ゴースト、ダンジョンで生活する。

島地 雷夢

ゴースト、変わる。

 トウカは吸魂鏡が当たる寸前に、全ての時間が止まったかのような感覚に襲われた。 いや、全てではなく、自分の思考以外の時間が止まったかのように、だ。 彼の眼前には吸魂鏡が迫っている。あと数ミリと言う僅かな距離だが、それが届く事は永久に無いのではないかとさえ思えてくる程に静かであった。 トウカの頭の中には、自分が今まで体験してきた事が流れてきている。いわゆる、走馬灯と言うものであった。 農家の次男として生まれたトウカは長男を見て学び、親の言う事を訊き、そして妹二人と弟一人のいい手本になるべく頑張っていた。 長男の後について行き、拙いながらも肉体の大きさがある程度は近い二つ上の存在から事ある毎に真似をしていった。 自分がそうしたように、妹と弟が自分の真似をしてある程度の事が出来るようにと気を遣いながら世話をしていた。 そして、両親からは色々と言い訊かされた。その中でもやはり、トウカにとって一番心に浸透しているのが決して人間を殺してはいけない、と言う言葉だろう。 トウカは人間でありたいと願う。外道にならないように、人間を殺さないようにしなさいと両親に言われた。 だが、ここ最近では両親の言葉の重みと言うものが段々とであるが薄れていっているのを感じていた。それは、つい四日前に言われた言葉が原因だ。「トウカくんは甘いんだね」 溜息を吐かれながらシーフェに言われた言葉が今でも脳に浸透し、事ある毎に思い起こされる。「甘いよ。人間は、綺麗事は言えるけど、それはあくまで絵空事だよ。そうありたいと願うだけ。生き物は、時に手段を選ばなくなるんだよ。防衛本能ってのがあるからね。例えば、自分の命とか、命よりも大事なものを失いそうになったりとか」 人間が人間を殺してはならない。厳密にそう言う決まりはない。別に人間が同族を殺したからと言っても、人間の枠から外れるなんて事はない。人間以外の生物であっても、同族を殺す事はある。それは縄張り争いであったりと、理由は様々だ。 トウカはダンジョンを徘徊していてそれを一度目にした事がある。 ヒトリギツネ。常に一匹だけで行動をするキツネ型のモンスター。繁殖期以外では同族とも群れる事をしない孤高を突き進むモンスター。 そのヒトリギツネが争っているのを、偶然トウカは発見した。それはセイルとシーフェがいなくなってから数時間後の事であった。 二匹のヒトリギツネが互いに首に噛み付き合い、相手を殺そうとしていた。どちらが悪いとか、どちらが優位とかそのようなものは存在しなかった。ヒトリギツネは同族の同性を会ってしまった場合、繁殖期以外でも敵と認識して排除しようとする傾向にある。 どうしてそのような習性を持っているかと言えば、自分以外の存在を信じられないからだ。生き抜いていく為に必要な物は己の力のみ。仲間は何時か裏切るかもしれない、足手纏いになるかもしれないと言う疑念が生まれ落ちた時から植えつけられた悲しきモンスター。 同族であっても誰も信用出来ない。それでも、ヒトリギツネは子を為す為に仕方がなく繁殖を行う。種を存続させなければ種が絶滅の一途を辿ると分かっているからだ。だが、それでも同族を疑い、敵として迎え撃とうとする本能を抑える事は出来ない。 誰にも頼らずに己の力を引き上げようとする向上心こそが、たった一匹だけで生き抜いて行こうとする強い意思こそがヒトリギツネと言う種を現代まで存続させてもいる。ヒトリギツネにとって、一匹である事が当然であり、他が全て敵なのだ。 ダンジョンモンスターとして生まれたヒトリギツネには負ける前に逃走すると言う概念が無いので、文字通りどちらかが死ぬまで攻防は続いてしまう。 二匹は牙を立てたまま互いの気道へと食らい付き、そこから血を滲ませていた。どちらも退かず、どちらも緩ませず、どちらも相手を殺そうとしていた。トウカと言う異種族のモンスターが視界の端にいようともお構いなく、目の前の敵と認識した同族の息の根を止める事だけに意識を向けていた。 トウカには、その光景は異様にしか見えなかった。 ヒトリギツネ自体はトウカが人間であった頃にも見た事はあるが、それは一匹ずつであり、一度に複数匹を見た事は無かった。なので、ヒトリギツネの習性を知らずにいた。 どうして、同じヒトリギツネ同士で殺し合いをするのだろう? 疑問を頭の中で回転させ、納得のいく回答を自分の中で得ようとしたが、失敗に終わった。ただ、シーフェの言った手段を選ばなくなる、と言う言葉が、どうしてだかトウカの頭にぽつんと浮かんだ。 ヒトリギツネの争いは、静かに終わりを告げた。 片方が急に首から口を離すと、そのまま地面に倒れ伏した。その狐の眼は虚ろに開かれており、何もない虚空を凝視してた。首から流れ出る血が地面を赤く染めていた。 死んだんだ、とトウカは身震いした。トウカ自身も食料を得る為に生き物の命を取る事をしてきたのだが、これは生きる為の糧を得るのに必要であった殺生ではない。 生き残ったヒトリギツネは自身が殺した一匹を一瞥すると、視界の端に入れていたトウカへと首を向けてよろよろとおぼつかない足取りで近付いてきた。 だが、距離を縮める前に、そのヒトリギツネもまた地面に伏した。首から流れ出ていた血はとめどなく、地面に赤い水溜りを形成させた。 二匹のヒトリギツネの力量はほぼ互角だった。なので、互いの攻撃を躱し切れずに、相互が首に食らい付いた状態であったのだ。牙は気道を破損させ、酸素が肺へと送られないようにし、またそこから生命の象徴である血液を流出させて死を早まらせていた。 その結果、時間差ではあるが二匹共に息絶えた。 動かなくなった狐を見て、トウカは吐き気を催したが、それを堪えて飲み下した。「……どうして?」 その疑問に答えられるだろう風の精霊も、そして当の本人達はもうここにはいないのだ。なので、トウカの質問には誰も答えてはくれなかった。 トウカは、その二匹のヒトリギツネを一瞥しながらその場を去った。ヒトリギツネはモンスターなので、食せば強くなる為の糧となるのだが、生憎とその時のトウカにはそのような余裕はなかった。 やや速度を上げながら、ダンジョンの奥を目指していたトウカの前には何匹かモンスターが現れたが、トウカはフライパンを振るって一撃の下に倒していった。倒したモンスターは小脇に抱えて隠し部屋のある空間まで持っていった。 自分で殺したのだから、きちんと礼儀を持って弔わないといけない。ヒトリギツネの殺し合いを見たトウカにはそれが強く前面に出ており、拍動が増しているかのような錯覚に襲われていた。 トウカの言う弔いとは、血肉を食らうと言う事。生存していくうえではどうしても生き物を殺して食べて行かなければならない。なので、自分で殺してしまった生き物は責任を持って食べるべきだと、ある種の強迫観念に乗っ取られながらトウカは隠し部屋のある空間へと足を運んだ。 その中には、熱でも壊れる事の無い麻痺毒を有するティアーキャタピラーも含まれていた。トウカは熱を通して食し、数時間体が動かなくなったが隠し部屋にいたので外敵に命を狙われる事は無かった。逆に、ティアーキャタピラーを食べた事による麻痺の感覚が心を少しだけ平穏へと導いてくれた。 現在ではある程度精神は落ち着いている。しかし、どうしてもヒトリギツネの殺し合いには腑に落ちないでいた。 習性だから仕方ないと言われれば、表面上は納得するのだろうが、それでも心の内では紛然としているに違いない。その仕方がないと言ってくれる人がここにはいないので、トウカは一人でその答えを捜していた。 ただ、それでもこのヒトリギツネの一件があったからこそ、トウカの芯がぶれ始めた。 人間が人間を殺したら外道になる。そう言われてきたトウカにはつまり、同族を殺したものは外道になると言っているようなものだと解釈するようになった。 それを当てはめるならば、争っていたヒトリギツネ二匹は二匹とも外道であったと言う事になってしまう。 しかし、トウカはそれは有り得ないと思っている。 何故そう思ったかと言えば、直感が自分にそう告げて来たのだ。トウカの直感はヒトリギツネの確固たる意志のようなものを無意識のうちに感じ取っていたからだろう。譲れないものの為に、ヒトリギツネは戦い抜いた。それを外道と称してはならないと心の中で自分に言い聞かせた。 ただ、ヒトリギツネの場合は同族を敵と認識すると言う習性によって争いが起きたので、一概にもそうとは言い切れないが、確かにそれは譲れないものと称しても過言ではないのかもしれない。 譲れないものに従い、それを守る為にヒトリギツネは戦った。それは他の生物には決して理解出来ないが、同族には理解出来る誇るべきものだ。「本当に大事なものを失いそうになった時、トウカくんは今と同じ事が言えるのかな?」 また、トウカの頭にシーフェの言葉が甦ってくる。 同じ事――それは人間を殺したくないと言う事。 トウカは薄れているとは言え、今でも思ってしまっている。それによって、リビングデッドに後手に回るような事となってしまった。 リビングデッドがあまりにも人間と同じ様相をしているので、自分から攻められないでいた。なので、リビングデッドの攻撃を避けた時にそのまま黒いフライパンでカウンターを仕掛けるのではなく、天井付近まで飛び上がって距離を取り、二回も肩を掴まれた時に隙をついての反撃をしようとしなかったのだ。 リビングデッドは人間とは違う。頭の中ではきちんと理解してても、どうしても攻撃しようとすれば手が止まってしまう。防御だけに専念してしまう。 攻めなければ勝つ事は出来ない。防いでいるだけではいずれ負ける。 自分の命が狙われている状況であったとしても、トウカは殺したくないと思ってしまった。例え相手が屍だとしても、平気で動いて声を発する事が出来るのならば、彼はもう生きているとしか見れなかった。 見た目が人間であるリビングデッドを倒す事は出来るのだろうか? いや、そもそももう白いフライパン――吸魂鏡が眼前に迫ってきているので、このままではトウカに待っているのは死だけであり、結果としてリビングデッドを倒す事は出来なくなってしまう。 両親の言葉が薄れてきているとは言え、それが未だに根付いてしまっているトウカの足枷となり、リビングデッドに敗北しそうになっている。 そもそも、トウカがリビングデッドを倒そうと思っているのはどうしてか? それをトウカは自問する。 ただ、それに自答する前に時は唐突に動き始めた。 トウカの顔面に吸魂鏡が叩き付けられ、その勢いは恐ろしいものであり、トウカの首があらぬ方へとへし折られ、後頭部が背中についてしまう。 痛みは無かった。ただ、痛みを伝える神経が途絶えてしまっただけなのか、はたまた死ぬ直前の細やかな天の悪戯かトウカには分からなかった。 ふと、自分の意識が何かに吸い寄せられるような感覚にトウカは陥った。その何かとは今も尚顔面に減り込んでいる吸魂鏡であり、少しずつではあるが、意識――魂が移行している。トウカは魂を吸い取られている感覚を意識が吸い寄せられると表現した。 視界がぼやけ、完全に暗転される。 聴覚が衰え、完全に無音となる。 触覚が途絶え、完全に無痛となる。 魂全てがゴーストの体から吸魂鏡へと移行させられてしまった。 音も無く、色も無く、温度さえも無い鏡の中。トウカは自分が一体どうして吸魂鏡――白いフライパンに意識を移されたのかを分からないでいる。だが、死んでしまったのだろうと言う予測はつけている。 死んでしまった。 リビングデッドをどうにかする事も出来ずに死んでしまった。 トウカの甘さ――人間を殺したくないと言う甘さによって死んでしまった。 もし、あの日、セイルを襲った人間と相対した時のように感情を失くしてしまっていたならば、こうならずに済んだかもしれない。 しかし、もう遅い。 トウカの魂は吸魂鏡に囚われ、輪廻転生へと戻る事が出来ず、魂の崩壊へと近付いたのならリビングデッドの体へと無理矢理に入れられる。 それを待つ間、トウカはどれ程の時を一人で過ごさなければならないのだろうか? いや、一人ではない。常に近くにはリビングデッドがいる事になるが、感覚を完全に失ったトウカには、それさえも感じ取る事が出来なくなっている。 一人。独り。ひとり。 トウカは、この鏡の中よりも前にダンジョンで一人になる事を選んだが、それはどうしてだったか? それもまた自問する。先程のリビングデッドをどうにかしようとした理由もまた、自問する。 だが、どうしてだかトウカは答えが出ないでいる。簡単に答えが出る筈の問いかけであったのだが、魂だけとなり、何も感じ取る事の出来なくなったトウカは精神が一時的に不安定となり、考えが纏まらなくなってしまっている。 そして、トウカは切り替えてしまった。考えても答えが出ないなら、もう考えなくていい、と。 そのまま、トウカは何も感じないままに意識さえも閉じようとしてしまう。兎に角、自分は死んでしまったのだ、ならば考えても、そして起きていても意味が無いとして、先の見えない暗い深淵へと意識を落としていく。 ――――――筈であった。
『――トウカ様』
 何も感じなくなったトウカの耳に、いや、魂だけの存在となったので耳は存在しない。トウカは、その声を魂そのものでしかと訊いた――思い出した。
『安心して下さい。トウカ様がこれ以上辛くならないよう、悲しまないよう、怖くないように、私が、何時までも一緒にいます。ですから、もう、無理をなさらないで下さい。私が、いますから』
 その声はもう二度と訊く事はないと思っていた、人魚の声。 それを思い出したトウカは、先程答えを出すのを諦めた自問に対する自答を直ぐ様導く。 どうしてダンジョンで一人になろうとしたのか? それは自分と一緒にいると言ってくれた人魚にこれ以上怖い思いを、そして危険な目に遭わせたくなかったから。 どうしてリビングデッドをどうにかしようとしたのか? それはけじめをつける為であり、不安要素を消す為。自分が死んでしまった事で、人魚に深い傷を与え、恐怖心を植え付けてしまった。なので、せめて何の因果が発生して再び人魚の前に現れる事の無いようにと生ける屍を倒そうとした。 答えを出すと、トウカは閉じようとしていた意識を覚醒させる。そして、このまま死んでしまっては駄目だと自分を奮い立たせる。 自分が家族の下へと送り届けようとした人魚の為に。 自分の所為で傷つけ、恐怖させてしまった人魚の為に。 自分と一緒にいてくれると言ってくれた人魚の為に。 トウカは死んでしまっては駄目だと、せめて死ぬ前に、リビングデッドをどうにかしなくては駄目だと、足掻く。もがく。 いくら人間にしか見えないからと言っても、もう躊躇いが生じる事はないだろう。 人間を殺したくないと言う言い付けを守ろうとする意志を、人魚をこれ以上傷つける可能性のある要素を無くしたいと言う意志が凌駕した。 すると、トウカの意識は再び吸い寄せられるような感覚に陥った。それは先程とはベクトルが逆であり、吸魂鏡からゴーストの体へと向かって魂が戻っていく。 視覚が戻り、聴覚が戻り、触覚が戻る。 すると、顔面と首に激痛が走った。が、そんな事になぞ気に留める事も無く、死んでいたがそれでもきちんと握っていた黒いフライパンをきちんと握り直し、現在も顔面に減り込んでいる白いフライパンを感覚が戻った右手で掴み、無理矢理に首を元の位置に戻して前方を見る。 そこには、トウカに視線を向けているリビングデッドが逆さまになって沈んでいく様が目に映ったが、表情はトウカが最後に見たものとは違って薄ら寒い笑みではなく、口角を下げて目を細めた――傍から見れば悲しげと言う言葉が相応しい顔をしている。「ド、ウ……シテ?」 リビングデッドはトウカに聞こえるようにしっかりとした疑問を口にする。吸魂鏡で殺したのなら、魂が鏡に吸い込まれなければならない。実際に、トウカは一度鏡に吸い込まれた。 しかし、トウカの魂は吸魂鏡からゴーストの肉体へと戻って行った。 それが意思も心も持たないリビングデッドと言えども信じられなかったのだ。「……僕のリビングデッド」 トウカは池の底へと沈んでいくリビングデッドへと向けて告げる。「もう、眠っていいよ」 二つのフライパンを左右に展開させながら、トウカはリビングデッドへと向けて泳ぎ出す。

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