世界一幸せな男の話

ノベルバユーザー225963

世界一幸せな男

 本当に良かった。あれから数日経つが、ずっと気分が良い。やはり怒りという感情は不要だった。今となっては何故もっと早く気づかなかったのかと思う。しかし、それにしても気分が良い。
 
 あるところに、とても短気な男がいた。男は幼少から気が短く、いつも怒ってばかりいた。大人になるにつれてそれは落ち着くばかりか余計にひどくなった。気づけば友人の一人もいなくなっていた。

 ある日、通りを歩いていると人とぶつかった。どこを見て歩いてるんだとすぐに怒鳴った。逃げるように去って行く後ろ姿を見ると余計に腹が立った。自分が悪者みたいじゃないか。今日も一日ムカムカしたまま過ごすことになると思うとまた腹が立つ。何故自分がこのような思いをしなくてはならないのか、頭が熱くて破裂してしまいそうだった。毎日この調子だ。一日足りとも心の落ち着いた日を過ごしたことがない。外に出なければいいと思ったこともある。しかし、家に居ても外から聞こえてくる音でムカムカしてくる。耳栓をしていると耳に異物を詰めている違和感で落ち着かない。そしてその状況に腹が立った。自分でもどうしようもないと思った。いっそのこと人里離れたところに住もうかとも思ったが、それはそれで何故自分がそのような面倒を引き受けねばならないと腹が立った。

 もう疲れた。毎日毎日、頭の中でぐるぐるこのようなことを考えては腹を立てているうちにそう思った。もうこの怒りという感情に振り回されるのは嫌になった。そもそもこの怒りという感情はいらないだろう。喜びは人を幸せにする。悲しみも時として人の助けになる。この怒りという感情は何だ。何も得ないどころか全てを失った。私の人生はこの怒りで散々だ。もう怒りなど無くなってしまえばいい。怒りよ無くなってくれ。平穏な日々をくれ。そう願った。本気で人生をやり直したいと思ったのだ。

 ある朝、外をはしゃぐ子供の声で目が覚めた。まだ起きるには早い時間だ。あともう少し寝られる。しかし目を瞑れどもどうにも目が冴えてしまい寝ることができない。仕方がないから起きることにした。顔を洗い、歯を磨いた。歯を磨きながらあることに気づいた。自分の感情の変化だ。正確に言うと感情に変化が無いという自分の変化だ。どうにもおかしい。平然と朝の支度をしている自分が信じられなかった。今朝の様な目覚めなら一日腹が立って終わっていたはずだ。しかし今とても穏やかな心がある。不思議で不思議でならなかった。以前の願いが神様に届いて怒りという感情が本当に無くなったのか。とても馬鹿らしい。神様などいるものか、とも思ったが何はともあれ心の平穏を手に入れたことには違いない。どちらにせよ良かった。

 信じられない気持ちもありつつ街に出た。とりあえず何か食べたいと思い喫茶店に入った。コーヒーとサンドイッチを頼んだ。店員がコーヒーを机に置く時、少しカップからコーヒーがこぼれた。申し訳ございません、と言う店員を横目に自分の感情に驚いた。やはり消えている。怒りが無くなっている。どういう仕組みかわからないがやはり自分の中から怒りは無くなったようだった。いえ大丈夫ですよ、と店員に言ってサンドイッチを食べた。こんなに気分の良い日は無い。

 それからというもの男の人生は順調だった。人を許し、人を助けた。次第に男の周りには人が集まるようになった。周りから愛されるようになったのだった。そんな男にもいつしか恋人ができた。そして当たり前のように平穏で幸せな日々を過ごした。男は恋人と結婚し、二人の間に子が生まれた。ついに家族を持ったのだ。あの短気だった男からは想像もつかない幸せな家庭を築いたのだった。

 「ごめんね、まだご飯できてない!」帰宅すると妻が台所で忙しそうにしている。構わないよ、と言って風呂に入った。会社の同僚は家に帰ってご飯ができていないと許せないらしい、がそれを態度に表すと夫婦仲がギクシャクするので我慢するからストレスが溜まると言っていた。自分には無縁な話だなぁと思いながら聞いていた。鏡に映る自分の顔はヘラヘラとした笑みが張り付いているように見えた。風呂から上がり、家族三人で食卓を囲み夕飯を食べた。きっと世の中ではこれを幸せと言うのだろう。現に私自身幸せを存分に感じる。今日会ったことを楽しそうに話す息子が愛おしかった。

 早いもので息子が中学生になった。息子は勉強を頑張って私立の中学校に進んだ。我が息子ながらよく頑張ったと誇らしかった。しかし日に日に息子は元気が無くなっていった。夕飯での発言も無くなっていった。心配だがそう言う時期なのかもしれないと思えばそっとしておくのも父の役目ではないかと思った。

 「学校に行きたくない。」と息子が言った。朝食を用意する妻の手が止まった。「一体どうしたの?何か嫌なことでもあったの?」と心配そうに詰め寄る妻に息子は嫌がらせを受けていると言った。とりあえずしばらくは休みなさいと言うことで話は落ち着き、私は会社に行った。家に帰ると早々に妻が今後どうしたらいいのかとうろたえていた。こういう問題はとても難しい。下手に動くと事態が悪化しかねない。そうなると苦しむのは息子である。「ちゃんと考えてるの!?」何も言わない私に妻が言った。ごめん、ちゃんと考えているよと伝えた。とりあえず一旦落ち着くために風呂に入ってくるよと言い、風呂場へと向かった。相変わらず鏡に映る顔はヘラヘラしていた。風呂から上がり、リビングに戻った。食卓に着き、夕飯を食べた。いつの間にかあの幸せな空間は無くなっていた。それでもご飯は美味しかった。食べ終えると息子はすぐに自分の部屋に戻った。妻との話し合いが始まった。とりあえず学校側に話を聞くことになった。

 学校に着き、担任の先生と面談を行なった。担任の調べによるとどうやら息子は数人のグループからいじめを受けているようだった。気づくのが遅れて大変申し訳ないという担任に対してもいえいえ、といつもの癖ですぐに答えてしまった。妻は横で「どの子が息子をいじめているのですか?!」とやや熱がこもった口調で担任に問い詰めた。担任は「すみません、まだ不確定なこともあるので個人名を上げることはできません…」と申し訳なさそうに言った。「息子が不登校になっているんですよ!?」とさらに詰めた。担任は事態の改善に努めますのでと頭を下げるばかりだった。一旦落ち着こうと妻に言った。そして担任によろしくお願いしますと言い、面談を終わった。

 帰り道、妻は俯いたままだった。何とか盛り上げようと今日の夕飯は何にしようかなど言ってみたが反応はなかった。その日はスーパーでお惣菜を買って帰った。実際に食べるとお惣菜も悪くないなと思えた。

 担任から連絡があった。嫌がらせをしていた子達が息子に謝りたいらしい。これは朗報だ、この漂う重い空気もじきに晴れることになりそうだ。息子に担任からの連絡を伝えたが反応は意外なものだった。「どうせ先生が謝りなさいと言っているだけで結局何も変わらないよ、会いたくないから嫌だよ。」と言っていた。それに対して私はそんな風に捉えては良くないよと言った。息子は私に「何もわかってない!お父さんは僕の味方じゃないの!?」と言い、部屋に戻ってしまった。困ったなぁと思っていると妻が後ろに立っていた。

 「あなたは本当に何も真剣に考えてないのね。」妻は冷たく私に言い放った。そんなことないよ、しっかり考えているよと言うと「それじゃあ何で大切な息子がこんなに辛い目に遭っているのに平然としていられるわけ!?」と怒鳴った。ごめん、そんなつもりはなかったんだと言うと妻は私の頬を叩いた。「何でこんな状況でまでヘラヘラしてられるの!?信じられない!!」と言われた。それに対して何も言えず困ってしまった。もう会社に行かなくてはならない時間だったのでまたごめんと言い家を出た。

 この状況をどう解決するか考えた。今まで自分は何かされても許してきたし、何かした時はただ謝ってやり過ごしてきた。そのため今回も謝る以外の選択肢が思いつかなかった。気持ちを込めたらわかってもらえるだろうと思い帰宅した。帰宅すると明かりが消えていた。出掛けているのだろうかと思ったが違ったらしい。食卓の上にはお惣菜と置き手紙があった。しばらく息子を実家で休ませると書いてあった。なるほどそれは名案だと思った。冷めていてもお惣菜は美味しかった。

 それからの生活は平穏そのものだった。朝起きて仕事に行き、帰ってきて風呂に入りご飯を食べて寝る。この繰り返しだった。ある日帰ると妻がいた。久しぶりに顔を見た気がしたので久しぶりだねと言った。妻は呆れたような顔をしていた。なぜ連絡をしてこなかったのかと言われた。確かに言われてみると連絡していなかった。ごめんと言った。妻は何も言わずに離婚届けを渡して帰っていった。私はそれを受け入れた。空欄を記入し、印を押して寝た。

 朝起きてご飯を食べて会社に行った。帰りに役所に寄ったこと以外はいつも通り平穏な一日だった。疲れも無く晴れやかな気分だった。いつも通りの繰り返しほど平穏な幸せは無いと感じる。思い返すと怒りを消してからというもの他の様々な感情も消したおかげで平穏な日々を送れている気がする。悲しむことも困ることもなくなった。今日もご飯が美味しい。心も穏やかだ。こんな幸せは他にないと感じる。本当に良かった。

 考えてみると幸せを求める気持ちも無ければきっともっと平穏な生活が送れるはずだ。そうすると幸せを求めなくても幸せになれる。無くしてしまおう。名案だ。結局感情自体いらなかったのだ。こんな大発見ができて私は本当に運が良い。気分も良い。本当に良かった。

 「本当に、良かった。」
 
 

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