげなのだろうか。

 そんな事を思いつつ、怒られた俺はこれ以上怒らせないように真面目な顔を心掛ける。本気で怒らせて死にたくはない。そしてカヤと二人で今後について本気で話し合いを始める。
 と、言ってもカヤの言っている事なんて分からないし、ただの独り言になる訳だけど。

「さて、カヤ。話し合いと一概に言っても、この状態じゃ何を話し合えばいいのか分からない。だからまずは状況確認から始めたいと思う」

 話が長くなりそうなので一旦その場に胡座をかき、その上に抱き抱えていたカヤを乗せる。そこで丸くなるカヤが可愛い。……いかんいかん。顔がにやけてしまう所だった。

 俺は破顔しそうになるのを何とか抑えて、さっきの話を続ける。

「まず、分かっていることなんだけど、ここが地球じゃないって事と、俺達に特殊能力があるって事の二つだ。この情報から分かることはなんだと思う?」

「にゃ?」

「うんうん、その通り! カヤの言うように、この世界では地球のルールは適用されない。その上、歩んで来た歴史が確実に地球とは違う。何せ、この世界には地球で言う『亜人』が普通に生活しているからな」

 猫と会話をしているなんて、周りから見れば頭のおかしな人にしか思えないだろう。だが、今の俺には頼れるものがカヤしかいない。ぶっちゃけると、めっちゃ心細い。

 知らない世界に、言葉の通じない猫と二人。
 初めて見る亜人と特殊能力という超展開。
 こっちを見て泣き喚く人達がいて、何をすればいいのか分からないこの状況。

 一介の人間である俺にとって見れば、まだブラック企業で働いて、上司に扱き使われたり、同僚に馬鹿にされたりしている方が生きた心地がする。
 それにだ、さっきの話で分かった事といえば、地球とルールが違う事や歴史が違う事だけだ。結局何も分かっていないのと同義なのだ。

 こんなの俺にどうしろと言うんだ。色々知ってそうなテスタは勝手にいなくなるし、俺の頭は混乱するしで、何かを考える活力がもう無くなっている。

 第一、何故異世界に飛ぶんだ。異世界に飛ぶ時は誰かを助けて死んだ時っていうのが王道だろ。俺はカヤを抱いたまま無様に死んだぞ。
 それにカヤがここにいるってことはカヤも死んだって事だ。
 何も助けられず、何も出来なかった俺が異世界? 混乱するのも無理はないだろう?

 因みに、異世界とか王道とか知っているのは紳士の嗜みです。決して、独り身で寂しくてラノベに走って読んでみたら嵌ったとかじゃないからな。そこんとこ間違うなよ!

「俺、こんな所で何してんだろ……」

 カヤの美しい毛並みを指で梳きながら、深い溜息を一つ。

 こんなところで愚痴を零しても何かが解決するわけじゃないし、誰かが助けてくれる訳でもない。これは世界が違っても一緒だろう。
 もし何でもかんでも助けてくれる世界があったとしたら、それはそれで気持ち悪い。

「まずやらないといけないのは、金を稼ぐ事だよな。流石に物々交換とかそういう文化ではないと思うし、多分この世界の通貨は日本とは違うはず。それを踏まえると俺って一文無しなんだな。地球ではあんなに貯金があったのに……」

「――にゃ?」

「うん? カヤ、どうした?」

 何か気になる音が耳に入ってきているのか、カヤの耳がピクピクし始め、耳が向いている方向を凝視している。

 猫は聴覚が鋭い。犬も聴覚は鋭い方だが、その犬よりも格段に上なのだ。
 可聴域で言うと人間の二倍以上あると言われている犬の二倍以上。要するに人間と猫では可聴域に四倍以上の差があるという事だ。
 主に高周波への聴き取りが高く、低周波は聴き取りにくいため、女性の声を好む傾向にあるらしい。どこかのサイトでチラっと見た覚えがある。

 豆知識になるが、時たま猫が誰もいない所を凝視するのは、そこから人間が聞こえない音が出ているからである。
 しかし、その音が自然に出た音なのか、それとも霊の仕業なのか、どちらを信じるのかはあなた次第。

 閑話休題。

 俺には聞こえていない音が聞こえているであろうカヤを撫でながら、一体どうしたのかと不審に思っていた時の事だった。

 ――ほんの一瞬だけ、カヤの目が紅く煌めいたような気がした。

 光の反射でそう見えたのか、はたまた何処からか赤い光が射したのかもしれない。最悪、俺の気の所為というのも有り得る。
 にしても何故目が紅く――

 そうやって俺の気が逸れた瞬間だった。カヤが俺の元から離れ、泣き喚いている人達の方へ向かって行く。
 カヤが近付くことで更に阿鼻叫喚となる人達。カヤを避けるようにして逃げ惑う。
 もしかすると今まで泣き喚いていたのってカヤが恐ろしく見えてたからなのだろうか?
 そんな事を考えつつカヤを追いかける。

 俺達がいたちょっとした広場を抜け、大通りを横切り、狭い路地に入り込む。
 カヤは足早に路地を駆け抜ける。大して俺は、固い体を駆使して四苦八苦しながら追いかける。三十代のこの身体。激しい運動なんてもう出来ない。既に肩で息をするくらいには頑張っている。
 だが、段々とカヤとの距離が開いてくる。その事に焦って、何も無いところで躓き転んでしまった。

「いった……」

 転んで怪我したところで俺にはほとんど関係ないのだが、痛みは通常通り感じる。欠陥だらけの特殊能力だ。

 転んで痛みを感じた事で、さっきまでの焦りはなくなり、少し先を確認する事が出来た。ここから少し進めばまた開けた場所に出る。そこに行けばこの状態からも脱出出来る。

 しかし、カヤが見当たらない。俺の見える範囲にはいなかった。俺は嫌な予感がして急いで路地を抜ける。

 そうして、抜けた先に待っていたのは露店が建ち並び、そこで買い物をする人達で賑わう商店街だった。
 呼び込みや、行き交う人達の声が混ざりあって、なんて言っているのか全く分からない。何かの祭りが開催されているんじゃないかってくらいに騒がしい所だ。

 しばし呆気に囚われていた俺は、本来の目的を思い出して辺りを注意深く見渡す。だが、一向にいい結果は得られない。何かの間違いだと、自分に暗示を掛けて諦めずに何度も見渡す。

 しかし、それでもダメだった。

「嘘だろ……」

 俺の小さな呟きは、周りにいる人達によって掻き消され、誰の耳にも入らない。その事も相まって強い喪失感に襲われた。少しの時間だけだったけど、それだけ俺の心の支えとなっていたのだ。
 暫く、その場に突っ立っているしか出来なかった。何とも無様なものだが、それだけ大き存在だったのだ。
 だけどもう認めるしかない。

 たった今、カヤを失った事を――。



   ◇◆◇◆◇



「嬢ちゃん! こいつぁおまけだ! とっときな!」

「いつもありがとうございます」

 いつもお世話になっている果物屋の店主さんから、リンゴを一つおまけして貰った。それを腕に掛けている買い物袋に入れる。
 店主さんはスキンヘッドで右の眉毛から右頬に掛けて何かに引き裂かれたかのような傷跡があり、見た目が怖い。
 更に口調も少し荒々しくて、初めて見た人からは怖がられる事が多いが、本当は温厚でとても優しい人だ。他に、果物屋を経営する事に誇りを持っているくらいに誠実な人でもある。

「今後も贔屓にしてくれよな!」

「はい。こちらこそ」

 私は店主さんにお礼をしてから、次の店へ向かう。今度は香辛料を売っているお店に用がある。

 この街に来て約一年。ようやく落ち着いた暮らしが出来るようになってきた。初めはお金を稼ぐのも大変で、収入が安定してなかった。それを考えると今の生活が凄くいいものに思える。
 それに、仕事も少しづつ軌道に乗り始めているし、もうそろそろプライベートの時間を多く取ってもいいんじゃないのかと思いつつある。

 今日はそのプライベートの時間。最近趣味になりつつあるお菓子作りをしようと思って、果物やスパイスを買いに出かけている。

「リンゴも買ったし、バターとか卵、砂糖もある。他の材料もあるし、後はシナモンを買うだけ」

 これから作るお菓子に心を踊らせながら、目的のお店を目指していた。目の前から来る、その黒い生物を目にするまでは。

 その生物は碧っぽい翡翠の目で私を見つめ、音もなく近付いてくる。大きさは私の膝よりも低いくらいだろうか。不気味なのに何故か可愛く見える。
 しかし、初めて見る生物に油断をしてはいけない。可愛いからといって不用意に近付いてそのまま帰らぬ人となる可能性だってある。

 私はその黒い生物の動向を注視していた。すると一部の獣人と同じ耳をピクピクさせて、前足を立ててその場に座った。

「にゃ〜ん」

 その黒い生物は私に向かって鳴き声を上げた。なんて言っているのかさっぱり分からないはずなのに、『一緒に来て!』と言っていることが頭で理解出来てしまって混乱する。

「あなたは何者なの?」

「にゃ」

「『カヤ』? それは名前なの……?」

「にゃ〜」

 カヤと言ったその生物は『いいから来て!』と伝えてきて、独りでに歩き始める。そして少し進むと一旦停止して、こちらを振り向きしっかり着いてきてるか確認をしてくる。

「にゃ〜」

 『早く!』と急かしてくるカヤ。私は不思議な気持ちを抱きながら、何故かカヤを追いかけてしまう。
 別に強制されている訳でもないし、行かなければという使命感もない。だけど、まるで運命に導かれるようにカヤを追いかける。

 どこに連れて行かれるのか検討もつかない。もしかしたら何か危険な事なのかもしれない。
 本当なら、初めて見る生物は調査の依頼をしなければならない。でも、カヤを追いかけているとそんな事まで忘れてしまう。本当に不思議だった。

 それでも私は、一心不乱にカヤを追いかける。自分の胸がときめき始めている事に気付きもせずに――。

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