彼の心にわたしはいないシリーズ

ノベルバユーザー225269

伝えなければならなったのに (中編)

一度だけ各務俊也の姉である智子さんに言われたことがある。春と弟の俊也の婚約を解消してほしいと。智子さんは弟には他に好きな人がいて、私個人としてはその子と添い遂げてほしいのだと、そう言った。好きな人と添い遂げたいという気持ちは理解できた。けれどそれを了承するとあの子の幸せはどうなる?また昔のようになってしまうのだろうか。やっとここまで来たのに。笑顔を見せてくれるようになって話もできるようになった。時々買い物にも出かけるようになった。妻も息子たちも他の孫たちも喜んでいるのに。あの子が笑うと私たちまで幸せになれた。春を嫌いな人間なんてこの家にはいないのに。あの子を失いたくなった。


結局その話はうやむやになり、その数か月後、橋田美雪は二五という若さで亡くなった。人が一人死んだというのに私の心は悲しみよりも安心のほうが占めていた。これであの子の幸せの邪魔をする人間はいなくなったと思った。けれどそれが思い違いだったと気づくのはすぐだった。
毎日毎日各務俊也は橋田美雪を想って泣いていた。彼女の姿を描いた絵の前で。その事実を私たちはあの子に伝えることができなかった。婚約者が別の人間を愛していただけでも信じられない事実なのに、死んでもなおその人間を想っているという事実はとうていあの子に伝えられるものではなかった。しかしあの子は知ってしまった。各務智子が教えたのだ。あの時はさすがにあの女をどうにかして罰してやろうと考えた。弟のことを大切にしていることは良いことだと思う。けれど周りが見えな過ぎていた。





春だって泣いていた。橋田美雪が亡くなる前からずっと。あの子は私たちに気づかれてないと思っているが家の中で知らないものはいないだろう。朝なかなか降りてこないときは瞼の晴れがひかないときだ。
きっとこの家の人間ではなかったらこの子の気持ちは小さいころに誰もが経験する淡い恋だよ、そう言うだろう。そういう恋は叶うことは無いんだよ、胸に収めておくのが一番だよとも。そしてその恋はいつしか消えて、また別の人を好きになるんだ、私の友人でそう言っていた奴がいる。これらがすべて間違っているとは思わない。だが例外だってあるのだ。幼いころの恋心が成就することだってある。
あの子の想いは決して淡い恋ではなかった。ずっと各務俊也に一途な想いを抱いていた。今は妹にしか見えないかもしれないがそれがいつか恋に変わり、愛になってくれればいいと思っていた。あの子が想う分、彼もいつかあの子を想ってほしかった。






私たちのそんな考えがきっと彼を苦しめていたのだろう。各務俊也は死んだ息子と同じように夢を追い求める人間だった。ここにはない世界を求めて、いつか飛び立っていきそうだった。私は知っていた。飛び立った者は決してこちらには戻ってこないと。息子がそうだったように、各務俊也も戻ってこないと分かっていた。だから手放せなかった。あの子と結婚してあの子を幸せにできるのは彼しかいないと思っていた。
そんな私の考えとは反対に、彼はあの子を傷つけることしかしなかった。自殺を図ったのだ。それを告げた時のあの子の顔を私は一生忘れないだろう。眉間にしわを寄せ口を固く結び泣くのを必死にこらえていた。こんな時でもあの子は泣かなかったのだ。妻があの子を抱きしめても抱きしめ返すことはしなかった。あの子は苦しい思いを一人で抱え込んでいた。






各務俊也はなかなか目覚めなかった。春は毎日のように病院に通い続けた。あの子の顔にはめったに笑顔が浮かばなくなった。寝込むことも多くなった。そのたびに、孫たちはあの子の部屋に行き、話をしていた。一番小さな孫の祐介はいつもいつもあの子の部屋に花を届けに行っていた。けれどそんな祐介の頑張りもあの子には届かなかった。
各務俊也が目を覚めしたのは自殺を図ってから半年を過ぎたころだった。さぞあの子も喜んでいると思ってあの子を部屋を呼んだ。「よかったな」そう長男の健太郎が春に言った。それを境に、他の息子たちや妻が「おめでとう」と言った。けれど春は前のような笑顔ではなかった。悲しそうにほほ笑んでいた。「・・・私は何もしていません」そう告げたときの春は今にもここから消えてしまいそうだった。息子が外の世界に興味を持ちだした頃にも似たような焦りを感じた。だが今はその時よりも何倍もの焦りを感じた。存在がなくなってしまいそうだった。






春が元気をなくす一方で各務俊也は元気を取り戻し色々なことを精力的に行っていた。知人の幅が増え、様々なことに興味を持って取り組んでいた。あの子はそんな彼のそばでずっとそれをほほ笑みながら見守っていた。だからまさかあんなことになると思っていなかった。
「私はここから出て行こうと思います」春からそう言われたとき、それを聞いていた人間の反応は様々だった。瞠目しているものや口を開けているもの、お茶をこぼしているもの・・・。私はすぐさま尋ねた、どうしてだと。
「ここは私には合いません」
そうただ一言言った。次男である昭次郎は春に駆け寄った。
「この家が不満だったか?もしかして他の家の奴らから嫌なことを言われたのか?それとも俺たちが嫌いになったのか?何か気に障ることしたか?したなら言ってくれ。どんなことだって皆なおすから!」
昭次郎は誰よりも春に目をかけていた。春も昭次郎には比較的なついていたほうだと思っている。春は昭次郎や私たちを見ながら言った。
「どれも違います。最初は家に馴染めなくて一人でいました。でも皆さんが優しいことも理解していましたし、決して両親のことを馬鹿にすることもなかった」「なら・・・ならどうして!」「ここは私には居心地が良すぎるんです」「それの何がいけない?」
昭次郎は春の肩を掴んでゆすった。
「お前を嫌っている奴なんてこの家にはいないぞ?お前を家族と思っている」「何で・・・」
春は小さな声で呟いた。
「何で誰も責めないんですか!」「春?」「私は・・・おじい様たちが愛している息子を、・・・父さんを奪ったのに!」
急に大きな声で叫び出した。息子たちの命を春が奪っただなんて考える人間はここにはいない。それは春も知っているはずだ。
「私は父さんと母さんが死ぬとき傍にいたのに助けることもできずただただ茫然とその場に立っていたんですよ。・・・おじい様やおばあ様、健次郎伯父様たちの大切な・・・大切な父さんを私は見殺しにしたのに!」「それは違う!」「何が違うんですか!それが事実ですよ!私が・・・私があの日遊園地に行きたいなんてわがままを言ったから両親は死んだんです」
息子夫婦は遊園地に行き、帰りのバスが原因で亡くなった。高速道路を走っていたバスが横転し、息子夫婦は亡くなった。涼子さんはずっと春を抱きしめていたそうだ。
「あれは事故だったんだよ、春は何も悪くないよ」
三男の喜三郎は春に近寄りながら言った。そう誰も春を責めてなどいない。あれは事故だったのだ。
「・・・いいえ、私のせいです」「違うよ」「本当はあの日に行く予定じゃなかったんです。・・・でも私がわがままを言ってあの日になったんです。そして・・・両親は亡くなった」
それは初めて聞いたことだった。誰もその事実は知らなかったのだろう。誰かの息をの音が聞こえた。
「両親を・・・殺した私が、誰かに・・・あの人に愛されようだなんて思ったから」
春は昭次郎から離れると自分の肩を自分で抱きしめた。
「俊哉さんが好きだからふり・・・振り向いてもらいたいって・・・そう思ってたのに。私が・・・両親を殺したから天罰が・・くだ、下ったんです」
春の声は涙声にも聞こえた。誰もあの子に近づけなかった。
「皆さんから大切な人を奪ったのに・・・私が幸せになりたいって思ったから」「春・・・」
私はやっと声を発した。
「たとえそれが真実だとしてもあれは事故だったんだ」「ちがっ」「違わない。お前が殺したんじゃない」「っ!」「誰もお前を責めていない、それよりもお前に幸せになってほしいと心から願っている」「おじい、様」「本当にお前が幸せになってくれるのを願っているんだ」
春は首を横に振った。
「私は、誰も幸せにできません。俊哉さんを好きでも・・・彼の心は私にはないことくらいずっと、ずっと前から分かっています」「・・・っ春」「・・・婚約を解消していただきたいと思います」「何を言っているんだ、春」「もう無理です。私・・・私は最低な人間だから」
何が、そう聞こうとしたとき、祐介が春に近寄った。祐介は春のスカートを引っ張るとにっこりほほ笑んだ。
「僕は、春ちゃんが最低何て、思わないよ?」
まだ五歳の祐介の言葉に皆同感だった。けれど春の顔は険しいものだった。
「・・・祐君、私はここに誰のことも信用してないのよ?」
春の言葉に祐介の顔だけでなく私たちの顔もこわばった。
「父さんと母さんが死んでから信じたのは俊哉さんだけ。でも、俊哉さんへの信用も十二歳のときに壊れたけど・・・」「・・・春ちゃん・・・?」「ここの居心地がよかったのは本当よ?だって施設でのようなひどい行いはここでは受けなかったから」「ひどい、行い・・・?」「そう。叩かれることも蹴られることも罵倒されることもないこの家はとっても居心地がよかった」
妻は口を手で覆っていた。春が施設で虐待を受けていたことを私も知らなかった。
「信用していな癖に信頼を得たいと思ってしまう愚か者なのよ、私は。だから何も手放せなかったの。俊哉さんもここも」
寂しそうに春は部屋を見渡した。
「でも、もう終わりにしないとね?」「どうして?」「多分、私はここにいたら皆に迷惑をかけるからよ」「迷惑なら僕だって毎日かけてるよ!」「・・・祐君とは違う、本当に愚かなことをして皆に迷惑をかけるのよ。きっといつか取り返しのつかないことをしてしまいそうなの」
春のその顔を見て、本気なのだと悟った。婚約を解消してここから出て行く気なのだと。





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