虚空を歩む者

島地 雷夢

出逢い

「ん……んん」 身体を横にしていたユレンは目を覚ますと、節々が痛み、胴の中で鈍痛が広がっていくような感覚が訪れた。 自分は、一体どうしたのだろうか? 少々記憶の混濁があり、思い出すまでに暫しの時間を要した。「そうだっ……あぐ……」 銀色の何かの襲来で惨劇が起き、レイディアが連れ去られてしまった事を思い出したユレンは勢いよく上体を起こす。が、それによって痛みが増し、苦痛に顔を歪め胸を手で抑える。「おいおい、決して軽い怪我じゃねぇんだから無理すんなよ」 と、そんな注意と共に痛みで顔を歪めるユレンの肩を優しく押して、誰かが彼を再び横にする。 体を横にする事で、幾らか痛みが引く。 そして、再度横になった事で自分がベッドの上にいる事。そして首を回して辺りを確認し何処かの部屋の中にいる事が窺えた。 木目が見える板張りの天井に壁。供えられている嵌め殺しの窓からは陽光が差し込んでいる。唯一の出入り口となる扉は今は固く閉ざされている。「ほれ、痛みが完全に無くなるまでもう少し寝とけ寝とけ。無理して起きてっと痛みが長引くだけだぞっと」 自分の今置かれている状況を確認していると、ユレンの眼に黒い何かが降りて来て視界を塞ぎ、優しく何度も上下してリズムを刻む。 それは不思議と安らぎをユレンにもたらし、彼の意識は微睡みの中へと消えていった。 それから暫く時が経ち、ユレンは再び意識を取り戻す。 二度目の覚醒では節々の痛み、そして胴体に走っていた鈍い痛みが後も残さずに消え去っていた。 痛みがない事にほっと息を吐き、ユレンはゆっくりと上体を起こす。 場所は変わらず何処かの部屋だ。見覚えのない、見知らぬ場所。 そもそも、ユレンは劇場に……いや、白と黒の世界にいた筈だ。なのに、どうしてこのような場所にいるのだろう?「あ、目を覚ましたんですね」 と、現状が理解し切れずに頭に疑問符を浮かべていると、扉が開いてそこから一人の女性が水の入った桶と濡れた布を持って入ってきた。 歳はユレンよりも一回りほど上だろうか。新緑を思わせる柔らかな緑色の長髪を後ろで束ね、同色の瞳が収められた目はやや小さいながらも目じりが下がり柔和な印象を与えてくる。「感謝しろよ? 手当てしたのはこいつなんだからな」「それは……どうも、ありがとうございます」「いえいえ、お気になさらず」 ユレンは自分の痛みを癒してくれたのがこの女性だと分かると、頭を下げて深く感謝の意を表す。対する女性は柔和な笑みを浮かべつつ首を横に振る。 ふと、ここで一つ疑問が生じる。 この女性が自分を手当てしたと教えてくれたのは誰だ? と。 この場にはユレンと、そして女性しかいない。なのに、明らかに第三者の声がユレンの耳に響いたのだ。しかも、その声はまだ痛みが残っていた際に彼を気遣っていた声と同じものだ。 ユレンは辺りを見渡すも、声を主を発見する事は出来なかった。 いや、声のした方向を思い出せ。声は確か後方から聞こえてきた。 後ろを振り返るも、そこには壁があるだけで人はいない。 しかし、視線を下に向ければ何やら黒い物体が蠢くのを捉える事が出来た。 本来は枕がある位置にそれはおり、ぴんと立てた三角形の耳が二つついた少し拉げた丸い物体。真ん丸の眼には黒い瞳が収められ、まるで狸を連想させるかのごとく太めの尻尾を備えていた。 手足の類いはなく、そして胴体も存在しない。頭部に直接尻尾が生えたそれはベッドの上で軽く跳び跳ねると女性の頭の上に乗った。「さて、紹介が遅れてしまいましたね。私はネレグと申します。こちらのちょっと不思議な生き物はバルックです」「おぅ、紹介に預かったバルックだ。よろしくな」 女性――ネレグは水の入った桶をベッド付近の棚の上に乗せ頭の上に乗ってきた不思議生物バルックを抱えて紹介をする。「あ、どうも。ユレンって言います」 ユレンも名前を名乗り、軽く頭を下げる。「えっと、いきなりなんですけど、どうして俺はここにいるんですか?」「それはこの子がユレン君をここまで連れて来たからですよ」「連れて来た?」 ネレグの言葉にユレンは黒い不思議生物へと視線を向ける。彼の視線を受けたバルックはふふんと得意げに胸……もとい僅かに身体を上げる。「おぅ、このオレが虚空に消えそうになってたお前をここまで連れて来たんだ。感謝しろよ?」「それは、重ね重ねありがとうございます」「なぁに、当然の事をしたまでよ」「そして、あの、虚空って何ですか?」 礼を述べたユレンはバルックの述べた言葉に疑問を抱き、彼? に尋ねる。「虚空ってのは、お前が入り込んだ世界の事だ。空は白く、下は黒く。桟橋のようにいくつもの道が連なり交差した場所。それが虚空だ」 バルックの言葉に、ユレンの頭の中にあの場所の光景が甦ってくる。 そして同時に、牛頭の何かに連れ去られたレイディアの事も。「っ! そうだ、こうしちゃいられない! すみません、お世話になりました!」 ユレンは自分に掛けられていた布団を退けると、ベッドから飛び出して扉へと駆け出す。「おいおい、何処に行く気だよ?」 出て行こうとするユレンの前にネレグの手から飛び出したバルックが先回りして立ちはだかる。「何処って、その虚空って所です」「行き方も分からないのにか?」「あ……」 ぴょんぴょんと跳んで目線を彼と合わせるバルックに改めて言われ、ユレンは虚空への行き方が分からない事に気付かされる。行き方が分からないのでは、レイディアを助けに行く事は出来ない。「まぁ、取り敢えず落ち着け。それに、今のお前が虚空に行っても返り討ちに遭うだけだ」 バルックの言う事は尤もだ。 例え虚空へと向かう方法を身に着けていても、今のユレンではあの牛頭の何かには敵わない。奴を打ち倒す事も出来ずに逆に自身の命を散らしてしまう未来が待っているだろう。「…………」 ユレンは押し黙り、俯いてしまう。 自分の無力さが恨めしい。もし自分に力があれば、レイディアを連れ戻す事が出来たのに、と。 そして、劇場で殺戮を繰り広げた銀色の何かを止める事が出来たのに、と。 武術に関しては一座で訓練を積んでそれなりの力量は持っていたが、それでも本職に比べれば拙いものだ。 役者を目指していたのでそれは当然の事なのだが、それでももしもっと力があればと思うと悔やみきれない。「まぁ、あれだ」 そんなユレンの頭に乗り、バルックは尻尾で軽く彼の後頭部を叩く。「そう悲観すんな。確かに、今のままのお前じゃ返り討ちに遭うだけだ。けどな? お前にはまだ可能性があるんだ」「可能性?」「あぁ。あいつらに対抗する力を得られる可能性が、な」「っ!」 ユレンは息を飲む。あの銀色の何かに、牛頭の何かに対抗する力を得られる可能性がある?「それは、本当ですか?」「嘘言ってどうすんだよ。お前は虚空に入れるんだから、素質はあるんだ。虚空は普通の奴じゃ入れないんだ。けどな、極々稀に虚空に入れる奴がいるんだよ」 そう、とバルックは軽く溜めてから、言葉を続ける。「かつて奴等の侵攻を食い止めたあいつと……今じゃ古の勇者って呼ばれてるあいつと同じ体質を持つ奴がな。お前は正にそれなんだよ」 自分が、かつて世界を救った古の勇者と同じ体質を持っている? にわかには信じられないユレンはおずおずとバルックに尋ねる。「そう、何ですか?」「おぅ。長年一緒にいたオレが言うんだ。間違いねぇって」「……長年?」「おぅさ。オレはな」 バルックはぴょんとユレンの頭の上から退くと、得意満面な顔をしながら彼に爆弾を投下する。「古の勇者と共に長年虚空を渡り歩いた相棒なんだよ」

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