もっと早くに伝えていれば

ノベルバユーザー225269

もっと早くに伝えていれば



ひどく甘い臭いが周りに広がっていた。少女は一人、その匂いを嗅ぎながら木の下に腰かけていた。そんな少女の前に男が現れた。その男は少女を見てにやりと笑った。
『あぁこんなところに人がいたんですね』
男は細い目をさらに細めた。縁のない丸メガネを押し上げた。そして少女をじろじろと観察した。そして一つ頷いた。
『ねえあなた僕の実験に協力するつもりないですか?』
少女はうんともすんとも言わなかった。ただ無表情に男は見ていた。いや男をというよりも、その後ろで燃えている火を見ていた。火が上がっている場所は少女の住んでいた村があった場所だ。
『あぁあの村は今日をもって無くなりますよ。王の御意志です』

少女はその話にも興味を示さなかった。
『ここで死ぬか、僕に飼われるかどちらかを選んでください』
その言葉にやっと少女の目が男に向けられた。少女は目の前の男をまじまじと見た。男は白衣を着ていた。医者だろうか、いやそうは見えない。病気なのではないかと思われるほど白い肌、紫色の唇、目の下の隈。つり目とその隈のせいか男の目はぎょろっとしていた。灰色の長い髪は前髪も一緒に後ろで結ばれていた。ひどく猫背な男はとても不気味だった。
『どちらを選びますか?』
少女は表情を変えることなく言った。『殺して』、と。








しかし男は少女を殺さなかった。男は少女を殺さず連れ帰った。そして男が研究者だということ、リードという名前だということ、そして研究の中身を教えられた。男は『毒』の研究をしていた。
『あなた多少は毒の耐性を持っているんでしょう?僕が今研究しているのはそういう毒の耐性を持っている人間に対しての毒についてなんだよ。だから危険は伴うけどいいよね?』
少女は男のそんな言葉に、肯定も否定もしなかった。そんな少女を男は楽しげに見つめていた。


今日も男は毒を片手に少女の前に現れる。大きな研究所の隣に建設されている実験棟に少女はいた。少女のほかにも実験体はいるらしいが会ったことは無かった。少女は一日をベットの上で過ごしている。毒の反応を見るためだった。男のほかにも何人か研究者が部屋を訪れることがある。しかし誰も少女には関心を示さず毒の効能・効果だけを見ていた。少女はそれが嫌だと感じたことは無かった。あの時死ぬはずだった命が少しだけ延びているだけ、少女はそれくらいにしか考えていなかった。殺されなくてよかった、本当は死にたくなかったんだ、そんな思いは少女には一切なかった。
「今日のやつは発熱と嘔吐だけだったみたいだね。はいこれ解毒薬。ちゃんと飲んでおいてね」
男は夜に解毒薬を持ってくる。それを少女が飲んでいるのかも確認することなく部屋から出て行く。







そんな日々が3カ月続いた。男はギラギラと目を輝かせていた。それは周りの研究者もひくほどのものだった。
「リードさん何をそんなに嬉しそうなんですか」
ここでは比較的若い研究者のロイが男に尋ねた。男は嬉しさを隠し切れないのだろう、口元が緩んでいる。
「ロイ、君には分からないのかい?あの子は3カ月ももっているんだよ?」「あの子?…あぁ、あの不気味な女の子のことですか」「そうだよ!あんなに致死性の高い毒を毎日飲ませてもあの子は死ぬどころか体調に異変をきたさないんだ。あんなに素晴らしい実験体はいないよ」
ロイは今にも踊り出しそうな男を横目に見つつ、3カ月無事に生き延びた少女を思い浮かべた。赤茶色の髪に茶色の瞳。そばかすが残っているが、体はもう女として出来上がっているようだった。しかしいささかそこらへんにいる女よりも未熟な感じはするが。何処にでも平凡な少女、しかしその少女は気味が悪いほど無表情で無感情だった。ニコリともせず、泣きもしない。毒で苦しんでいるときも誰にも言わずただ布団にくるまっている。少女はただの一度も実験をやめたいと言わなかった。というよりもロイも他の研究者も少女の声を聞いたことがほとんどなかった。毒を飲むときたまに「うっ!」といううめき声や苦痛の時に声が聞こえるので声が出ないというわけでもない。少女は口がきけるのに誰とも話そうとはしない。話や媚びられるのを苦手とする研究者たちでさえ、少女の態度は異様に感じる。
「でもいつまでもつか分かりません。案外簡単に死んじゃったりするかもしれませんよ」「あの子に限ってそんなことは無いよ!」
男は少女を実験体にしてからすこぶる機嫌がよかった。ついでに体調もよかった。たいていの人間は一度の毒で死ぬ。毒に耐性があるからと言っても何度も致死性の高い毒を飲ませられたら死んでしまう。けれど少女はいくら試しても死なない。他の人間や動物で実験をするよりも少女に試したほうが早く答えを得ることができる。そう言った意味で男は少女を気に入っていた。自分の実験に欠かせない人物になっていた。
「リードがそんなに気に入る人間ってのは興味あるな」「パールさん!」
男とロイの会話に入ってきたのは大柄なパールと言う男だった。パールもロイや男と同じ研究者だった。パールの専門は流行病に効く薬の開発だ。毒と薬は違うようでよく似ている。流行病も一種の毒だ。毒が無ければ薬は生まれない。毒と薬は男と女のように対になる。

「で、その女の子何て名前なんだ?」「は?」「へ?」
男とロイは何を言っているんだという顔でパールを見た。逆にパールは二人のそんな反応に驚いた。
「いやいやいや、3カ月ももった女の子だろ?名前くらい聞いててもいいだろ」「実験体に名前なんて必要?」「いや俺的にはなくてもいいと思いますけど。だっていつ死ぬか分からないじゃないですか」「そうだよね」
パールは深いため息をついた。
「お前らちょっと普通の奴らと頭の回路が違うと思っていたけどそこまでかよ。…その女の子だって人間だぞ?名前くらい呼ばれたいに決まってるだろ」「そういうものなのか?」「さぁ」「…研究ばっかりでそっち方面にはとんと疎いのは知っているが、そこまでいくと人間として失格だろ」
パールのそんな言葉に男は少しむっとした。
「なら今から聞きに行こうじゃないか」「えっ!リードさん!」「おっ!俺も付き合うぜ」「ちょっ!パールさんまで!…俺も行きますよ!!」

結局男たちは三人で少女のもとを訪れた。少女は突然の訪問にも驚くことなく読んでいた本から目を上げた。その少女の顔にパールは既視感を覚えた。
「あなたの名前は何?」
男はパールたちが何か言う前に少女に尋ねた。相変わらず隈がひどい、やはり病人にしか見えない。
「ねぇあなたの名前は?」
男はせかすように言った。少女はロイを見、パールを見、そして男を見た。
そしてかすれた声で名前を告げた。










「おはようアイリス。今日はちょっと症状が重くなるかもしれないからね」「…はい」「何かあったらベルを鳴らして?僕かロイが来るから」「分かりました」
少女の名はアイリス。リードはアイリスの名前を知ってから、よくその名前を呼んだ。アイリスがリードの名前を呼ぶことは無かったが、リードは別段気にしていなかった。
あれからリードはアイリスとたわいない会話をするようになった。アイリスは口数は少なかったが無視はしなかった。頷いたり返事をしたりとする。以前に比べると、二人の仲は縮まった。

それと同時に、リードの機嫌はうなぎのぼりだった。今まで滞っていた依頼の毒を三日ですべて片付けた。これにはロイを含む他の研究者も目を見張った。めったに自分の利にはならないことはしないあのリードが、と騒がれた。
リードは終始にやにやしているがそれはもはや癖であって楽しいから嬉しいからと言った理由で笑っているのではない。けれども最近のリードはいつになくにやにやし、何かを思い出しては笑っている。時には頬を染めていることもあった。リードと長年にわたって親交のあるエイサという研究者は言った。「あいつは今は恋をしている」と。それに周りは驚くと同時に納得した。あの女性に興味のなかったリードが、いやしかしそれならば最近のおかしな行動も理解できた。


そんな噂を流した当人であるエイサはその後リードに直接尋ねた。「恋をしているのか」と。するとリードは首を傾げた。そして言った。「恋とは何だ」と。
エイサはそんな友人の答えに肩を落とした。もう38になる男が恋の一つも知らないとは何たることだ。研究に明け暮れるのはいいが、人生の楽しみの一つである性欲を蔑ろにするとは何たることか。エイサはリードに怒鳴りつけたが、リードはそれをさらりと受け流す。それよりもリードが聞きたいのはその『恋』とやらのことだ。
「恋って言うのは、その子のことを考えると胸がどきどきしたりだな。夜眠れなくなったり、仕事が手につかなかったり。声を聞きたい、顔を見たい、笑顔を見たい…みたいな何ていうか自分が相手に対して色々と尽くしてやりたくなるんだよ。その子が悲しいと自分も悲しい、その子が嬉しいと自分も嬉しい…そういった経験ないか?」「…確かに言われてみるとある。気が付けばあの子のことばかり考えているんだ。それに無性に会いたくなって、会に行ったところでどうってことないんだけど。ただ顔を見るだけで安心するんだ」「お前それは恋だよ。お前の初恋だ。…で、その気になる相手は誰だ」「エイサは会ったことなかったかな?アイリスって子だよ」

その名前を聞いたエイサはガッとリードの肩を掴んだ。
「っお前、よりにもよって実験体に恋をしたのかよ!」「しちゃいけなかったか?ていうか肩痛い」
何が悪いとでも言いたげなリードにエイサは肩を掴んだまま怒鳴りつけた。
「実験体に入れ込みすぎるなって言っただろ!実験体はそのうち死ぬんだ。特にお前のは猛毒だ!」「あの子はもう半年近くそれに耐えているよ?あの子が死ぬはずないだろう?」「今はだろ!!いつ拒否反応が出てもおかしくないだろうが!!」「エイサ、何を怒っているのか僕には分からない。僕がアイリスを想うこの気持ちは恋なんだろう?」「間違いだ、それは恋じゃない。同情だ!」「…エイサ、僕は誰かに同情するほど優しい人間じゃないよ?知っているでしょう?」
リードはエイサの腕を強引に引き離した。そして丸メガネをくいっと上げ、エイサを睨みつけた。
「僕は今最高に幸せなんだ。邪魔をしないでくれる?いくら友達だからって邪魔をするなら…殺すよ?」

その言葉にエイサはごくっとつばを飲み込んだ。リードは穏和そうだが実際は誰よりも感情の起伏が激しい。だからこそ一度機嫌を損ねると大変なことになる。リードは何度もそう言った理由で実験段階の毒で人を殺した。それをエイサはよく知っている。実際にエイサの婚約者はリードの毒によって殺された。エイサという婚約者がいながら、その女は男癖が悪かった。ついにはリードにまでその手を伸ばしてきた。リードをためらうことなくその女を毒で殺した。エイサはそれを咎めることはなかった。むしろ殺してくれたことに感謝していた。あんな愚かな女と結婚するくらいなら国を捨ててもいいとさえ思っていた。
リード達研究者は別に国や王族に従順なわけではない。むしろ剣や頭で勝負しているあちらよりも、毒で人を殺す方がはるかに簡単だ。しかしそれをしてしまっては、自分たちの思う研究ができない。だから国には手を出さない。だからといって忠誠心があるわけでもない。研究がしたいだけなのだ、彼らは。
「話がそれだけなら僕はアイリスのところに行く。今日はお茶菓子があるんだ」
リードは頬を緩ませながらエイサのもとから去って行った。もしその想う相手が実験体でなければエイサも応援しただろう。しかし実験体は駄目だ。いつ壊れてもおかしくない。最後に悲しむのは残されるリードなのだ。










アイリスは今日も毒と戦っている。毎日違う毒がアイリスの体内で蠢いている。腹を突き刺すような痛みがあるものや、頭痛がひどいもの、嘔吐がひどいものなど効果は様々だった。アイリスの体はここに来るよりも細くなっていた。食事はとるが、たいていは吐き出される。しかしアイリスが正気を保っている。それはきちんと朝晩は休めること、そして何よりも毒の耐性がかなりあったからだ。

アイリスは元々あの焼かれて今は地図からも消されたあの村に住んでいた。両親は医者をしていた。腕のいい医者だった。それを見て育ったアイリスは毒草と薬草の区別が幼い時よりついていた。アイリスの夢は両親と同じ医者になることだった。両親の後をついで立派な医者になろうとしていた。
けれどその夢は儚く崩れ去る。アイリスが8歳の時両親は村人によって虐殺された。村人が言うには両親は研究者であって医者ではないのだと。けれど幼い私には理解できなかった。研究者と医者の違いが。研究者も医者もみんなのために仕事をしているじゃないか、そう言うと村人たちに冷ややかな目で見られた。両親は手足を縄で縛られ、村人に殴られ蹴られた。虫の息になったころ村人たちは両親の首に縄をかけ木に吊るした。ものの数分で両親は息絶えた。しかしそれだけでは止まらなかった。怒り狂った村人たちは両親の屍に何度も鞭をうった。死んでいるはずの両親から血が出てきた。しばらくすると大柄な男たちがのこぎりのようなものを持ってきた。そしてそれで両親の体を切断した。頭、腕、手、足、足首、胴体。それらは火で燃やされた。両親の体は灰になり風で舞った。
アイリスはそれをずっと見ていた。両親がアイリスを見ながら息絶える瞬間も、燃やされるところも。全てをアイリスは見ていた。狂ったように両親を殺した村人たちは最後に良心を見せた。「お前は助けてやろう」そうアイリスに言った。その後アイリスは人里離れた森の中で7年間暮らしていた。そこで毒草や薬草を食べながら生きてきた。リードが訪れるまでアイリスは人と会話をすることはなかった。
だから最近のリードの行動には困っている。人とかかわってこなかったのだからアイリスは語彙力が人より遥に低い。表情が乏しいのもそのせいだ。両親が死ぬまでは明るい性格だったはずだ。しかし今はそれは見る影もない。
アイリス、アイリス…リードがそう呼ぶたびにアイリスはどうすればいいのか分からなくなる。自分の名前を呼ぶ人なんてもうずっといなかったから。どうしてリードがこんなにも自分に構うのか分からなかった。実験体として扱ってくれればいいのに、最近では世間話をしてくるようになった。アイリスはそんな関係を求めているわけではないのだ。

アイリスが求めているのは『死』だ。あの時、リードはアイリスの死の邪魔をした。本当ならあの時、あの甘い香りの毒によって村人同様死ぬはずだった。リードがあと1時間遅く現れていればどんなに毒に強くてもあの毒ではアイリスも死ぬはずだった。けれどリードは死を望んだアイリスを生かした。これから先生かすも殺すも僕次第だよ、リードはそう言って笑った。ならばリードが求めている実験体になりその毒によって死のうと考えていた。
だがその死は一向に訪れない。むしろ毒が軽くなっていることがアイリスには分かった。確かに猛毒だった時期もあったがここ最近、特にこの1ヶ月リードは一度たりとも致死量に値する毒は持ってこなかった。本当に程度の軽い、死ぬことは無い毒をアイリスに飲ませた。その毒の耐性がついているアイリスにすぐに分かる。アイリスは鼻が良かった。だから毒の匂いを嗅げばそれが新しいものかそうでないかは分かる。
これでは何のためにここにいるのか分からない。死を望んだのに、生かされている。こんな状態では私は愚かな、決してありえないことを考えてしまう。そんなことを考えるくらいならいっそのこと違う誰かが殺してくれればいいのに。
そんなことを思っていると見覚えのない誰かが部屋に入ってきた。




















「なあリード、お前に言っておきたいことがあるんだ」「…何だい?」
久しぶりにパールはリードに会いに来た。最後に会ってからかれこれ3カ月はたっている。お互いに忙しい身なのであまり気にしてはいなかったが。
「その前に、お前があの子に恋をしているっていうのは本当なのか?」「あぁ、その話だったら本当だ」
そう言うとパールは眉をひそめた。そして持っていた書類をリードに渡した。リードはそれを一瞥すると、「だから何?」と尋ねた。
「お前分かってるのか!?彼女の両親は王族に歯向かった逆賊だぞ?前王の食事に毒を盛ろうとしたことであの村に追いやられたんだぞ。…彼女の父親が王族でなかったら死刑だったはずだ」「…アイリスの両親のことはすでに知っている。それにそれの調査を依頼されたのは僕だ。確かにアイリスの父親は毒を持っていた。しかしそれで前王を殺そうとしたかは謎だ」「だからってな!逆賊のしかも実験体に恋をするってお前おかしいだろ!」「何が?どうしてアイリスに恋をしてはいけないの」「エイサも言ってただろう?彼女はもうすぐ死ぬ」「どうしてそれが分かる?」「君の毒は猛毒だろ?それを少量でも与えられたら人は死に至る。今が偶然死ななかっただけだ、いつ死ぬかは分からない」「ならそれは僕たちだって同じだろう?僕らだっていつ死ぬか分からない。それに今は猛毒はアイリスに与えていない!」
それ聞いたパールは愕然とした。研究者、しかも毒の研究者が何を言っている。毒はまだそんなに量は多くない。もしリードが同じ毒を複数にわたりアイリスに与えていたなら、もうアイリスの存在意味はなくなる。それをリードは分かっているのだろうか。いや、まず何がリードを変えたのか。その理由はやはりアイリスだった。
「……どうしてそんなに彼女に惹かれる?」「アイリスはね、僕が毒をまいたあの村で唯一生き残ったんだよ。僕がそんな面白いものに惹かれないはずないでしょ?でもそこからは彼女を実験体として見ていたよ?けど決定的なことが起こったんだ」「決定的なこと?」「君がアイリスの名前は、と尋ねた時だよ。あの時、僕は彼女が人間だってことを思い出したんだ。今間実験体とは違う。彼女は特別だっって。僕の毒であんなにも生き延びたのはアイリスが初めてだったんだ。それから寝ても覚めてもアイリスの名前を呟いていた」「……俺が、あんなこと言わなければ」「パールには感謝しているよ。彼女が他の実験体とは違うって気づかせてくれたんだから。きっと名前を聞かなかったらこんな風にならなかったよ。まだ彼女は僕の名前を呼んでくれないけれどいつか呼んでくれたらって思っているんだ」
本当に嬉しそうにリードは話した。けれどそれを聞いているパールの顔色はどんどん悪くなった。自分の不本意な発言で、目覚めさしてはいけない感情を目覚めさせた。実験体に情を抱くような奴ではないと過信していた。

「あとね、笑顔を見たいんだ。あの子の。まだ見たことないんだ、ほほ笑みでもいい。僕に笑いかけてほしい」
こいつは幸せなんだ、パールはそれを喜んでいいのか分からなかった。リードは両親から愛情を受けずに育った。そのため幸せが何なのか理解できないのだ。リードは物心つくころから今のような子だった。そのためリードの両親の愛情は5つ上の兄と3つ下の弟に注がれた。興味があるのは毒で、にやにやしながら専門書に噛り付いていた。家族はそれを気味悪がった。そんなリードが初めて実験対象にしたのが弟だった。幸い体に障害は残らなかったが、両親や周りの人間はリードを家から追い出した。それからリードは隔離され育った。
リードにとってアイリスは初めて愛情を向ける存在なのだ。理由がどうであれ、リードはアイリスを求めている。

パールとリードは長い付き合いだ。リードの成長は嬉しい。だがやはり応援できないのだ。研究者の中にもリードをあからさまに蔑む者もいる。実験体に情を持った哀れな研究者、そのうち恋に傾倒し研究ができなくなる、そう噂しているのをパールは知っている。リードは優秀な研究者だ。失うわけにはいかないのだ。
だからパールは決断した。そのせいで今後リードと絶縁になったとしても、リードが研究に集中できるならそれでいいと思った。パールも苦渋の決断だった。けれど最後には彼に手を貸した。











今までに何度かアイリスの部屋を訪れていた名前も知らぬ男から渡されたものが猛毒だということは何となく理解していた。そしてこれを飲めば、アイリスの望んでいる死へと近づけるのだと。男は言った。「これを飲むか否かは君が決めることだ」と。アイリスは差し出された瓶を受け取った。そしてためらうことなく飲み干した。
「…お前は死が恐ろしくはないのか」「はい」
男とアイリスの会話はそれで終わった。男は瓶を回収すると静かに部屋から立ち去った。



その数分後リードが訪れた。
「今日はね君に言いたいことがあるんだ」「はい」
リードは白衣についているポケットからあるものを取り出した。
「これはね耳輪。…夫婦はこれを片方ずつつけるんだ」「…知っています」「僕はね、この片方を君贈りたい。そしてもう片方を僕がつけたいんだ」
それはリードがこの2週間でずっと考えていた結婚の申し込みだった。耳輪を女性が受取れば晴れて夫婦になれる。
リードの持っている耳輪をアイリスが受け取れば二人は夫婦になれるのだ。

アイリスはそれをじっと見つめた。そして、ほうと息をついた。
「それをもう少し早くに聞けていたらそれを受け取っていました」「…え?」
まさか断られると思っていなかったリードは呆けた声を思わず出してしまった。それと同時に、アイリスが自分の意見を述べたことに驚いた。
「私はあなたに殺されるのをずっと待っていました」「うん、知っているよ」「だから思っていたんです。もしあなたが私と同じ想いを持っていて結婚を申し込んでくれるなら結婚しようと。そしてあなたの愛情が尽きるまで傍にいてそれからあなたに殺してもらおうと」「アイリス、何を言っているの」「私はあなたをずっと前から知っています。両親の名を寸でのところで地まで落とさなかった恩人です」
アイリスは知っていた。両親が自分が生まれるずっと前に、それこそ村に来る前にどういったことがあったのか。父親が王族だということも知っていた。毒の下りの話も知っていた。だからその真実とリードのことも知っていた。ずっと憧れていた。両親が褒め称えていたリードのことを。一人になってもずっとその人のことを考えていた。いつからかそれは恋心になった。見たこともない人に想いを寄せる自分を馬鹿だと思ったこともある。けれど諦められなかった。そしてリードが現れた。あの時アイリスは世界で一番幸せだったと言える。ずっと恋焦がれている人が現れた。一目でわかった、この人がリードだと。だからリードに殺されたかった。ずっと待ち望んでいた居た死を愛する人の手によって。これほど幸せなことは無い。
だが死は訪れず、アイリスは生き長らえた。実験体になってもいつ殺してくれるのか楽しみだった。けれどそれがないと分かると、とたんに欲が芽を出した。リードに愛されたい、リードに抱かれたい、リードと夫婦になりたい。こんな情けない愚かな想いを抱えたまま生きていたくなかった。こんな欲は私にはいらない、アイリスはそう思いその欲を切り捨てようとした。けれどできなかった。
そんな時あの男が訪れたのだ。最初はアイリスをじろじろ見ているだけだった。それから何度か訪れ、少し会話をした。名前も知らない男はついにアイリスの求めていたものを差し出した。
あと一歩、リードが早かったならアイリスはその欲に負け、自分の弱さを呪いながらもリードを受け入れた。自分のあふれ出て止まらないこの欲を満たしてからリードに殺してもらおうと思っていた。けれど先に来たのは名前も知らぬ男だった。その男が先だったことにアイリスは少しも悲しいとか悔しいとか思わなかった。それどころか、これが自分にはふさわしいと思った。死に対する恐怖はもうない。それよりも早く楽にしてほしかった。この世界にいたくなかった。自分の居場所などないこの世界に。

「…あなたが居場所になってくれるかもって思ったんです」「アイリス」「でもやっぱり違いました。私にはこれがお似合いです」
その言葉を聞き、リードは悟った。遅かったのだと。自分はアイリスと生きる道を失ったのだと。アイリスは死を選んだのだと。リードと共に生きてそれから死ぬ人生をアイリスは選ばなかった。いや違う、選べなかった。その選択をさせたのはほかでもないリード自身だった。
「君が死ぬなら僕も死ぬよ。…君を一人で逝かせはしない」「その気持ちだけで十分です。…あなたは立派な研究者だと両親も言っていました。あなたは生きるべき人です」「…君が好きなんだ、愛しているんだ。…お願いだからそんなことを言わないで」
その言葉にアイリスは初めて驚きの表情を見せた。それから目じりが下がり、口角が上がった。
「その言葉がずっと聞きたかった…。私もリードさんが好きです。……でももう遅いんです」
アイリスの目から涙がこぼれた。
今日はアイリスの色んな表情が見れて嬉しいはずなのに、リードの心は寒々しかった。リードはぽろぽろと涙をこぼすアイリスに何も言うことができなかった。

行き場を亡くした耳輪が箱ごとコロコロと床に転がり落ちた。






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