紅茶と供に福音を

海野水雲

「ごちそうさまでした」「はい、お粗末様でした」 早朝、幸助と佐奈の仕事は玄関周りの軽い掃除から始まる。 そうして、洗濯や朝食づくりを済ませ、それから少しの休憩。その後に身支度となる。もっとも、休憩は朝食で潰れてしまうわけだが。「実際にやってみると思ったより大変ですね」「無理もないです。本当は一カ月訓練したからといって身に付くものではありませんから」 幸助は半ば無理やり従者になった。そのため、体が付いていかないのも仕方がない。だが、だからといって泣き言は言っていられない。「本当はこれに特訓まで付いてたんですよね……」「そういうことになりますね」 そう、本来ならば、追加で毎日ダンスや体術の訓練が付いて来るはずだった。ただ、講師の方が怪我をして入院中であるため先延ばしになっているのだ。 ある意味助かったと、幸助は胸を撫でおろす。「でも、驚きなのはこれを剰水さんが一人でやっていたことですよ。本当にすごい」「いえいえ、そんなことはありません」 佐奈は少し照れ気味に首を振る。「それに、寝ているジル様を起こすのに秘策もありますから」「秘策ですか?」「はい。紅茶を部屋までお持ちするのです。あれは体が反応しているのでしょう。ジル様は布団からゆっくり出て、紅茶のカップまで寝ぼけて歩いてくるのですよ」 少しとろんとした表情で、佐奈は若干恍惚としていた。「まぁ、ジル様は猫舌なので結局飲めないのですけど、カップを落としてしまわないように見守りながら、飲み終わるまで見届ければ、そのまま起きられますよ。いつも凛々しいジル様のちょっと抜けているお姿を見ていると少しゾクゾクしますね」 そこまで一気に言って、佐奈は軽く息を吐いた。 もしかして主とペットの立ち位置は逆? 何とも言い難い顔で、幸助は佐奈を見守る事しかできなかった。「そろそろ起こさなければなりませんね」 突然佐奈に言われて時計を確認すると、ジルの起床時間まであと五分というところだった。時計を見ずに言い当てたのは習慣からだろう。 三日目の朝。 幸助と佐奈の会話は昨日とやや同じ。 なんせ片方は知識が曖昧な人で、片方はその道の長い人だ。訊く側褒める側、答える側謙遜する側は明確に分かれる。 色々訊くことで、少しは知識を固められた。未だに幸助がわからないのは、ジルとの距離感だった。あまり硬くならない程度に、身分をわきまえて。その距離感が難しい。 どこが正解なのかがわからないため、取り敢えずで振る舞っているものの、ジルの査定は始まっている。仮に何か悪い点があったとして、そこに自分が気が付けなければあと四日後にはクビになっていることだろう。「今日は任せます」「はい、わかりました。ではその間に掃除をお願いします。あとキッチンのお片付けも」「分かりました。あれ、洗濯ものはいいんですか?」「……申し訳ないのですが、いくら九条様が性欲盛んな年頃の男性であっても、ジル様の下着を握らせるわけにはいきません。私のものであればともかく」 自分のならいいみたいな言い方は、心が揺らぐのでやめてほしい。 幸助は切に思う。「すみません。配慮が足りませんでした。では、終わらせた後は食堂で」 その言葉を最後に、二人とも自分の持ち場に向かう。 キッチンから出た佐奈の手に、先ほど話題にだした紅茶はなかった。 今日は必要ないのだ。すんなりと起こし役を引き受けたのも、元々今日は佐奈自身が起こしに行く予定だったからである。 ジルの部屋の扉の前で、メイド服を整えて、おかしなところがないか確認する。 こんこんと、軽くノックを二回。「入りなさい」 早々に凛とした声で返事が返ってくる。佐奈は特に驚くこともせず、扉を開けた。すると、既に制服に着替えたジルが椅子に腰かけていた。 ジル自身朝起きられない体質というわけではない。ただ単に読書で夜更かしをする日が多く、そのせいで朝起きられないだけだ。早く寝れば目覚めも良い。 今回は昨晩佐奈が頼んで、朝に時間を取ってもらったのである。「それで? 話があるのでしょ?」 相変わらずジルは気怠そうに、天井を見つめる。「はい。こう言っては失礼かと思いますが、ジル様は何時まで選別をなさるおつもりですか? 九条様に限ったことではありません。前も、その前も、試すことは悪い事ではありませんが、合格ラインが少し厳しいのではないかと思います」「……何も難しいことはないでしょ。私が求めているのは、ヴァレットとして最低限のラインよ」 言いつつも、ジルの声は固かった。「従者として、とおっしゃいますが、彼らは一カ月しかカリキュラムを受けていない一般人です。それも、そういう風に一般人から選出するように言っているのはジル様ご本人ではありませんか。一般人にきちんとした心得を求めるのは酷かと思います」「そうでないからいいの。それに、今の使用人たちの在り方は変よ。彼はいい線行っていると思うわ。まだ結論は出せないけれど」「玄人でもなく、素人でもない執事。それがジル様の欲しいものでしたね」 わがままを言っているのはわかっていた。だが、ジルもここまで来ると後には引けない。すでに何人もの従者をクビにしている。 ここで基準を変えるのは彼らを侮辱するに等しい行為だ。「そうよ。あまりそういう意識があっても困るわ。その点彼は悪くない。命の大切さを良く理解しているのよ。だから、きっと……」「そういえば、初日も好感触とおっしゃっていたようですね」「私の問いに対しての回答が良かった。それだけよ。まぁ、後でまた問い直すけど」 ジルは毎回自分を殺してくれるかという質問をしていた。そうして、大抵は、できません、や、貴方が望むなら、といった解答をしてくるものが多い。だが、幸助は違った。そんな事を言うな、と質問自体から否定したのだ。そして、それがジルの求めるものだった。「玄人はどうにも、主人の命令を絶対視する癖がある。何を犠牲にしても」「やはり、神取様の件を踏まえてですか? あの事件があったのは、もう一年も前の話です。それでもまだ、駄目なのですか?」「駄目ね。それに、まだ、一年前の話よ。私にとってはつい最近の出来事にも等しいわ」「……失礼致しました。ですが、あまり引きずりすぎるのも良くはありません」「それでも、怖いの」 ジルは光りを求めるように、朝日の射す窓へと歩み寄る。 ガラス越しの世界はどうしてこんなに明るくて綺麗なのか。そして、どうしてそんな世界を前にして自分は檻の中でくすぶっているのか。ため息は尽きない。「神取はかなり優秀だったし、私も好きだった。私の身勝手なのはわかっているつもり。それでも、約束を破られた以上は、やっぱり裏切られたって感じているのよ」 情けなく笑う事しかできなかった。「ごめんなさい。佐奈まで引っ掻き回して、迷惑かけて」「いいんです。私はジル様の専属メイドですから、どんな迷惑を掛けられても構いません」 優しく微笑みかける佐奈は、この返事が良くない事も重々承知していた。しかし、この返事以外できないのも、またわかっていた。「貴方もそうだったわね。でも、私より早く死んだら許さないから」「……はい。心得ておきます」 少し躊躇したが、佐奈はいつもの調子で了解する。その姿がジルには悲しかった。 はぁ、とジルの深いため息。静かな部屋にはよく通った。「無茶言って悪いわね」「いえ、むしろ、無茶を言われることが使用人としては光栄ですから」 にっこりとほほ笑む佐奈に、ジルは申し訳なさそうに苦笑する。「そういうものなのかしら」「そういうものです」「こうしてみると、佐奈はなんでも知っている気がするわね」「そんな事は御座いません。知らない事なんて山ほどあります。例えばまだロケットランチャーの細かい設計図なんて頭に入っていませんし」 そう言って佐奈は目を輝かせた。 幸助と初めて会ったときに資料室で読んでいた資料。あれこそがロケットランチャーについての細かい資料であった。「例えは佐奈らしいけど、屋敷内で物騒な話はだめ」「す、すみません。つい」 調子に乗りすぎたと感じて佐奈は咄嗟に謝る。 少しでも銃器が頭を過ぎると、軽く興奮してしまうのは悪い癖だった。しかも、所構わずである。佐奈自身は別に恥ずかしくもなんともない。だが、何度も同じことを主に注意させるのは使用人としてはいけない事だ。「……今回も一週間でしょうか」「ほぼ間違いないでしょう。お父様が時間を作るのはいつもそのタイミングじゃない。電話も、今晩って所じゃないかしらね」「いつも、ですか」「分かってはいるけど、そう強調しないの。そういう人なのは知っているでしょ?」「失礼致しました」 軽く頭を下げた佐奈。その顔はあまり優れない。「それと佐奈、神取の事は訊かれたら答えても構わないけれど、自分から言っては駄目よ」「承知致しました。代わりに訊かれたことは何でも答えていい、ですね」 ジルは目を瞑って、こくりと頷く。 一通り訊きたかった事を訊けたが、佐奈はその答えに満足はしていなかった。 時計を確認すると、いつもより少しだけ遅い。そろそろ行かねば、幸助が待っている。「少し長くなりましたね。申し訳ありません。朝食の準備はできております」「それじゃあ、行きましょうか」「はい。冷めてしまう前に参りましょう」 ジルは普段通り、少し威圧的なオーラを放っていた。 だが、佐奈の控えめな眼差しは怯えているからではない。元の彼女を知っているからこそ、今のジルが滑稽に見えたのだ。 そして、そう見られていることをジル本人も理解していた。それでも、後ろ足を引く枷は外すことが出来ない。 鍵は手中にあるのに、その枷はまだ足首に、手首にがっちりとはまっていた。 期待して待つことしかできない。そんな自分が、自分でも滑稽に思えてくる。そうすることで、佐奈にも同じことを強要していることもまた、一つの枷となっていた。

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