偏食な子犬拾いました
マダムとのお茶会当日
ああ眠い……。
何で大樹は手加減ってものを知らないんだ。
大樹にとってはあれでも手加減したつもりなのかもしれないが、俺にとっては全然手加減されていない。
お陰でめっちゃ眠い。
今日は二つの講習しかないのが、まだ助けだ。
その後が一番問題なんだけどね。
「ではここにカットトマトを入れ……」
寝惚けた頭でトマトの入ったボウルを持ち上げる。
「あっ!」
誰かが声を上げた。
? と思った時は遅かった。
俺は鍋に入れる筈だったトマトを、盛大に外してしまった。
「……失礼しました」
コンロ回りに落ちたトマトを回収して捨て、ボウルに残っていたトマトと、予備で置いていたトマトをカットし直して鍋に移す。
思っていた以上にボンヤリしていたようだ。
大樹の家に行く前に仮眠していこう。
「あとはストックを入れて煮込みます。味を整えたら出来上がりです」
何とか眠気を抑えてスープを仕上げていく。
スープ皿の底にもち麦を入れたっけ?
それちゃんと言ったっけ?
茹でたのは覚えているから、配ったレシピ見たら言わなくても分かるよな?
そんな事をボンヤリと思いながら、もち麦入りトマトスープを仕上げていく。
もうすぐ終わると思って頑張っているが、一秒が長く感じる。
「それでは試食になります。食べ終わったら各自片付けて終了です」
受講生が作り終えたのを見届け、試食にうつる旨を伝える。
いくら時間が決まっているとはいえ、ここからがまた長い。
もう帰りたい……。
「香西」
試食するために椅子に座ろうとしたら、大樹が教室に入ってきた。
ポーカーフェイスを気取っているが、笑いを堪えているのがありありと分かる。
「あと片付けとくから、次の講習まで寝てろ」
「悪い……」
「カメラ越しで見てても、めっちゃ寝むたそう。可愛い」
耳元で囁いて、見えるか見えないかギリギリの位置から頬にキスをしていく。
「ちょ……!?」
「大丈夫、見られてないから。見られてても別に俺は構わないし」
「これが原因で受講生いなくなったらどうすんだよ」
「そしたら俺が養う」
そういう問題か? と反論する間もなく、インカムを取られ椅子を奪われる。
俺は大樹にシッシ、と教室から追い出された。
「ま、いいや。少し休憩しよ」
眠くてかなわん。
三十分のタイマーをセットし、控室のソファで目を瞑った。
瞬時に眠りに落ちていく感覚があった。
ほんの一瞬のような時間であったが、しっかりと三十分眠っていた。
お陰で頭はすっきりと目覚めてくれた。
そのせいか、本日最後の二回目の講習では材料を鍋から零す事もなく、寝落ちして皿を割るような事にもならず終了することが出来た。
あとは家に帰ってお茶会の準備をするだけだ。
「大樹ん家の冷蔵庫って、余裕あったか?」
「十分に。なにせ食べ物は一切入っていない。飲み物が少々あるくらいだ」
「そうか。じゃあワインとかゼリーは勝手に入れさせて貰うからな」
二回目の講習後、後片付けを始めた大樹に尋ねた。
先に帰って運べるものは運んでおく段取りだったので、入らない物を持ち帰る二度手間を避けるためだ。
ガラガラだという返事に安心し、『それじゃ、お先』と車のキーを大樹のジャケットのポケットから取り出すと、すぐさまひょいと奪われた。
「睡眠不足で運転するな。タクシーで帰れ」
そうさせたのは誰だよ、と心の中で愚痴りながら大人しくビルを出てタクシーを拾ってマンションへ帰った。
お茶会は夕方。
まだまだ時間はあるように見えて、多分丁度いいかぎりぎりくらい。
簡単なものしか作らないといっても、それなりに量はあるし運び入れる物は結構ある。
ワインに紅茶缶、ゼリーにクッキー。
大樹の家には二人で使う分くらいの食器しかないのも分かっている。だからグラスに皿にと、必要なものは目一杯あるのだ。
「ただいまポチ~。手伝って~」
玄関あけて開口一番、俺はポチに手伝い要請をした。
ポチも分かってはいただろうが、俺が帰ってすぐにそんなことを言うものだから『は?』という顔になっている。
「手伝いますけど、今すぐ?」
「すぐ。結構時間ない」
「大樹さんは?」
「まだ教室にいる。俺の代わりに片付けしてくれてるよ」
それを聞いてそわそわとし出すポチ。
何かあったのか、やらかしたのか。でも一向に口を開かない。
「大樹に何か用事? 電話してみたら?」
「いや、うん、そこまでは」
何か言おうと思った感じではあったが、ポチは言いよどんで止めてしまった。
「そう? じゃあ早速だけど運ぶの手伝って」
鞄をリビングに置き、ポチを引き連れてキッチンへ向かう。
段ボールがなかったのでエコバッグに数本ワインのボトルを入れてポチに預け、俺はトレイにゼリーを乗せて持つ。
「大樹の部屋って初めてだっけ?」
ポチは頷いて隣の部屋のドアを見つめる。
緊張してるっぽいな。
「別に普通の部屋だよ。うちより殺風景な感じだけどね」
殺風景というより物がないといった方が正しい。
仕事して寝るだけの部屋。それが大樹のこの部屋における意義だ。
昨日『隠す』と言ったのは俺の私物や、大樹のプライベートが分かってしまうような物、そして仕事関係の見られてはマズイ物。
全部鍵のかかる寝室に放り込んであるのは聞かないでも想像できる。
「今から運んでくるものは全部キッチンに入れておいて。あとで大樹がセッティングする」
部屋の造りは一緒なので、初めてのポチでも迷うことはないだろう。
「本当に何もない」
「だから殺風景だって言っただろ」
単身用にしては少し大きい冷蔵庫に、小振りのキャビネットが一つ。
物がないにも程がある。
シンクの上にある棚の中には鍋とかフライパンは入っているが、多分一人でいる時も使ってないだろうな。
「ワインは冷蔵庫に入れて。空いてる場所なら冷凍庫以外どこでもいいから」
「縦でも横でも?」
「まだ開けてないし、すぐに飲むからどっちでも大丈夫だよ」
言ってから『ん?』と思った。
ポチはワインを置くのに縦横気にしていたが、どこからそんな知識入れたんだ、と。
まだ未成年だし、あの歳でワインを縦に置くのを気にするやつなんてあまりいない。
家でそれなりの年代物のワインをストックしているのを目にしているなら分からないでもないが。
今そんな事を考えても仕方がない。
まずは準備が先だ。
「ポチ、それ入れ終わったらうちのキッチンからクッキー取ってきて」
「香西さんは?」
「俺は使えそうなもの探してから、また取りに戻るから」
先に戻ってて、とポチを一旦帰らせる。
キャビネットには二人分のグラスとデザート皿が二枚、マグカップくらいしかない。
本当にここには二人でコーヒーを飲んでケーキを食べるくらいのものしか置いていない。
でも、スプーンなどをしまっている引出しにはワインオープナーが入っていた。
「こんなもんか」
これ以上探したところで何も出ないだろう。探すだけ無駄な気もする。
諦めてキッチンを出たところでポチがクッキーを持って入ってきた。
「あ、クッキーはカウンターの上に置いておいて。ワイン、まだ持ってくるのあるから一緒に行こう」
次々と運び入れようと思い、またポチを戻らせようと声をかけた。
「あの……」
「ん? どうしたポチ」
「あの、ですね……」
カウンターの側から離れないポチ。
何か言いたそうで、でも躊躇っている。
大樹に話そうとしていた、何かやらかしたかもしれない事についてだろうか。
「大樹に話そうとしていた何かの事? 何かあったの?」
「実は……」
視線をクッキーに落とす。
「昨日、クッキー、失敗しました」
「失敗? 別に材料は大樹が計ってたし、焼くのだって俺がオーブンに入れてたし」
ポチは型抜きしてたくらい、と言いかけて思い出した。
ポチの小さな『あ』という声。
あの時ポチにお願いしていたのは、シナモンを振りかける作業。
「もしかして、シナモン?」
「……はい。すいません、すぐに言えば良かったんだけど」
「切った感じでは、何もおかしい感じはしなかったんだけどな」
バタバタと作っていて、はっきりと断面図を見ていた訳ではないが、普通に均一にシナモンが振られていた感じはした。
「ドバっと、落ちたんです。で、塊があったらバレると思って、全体に伸ばした……」
「なるほど……」
全部が同じ形態なら不自然にはならない。
「一個食べてみる」
ジップパックに入れていたシナモンクッキーを、一個取り出して口へ入れる。
爽やかとは言い難いスパイスの香りと刺激が口の中を攻撃する。
もはやクッキーではない。
「ポチ、大至急お使い行って!」
これは作り直す時間も材料もない。
かといってこれを出さないと品数が足りない感じがする。
一か八かの試みになるが、やってみない手はない。
「何を買ってくればいいんですか」
急いでメモを書き、悪いとは思ったが大樹の部屋から予備で置いているお金を拝借してポチに渡した。
ポチは余程悩んでいたのか、受け取るなり走って部屋を出ていった。
ポチという手伝いがなくなってしまったのは痛いが仕方がない。
出来るだけ早く食器やグラスを運び入れ、サンドウィッチ作りに取り掛からなくては。
ガチャガチャと音を立てながら、グラスの入ったボウル(入れるものがこれしかなかった)を運ぶ。
さすがにガラス製品は重い。
「あれ? ポチは?」
紅茶用のカップを運び終え、皿を重ねて持って大樹の部屋の前まで行くと、丁度帰宅した大樹とかち合った。
「大樹、実はポチがやらかした」
「は?」
「クッキーにシナモンどばー」
「……何やってるんだあいつ」
あちゃー、という顔で天を仰ぐ大樹。
「で、やらかしたポチはどこに行った」
眼鏡の奥がギラリと光った気がした。
お説教&お仕置きモードの大樹だ。
「今お使いに行かせた。さすがに一品減るのは見栄えもしないから、実験も兼ねてやってみたいことを試そうかと」
「実験?」
「何となく大丈夫かな? と思えることやってみるだけ。失敗したら大人しく破棄するよ」
ポチも手伝ってくれたクッキーを破棄するのは心苦しいが、食べられそうにない風味になってしまっているから仕方がない。
「その間にサンドウィッチ作っちゃうから、大樹手伝って」
「時間も押してるな。さっさとやってしまおう」
大樹を伴ってキッチンからサンドウィッチに材料とまな板、包丁を持って行く。
仕上げは全部大樹の家のキッチンでやるしかない。
大樹にレタスを洗って水切りして貰っている間に、パンにバターを塗り込む。フルーツサンド用には生クリーム。
ベーコンは焼きたいので、大樹の家のを拝借。
並べたパンの上にレタスを乗せ、厚切りにしたトマトと程よくカリカリになったベーコンを挟んで閉じていく。
フルーツは今朝切って冷蔵庫に閉まっておいた。時短のためにと、眠い目を擦りながら切った甲斐があった。
「あと何分位?」
「早ければ十分しないで来る」
ハムとチーズを重ねたパンを数段に重ね、包丁を入れながら大樹に尋ねる。
あと十分ならばギリギリセーフか!?
でもまだポチが帰って来ない。
廃棄しなくてはいけないのか?
「た、ただいまぁ……」
息を切らしてポチが大樹の部屋に入ってきた。
手にはちゃんと買い物袋を持っている。
「遅かったじゃないか、ポチ。間に合わないかと思ったよ」
「ご、ごめん」
キッチンの床にへたり込んで買い物袋を差しだす。
それを大樹が受け取り、代わりに冷蔵庫から出したスポーツドリンクのペットボトルを渡す。
「話は後で聞く。ポチも着替えて」
「着替え?」
予め用意されていたであろう紙袋を大樹がポチに投げて渡す。
「お茶会っていってもな、半分仕事みたいなもんだ。普段着のだらっとした格好でお迎えは出来ないんだ」
「そうなの?」
ポチは不審そうにこっちを見る。
「仕事といえば仕事だね」
はっきりと、ポチを連れ戻しに行った時の穴埋めとは言えないが。
ふぅん、と言って鍵の掛かっていない仕事場にしている部屋へ入って着替えを始めた。
俺も一回帰って着替えをする。
服装は大樹から指定されている。
**********
「さぁ、マダム達がいらっしゃった」
髪を後ろに撫でつけ、シルバーグレーのスーツに身を包みアイスブルーのネクタイを付けた大樹が言った。
「うん、来たね」
「何だ香西、テンション低いな」
「そりゃ、こんな格好させられてればね」
シルバーな大樹とは反対に、ダークグレーのスーツにワイン色のネクタイ、いつもは自然のままに任せている髪をワックスで軽く立たせられている。
同じくテンションの低いポチ。
ポチの格好は青に近い紺のスーツなのだが、ネクタイではなくリボンタイ。シルバーと赤と黒のストライプのタイが少し派手に見える。
髪は大樹と同じく後ろで撫でつけてある。
「大樹、俺らどう見ても……」
ホストだよなぁ、と言いかけたところで睨まれた。
「そんなの分かってる。マダムはこういうのを好むんだから諦めろ」
「諦めろって言われても、なぁポチ」
ポチに同意を求めると、ポチも首を縦に振る。
しかし今さらでしかないし、前もって言われて反対したところで大樹の意見が覆る訳はない。
ほどなくして部屋の前のチャイムが鳴る。
「ほら、笑顔でお迎えしろ」
極限頑張るが、到底無理だ。
こんな格好で色欲にまみれた女に愛想なんて振れない。
「ちゃんと仕事しなければ、足腰立たなくするぞ。別な意味で」
「……全力で対応させていただきます」
そんな事されたら、お茶会どころじゃ済まなくなる。
「いらっしゃいませ。ようこそお茶会へ」
ドアを開け、わざとらしいまでに満面の笑顔で最初に来たマダム達に挨拶する。
いつもと違う装いと髪型の俺に、マダムは一瞬ポカンとしたがすぐに目は色情を帯びた。
「あら香西先生。今日は一段と素敵」
「それはありがとうございます。さぁ中へ」
ポーと俺の顔を見上げてリビングまで付いてくるマダム。
一緒に来たマダムの視線も俺の横顔にロックオンされていて、寒気しかしない。
てか、ポチと大樹はどこに行った。
そう思いながらリビングに入ると、大樹とポチがいた。
「ようこそお茶会へ」
キラキラという効果音が似合いそうな笑顔で大樹がテーブルの脇に立って待っていた。
ポチは……ひきつってる。
「あらぁー! マネージャーさん、とっても素敵! ポチ君も!」
マダム達は一層色めきだった。
これが狙いで俺一人に玄関に行かせたのか。本当にホストクラブのようだ。
この後も次々とマダムが大樹の部屋を訪れて来た。
予定していたのは六人なのに、何故か七人いる。誰か喋ったな。
冷蔵庫にワインを取りに行く大樹について行き、つい文句を言ってしまう。
「来てしまったのは仕方がない。追い出すなんて印象が悪いだろう」
「……だから嫌だったんだ」
「じゃあ全部ポチに押し付けて帰るか?」
それは嫌だ。
いくらポチのせいでここうなったとはいえ、徹夜で用意してきたのは俺だ。
途中で投げ出したくはない。
「やるよ、最後まで」
ポチに走って買いに行かせた材料だって、まだ使っていない。
「さっさと終わらせよう、こんなふざけた遊び」
「遊びじゃない。仕事だ」
眼鏡のフレームを持ち上げ嫌味を言う。
「だったら眼鏡外して素顔見せる位のサービスしてくれば」
「冗談」
そう言い残し、大樹はワインと足りないグラスを持ってリビングへ戻っていった。
残された俺はポチに買ってきて貰った材料を使って、失敗作のシナモンクッキーを食べれるようにする準備に取り掛かった。
やろうとしているのは単純。
ロイヤルミルクティーを作ろうとしているだけ。
買ってきて貰ったのは牛乳と生クリーム。
温めた牛乳にセイロンの茶葉を浮かべる。
ダージリンだと少し香りが強い気がして、アッサムかセイロンの二択にした結果だ。
これを蒸さずに弱火で少し煮る。
煮込み過ぎると渋味が強くなるので、蒸す時間と一緒くらいがベストかな? と最近思う。
煮込み終えたら濾して、てんさい砂糖と生クリームを加えて温める。
狙っているのはチャイ。
本格的なチャイはマサラや他のスパイスが入ったりするが、これは日本で広まっているチャイもどき。
コンビニで見かけたシナモンミルクティーが、イメージ的には近いかもしれない。
強めのスパイスを濃いミルクティーで中和させ、チャイのような味わいにしようとは思っている。
好みの甘さがどの程度なのかいまいち分からないので、ミルクティーに加える砂糖は思いっ切り甘くしないでおく。
「どうにでもなれ、だ」
熱々のミルクティーを入れたティーポットをトレイに乗せて運ぶ。
リビングではマダム達が大樹を中心に楽しそうに話していた。
「お待たせいたしました。クッキーに合うお飲み物をお持ちいたしました」
ほんのりと甘いミルクの香りがマダム達の視線を俺に集める。
お喋りに興じていたせいか、まだ最初に注いだスパークリングワイン位にしか手は付けられていない。
シナモンクッキーを食べた人がいなかったのは不幸中の幸いだ。
「熱いので気をつけてお飲みください」
それぞれのカップにミルクティーを注いでいく。
マダム達はクリーム色の飲み物に、ちょっとだけガッカリした様子を見せた。
普通の紅茶にミルクを注いだミルクティーを想像したのだろう。
「じゃあ俺から頂こうかな」
マダム達がミルクティーよりワインに手を伸ばすなか、大樹だけミルクティーに手を伸ばした。
ちゃんと俺の意図をくみ取って、シナモンクッキーも一緒に手にしてくれた。
小振りなシナモンクッキーをひと口で頬張る。
かみ砕いた途端にちょっと眉をしかめたが、そのままミルクティーもひと口啜る。
ゆっくりと口の中の二つを味わうと、俺の方を見て口を開いた。
「なるほどな。シナモンミルクティーになるのか。ミルクの濃さからいってチャイに近い感じだな。シナモンの辛さが苦手な人は、最初にミルクティーを含んでからクッキーを食べるのがいいかもしれないな」
大樹の目は『成功だ』と言っている。
とっさに思いつきでやってはみたものの、うまくいったのは良かった。
大樹の満足そうな顔を見て、隣に座っていたマダムも真似してシナモンクッキーとミルクティーを口に運ぶ。
そして『あら』という顔で次のクッキーも口へと運ぶ。
ポチもおそるおそるシナモンクッキーを食べてミルクティーを飲む。
「!!!?」
顔からするに、ポチには無理だったようだ。
コショウやトウガラシとはまた違った辛さへの耐性がまるっきりないのか、今にも吐き出しそうだ。
でもここで立ってトイレなりに行って吐き出すのは、マダム達に失礼だと分かっていたのか無理矢理飲み込んだっぽい。
偉いポチ!
「ポチ、ミルクティーの甘さが足りないようだったら、砂糖を持ってこようか?」
ミルクティー単体で飲めば少しは辛いのが和らぐだろうし、ポチにはこの甘さでは足りない気がした。
ポチは無言でコクコクと頷く。
空になったポットを持ってキッチンへ行こうとすると、一人のマダムも一緒に立ちあがった。
「お手洗いお借りしたいの」
「ご案内します」
一緒にリビングを出て、マダムに玄関脇のトイレを案内し、俺はキッチンへ消えた。
砂糖は他の人も使うかもしれないので、マグカップにてんさい糖を入れて持っていくことにした。
全然お洒落でないが、シュガーポットを持ってこなかった自分のミスだからどうしようもない。
何とも場に似つかわしいマグカップにちょっと笑いそうになってしまったが、テーブルの真ん中にそれを置く。
予想よりも甘さが足りなかったのか、ポチの後にも使うマダムは二人ほどいた。
「あれ、トイレに立った人は?」
自分の席に座って、一人分空いてることに気付く。
「まだ帰ってきてない」
「ワインで酔って具合でも悪くしたのかな。心配だから見てくるよ」
「俺も行く」
接待役が二人も席を立つのはよろしくないとは思ったが、万が一倒れていたりしたら一緒にいた方がいいと判断したのだろう。
幸い他のマダム達はポチのホスト系の姿に夢中で、戻ってきていないマダムのことはさほど気にしていない様子だ。
ポチを相手に写真を撮ったりしているから、少しくらい二人いなくても問題ないだろう。
「大丈夫ですかー? 具合でも悪くしましたかー?」
ノックをしても返事はない。
本当に倒れているんじゃないかと心配になる。
そこに大樹が『失礼』と一言、トイレのドアノブを掴んで回した。
鍵は掛かっていなかった。
異様な事態に大樹と顔を見合わせてしまう。
が、大樹はすぐに鍵の掛かっていない仕事部屋のドアを勢いよく開け放った。
「何してるんです」
マダムはいた。
今まさに手にした封筒を開けようと、折り目のところに手をかけた所だった。
「え、いや……。この部屋で物音がしたから。入ったら封筒が落ちてて。それを拾っただけよ?」
「拾っただけにしてはおかしくないですか。なぜ封の折り返し部分を持ち上げて中をみようとしていたのです。それに、その封筒、落ちるような場所には置いてませんでしたが」
淡々と語る大樹の目は笑っていない。
ポーカーフェイスである筈の顔も、今日は怒りの色を滲ませている。
「狙いは何です。あなた、今日の招待に含まれていませんでしたよね」
言われてみれば休講を告げに言った時にいたメンバーではない顔だ。
だから大樹は嫌な予感がして一緒に来たのか。
「……マネージャーさん、あなた西園寺 大樹なんでしょう。あの西園寺グループの一人息子の」
マダムは開き直って、開口一番そう答えた。
「……それが封筒を盗み見ることと何の関係が?」
「誤魔化しているって事は、本人って断定して間違いないってことね」
マダムも意地なのか、大樹の射抜くような冷たい視線に負けることなく大樹に食って掛かる。
「仮にその本人だとして、そうだと分かったらどうするんですか」
「探してるからよ、あなたのお母様が。見つけたら、差し出すためよ」
何で大樹は手加減ってものを知らないんだ。
大樹にとってはあれでも手加減したつもりなのかもしれないが、俺にとっては全然手加減されていない。
お陰でめっちゃ眠い。
今日は二つの講習しかないのが、まだ助けだ。
その後が一番問題なんだけどね。
「ではここにカットトマトを入れ……」
寝惚けた頭でトマトの入ったボウルを持ち上げる。
「あっ!」
誰かが声を上げた。
? と思った時は遅かった。
俺は鍋に入れる筈だったトマトを、盛大に外してしまった。
「……失礼しました」
コンロ回りに落ちたトマトを回収して捨て、ボウルに残っていたトマトと、予備で置いていたトマトをカットし直して鍋に移す。
思っていた以上にボンヤリしていたようだ。
大樹の家に行く前に仮眠していこう。
「あとはストックを入れて煮込みます。味を整えたら出来上がりです」
何とか眠気を抑えてスープを仕上げていく。
スープ皿の底にもち麦を入れたっけ?
それちゃんと言ったっけ?
茹でたのは覚えているから、配ったレシピ見たら言わなくても分かるよな?
そんな事をボンヤリと思いながら、もち麦入りトマトスープを仕上げていく。
もうすぐ終わると思って頑張っているが、一秒が長く感じる。
「それでは試食になります。食べ終わったら各自片付けて終了です」
受講生が作り終えたのを見届け、試食にうつる旨を伝える。
いくら時間が決まっているとはいえ、ここからがまた長い。
もう帰りたい……。
「香西」
試食するために椅子に座ろうとしたら、大樹が教室に入ってきた。
ポーカーフェイスを気取っているが、笑いを堪えているのがありありと分かる。
「あと片付けとくから、次の講習まで寝てろ」
「悪い……」
「カメラ越しで見てても、めっちゃ寝むたそう。可愛い」
耳元で囁いて、見えるか見えないかギリギリの位置から頬にキスをしていく。
「ちょ……!?」
「大丈夫、見られてないから。見られてても別に俺は構わないし」
「これが原因で受講生いなくなったらどうすんだよ」
「そしたら俺が養う」
そういう問題か? と反論する間もなく、インカムを取られ椅子を奪われる。
俺は大樹にシッシ、と教室から追い出された。
「ま、いいや。少し休憩しよ」
眠くてかなわん。
三十分のタイマーをセットし、控室のソファで目を瞑った。
瞬時に眠りに落ちていく感覚があった。
ほんの一瞬のような時間であったが、しっかりと三十分眠っていた。
お陰で頭はすっきりと目覚めてくれた。
そのせいか、本日最後の二回目の講習では材料を鍋から零す事もなく、寝落ちして皿を割るような事にもならず終了することが出来た。
あとは家に帰ってお茶会の準備をするだけだ。
「大樹ん家の冷蔵庫って、余裕あったか?」
「十分に。なにせ食べ物は一切入っていない。飲み物が少々あるくらいだ」
「そうか。じゃあワインとかゼリーは勝手に入れさせて貰うからな」
二回目の講習後、後片付けを始めた大樹に尋ねた。
先に帰って運べるものは運んでおく段取りだったので、入らない物を持ち帰る二度手間を避けるためだ。
ガラガラだという返事に安心し、『それじゃ、お先』と車のキーを大樹のジャケットのポケットから取り出すと、すぐさまひょいと奪われた。
「睡眠不足で運転するな。タクシーで帰れ」
そうさせたのは誰だよ、と心の中で愚痴りながら大人しくビルを出てタクシーを拾ってマンションへ帰った。
お茶会は夕方。
まだまだ時間はあるように見えて、多分丁度いいかぎりぎりくらい。
簡単なものしか作らないといっても、それなりに量はあるし運び入れる物は結構ある。
ワインに紅茶缶、ゼリーにクッキー。
大樹の家には二人で使う分くらいの食器しかないのも分かっている。だからグラスに皿にと、必要なものは目一杯あるのだ。
「ただいまポチ~。手伝って~」
玄関あけて開口一番、俺はポチに手伝い要請をした。
ポチも分かってはいただろうが、俺が帰ってすぐにそんなことを言うものだから『は?』という顔になっている。
「手伝いますけど、今すぐ?」
「すぐ。結構時間ない」
「大樹さんは?」
「まだ教室にいる。俺の代わりに片付けしてくれてるよ」
それを聞いてそわそわとし出すポチ。
何かあったのか、やらかしたのか。でも一向に口を開かない。
「大樹に何か用事? 電話してみたら?」
「いや、うん、そこまでは」
何か言おうと思った感じではあったが、ポチは言いよどんで止めてしまった。
「そう? じゃあ早速だけど運ぶの手伝って」
鞄をリビングに置き、ポチを引き連れてキッチンへ向かう。
段ボールがなかったのでエコバッグに数本ワインのボトルを入れてポチに預け、俺はトレイにゼリーを乗せて持つ。
「大樹の部屋って初めてだっけ?」
ポチは頷いて隣の部屋のドアを見つめる。
緊張してるっぽいな。
「別に普通の部屋だよ。うちより殺風景な感じだけどね」
殺風景というより物がないといった方が正しい。
仕事して寝るだけの部屋。それが大樹のこの部屋における意義だ。
昨日『隠す』と言ったのは俺の私物や、大樹のプライベートが分かってしまうような物、そして仕事関係の見られてはマズイ物。
全部鍵のかかる寝室に放り込んであるのは聞かないでも想像できる。
「今から運んでくるものは全部キッチンに入れておいて。あとで大樹がセッティングする」
部屋の造りは一緒なので、初めてのポチでも迷うことはないだろう。
「本当に何もない」
「だから殺風景だって言っただろ」
単身用にしては少し大きい冷蔵庫に、小振りのキャビネットが一つ。
物がないにも程がある。
シンクの上にある棚の中には鍋とかフライパンは入っているが、多分一人でいる時も使ってないだろうな。
「ワインは冷蔵庫に入れて。空いてる場所なら冷凍庫以外どこでもいいから」
「縦でも横でも?」
「まだ開けてないし、すぐに飲むからどっちでも大丈夫だよ」
言ってから『ん?』と思った。
ポチはワインを置くのに縦横気にしていたが、どこからそんな知識入れたんだ、と。
まだ未成年だし、あの歳でワインを縦に置くのを気にするやつなんてあまりいない。
家でそれなりの年代物のワインをストックしているのを目にしているなら分からないでもないが。
今そんな事を考えても仕方がない。
まずは準備が先だ。
「ポチ、それ入れ終わったらうちのキッチンからクッキー取ってきて」
「香西さんは?」
「俺は使えそうなもの探してから、また取りに戻るから」
先に戻ってて、とポチを一旦帰らせる。
キャビネットには二人分のグラスとデザート皿が二枚、マグカップくらいしかない。
本当にここには二人でコーヒーを飲んでケーキを食べるくらいのものしか置いていない。
でも、スプーンなどをしまっている引出しにはワインオープナーが入っていた。
「こんなもんか」
これ以上探したところで何も出ないだろう。探すだけ無駄な気もする。
諦めてキッチンを出たところでポチがクッキーを持って入ってきた。
「あ、クッキーはカウンターの上に置いておいて。ワイン、まだ持ってくるのあるから一緒に行こう」
次々と運び入れようと思い、またポチを戻らせようと声をかけた。
「あの……」
「ん? どうしたポチ」
「あの、ですね……」
カウンターの側から離れないポチ。
何か言いたそうで、でも躊躇っている。
大樹に話そうとしていた、何かやらかしたかもしれない事についてだろうか。
「大樹に話そうとしていた何かの事? 何かあったの?」
「実は……」
視線をクッキーに落とす。
「昨日、クッキー、失敗しました」
「失敗? 別に材料は大樹が計ってたし、焼くのだって俺がオーブンに入れてたし」
ポチは型抜きしてたくらい、と言いかけて思い出した。
ポチの小さな『あ』という声。
あの時ポチにお願いしていたのは、シナモンを振りかける作業。
「もしかして、シナモン?」
「……はい。すいません、すぐに言えば良かったんだけど」
「切った感じでは、何もおかしい感じはしなかったんだけどな」
バタバタと作っていて、はっきりと断面図を見ていた訳ではないが、普通に均一にシナモンが振られていた感じはした。
「ドバっと、落ちたんです。で、塊があったらバレると思って、全体に伸ばした……」
「なるほど……」
全部が同じ形態なら不自然にはならない。
「一個食べてみる」
ジップパックに入れていたシナモンクッキーを、一個取り出して口へ入れる。
爽やかとは言い難いスパイスの香りと刺激が口の中を攻撃する。
もはやクッキーではない。
「ポチ、大至急お使い行って!」
これは作り直す時間も材料もない。
かといってこれを出さないと品数が足りない感じがする。
一か八かの試みになるが、やってみない手はない。
「何を買ってくればいいんですか」
急いでメモを書き、悪いとは思ったが大樹の部屋から予備で置いているお金を拝借してポチに渡した。
ポチは余程悩んでいたのか、受け取るなり走って部屋を出ていった。
ポチという手伝いがなくなってしまったのは痛いが仕方がない。
出来るだけ早く食器やグラスを運び入れ、サンドウィッチ作りに取り掛からなくては。
ガチャガチャと音を立てながら、グラスの入ったボウル(入れるものがこれしかなかった)を運ぶ。
さすがにガラス製品は重い。
「あれ? ポチは?」
紅茶用のカップを運び終え、皿を重ねて持って大樹の部屋の前まで行くと、丁度帰宅した大樹とかち合った。
「大樹、実はポチがやらかした」
「は?」
「クッキーにシナモンどばー」
「……何やってるんだあいつ」
あちゃー、という顔で天を仰ぐ大樹。
「で、やらかしたポチはどこに行った」
眼鏡の奥がギラリと光った気がした。
お説教&お仕置きモードの大樹だ。
「今お使いに行かせた。さすがに一品減るのは見栄えもしないから、実験も兼ねてやってみたいことを試そうかと」
「実験?」
「何となく大丈夫かな? と思えることやってみるだけ。失敗したら大人しく破棄するよ」
ポチも手伝ってくれたクッキーを破棄するのは心苦しいが、食べられそうにない風味になってしまっているから仕方がない。
「その間にサンドウィッチ作っちゃうから、大樹手伝って」
「時間も押してるな。さっさとやってしまおう」
大樹を伴ってキッチンからサンドウィッチに材料とまな板、包丁を持って行く。
仕上げは全部大樹の家のキッチンでやるしかない。
大樹にレタスを洗って水切りして貰っている間に、パンにバターを塗り込む。フルーツサンド用には生クリーム。
ベーコンは焼きたいので、大樹の家のを拝借。
並べたパンの上にレタスを乗せ、厚切りにしたトマトと程よくカリカリになったベーコンを挟んで閉じていく。
フルーツは今朝切って冷蔵庫に閉まっておいた。時短のためにと、眠い目を擦りながら切った甲斐があった。
「あと何分位?」
「早ければ十分しないで来る」
ハムとチーズを重ねたパンを数段に重ね、包丁を入れながら大樹に尋ねる。
あと十分ならばギリギリセーフか!?
でもまだポチが帰って来ない。
廃棄しなくてはいけないのか?
「た、ただいまぁ……」
息を切らしてポチが大樹の部屋に入ってきた。
手にはちゃんと買い物袋を持っている。
「遅かったじゃないか、ポチ。間に合わないかと思ったよ」
「ご、ごめん」
キッチンの床にへたり込んで買い物袋を差しだす。
それを大樹が受け取り、代わりに冷蔵庫から出したスポーツドリンクのペットボトルを渡す。
「話は後で聞く。ポチも着替えて」
「着替え?」
予め用意されていたであろう紙袋を大樹がポチに投げて渡す。
「お茶会っていってもな、半分仕事みたいなもんだ。普段着のだらっとした格好でお迎えは出来ないんだ」
「そうなの?」
ポチは不審そうにこっちを見る。
「仕事といえば仕事だね」
はっきりと、ポチを連れ戻しに行った時の穴埋めとは言えないが。
ふぅん、と言って鍵の掛かっていない仕事場にしている部屋へ入って着替えを始めた。
俺も一回帰って着替えをする。
服装は大樹から指定されている。
**********
「さぁ、マダム達がいらっしゃった」
髪を後ろに撫でつけ、シルバーグレーのスーツに身を包みアイスブルーのネクタイを付けた大樹が言った。
「うん、来たね」
「何だ香西、テンション低いな」
「そりゃ、こんな格好させられてればね」
シルバーな大樹とは反対に、ダークグレーのスーツにワイン色のネクタイ、いつもは自然のままに任せている髪をワックスで軽く立たせられている。
同じくテンションの低いポチ。
ポチの格好は青に近い紺のスーツなのだが、ネクタイではなくリボンタイ。シルバーと赤と黒のストライプのタイが少し派手に見える。
髪は大樹と同じく後ろで撫でつけてある。
「大樹、俺らどう見ても……」
ホストだよなぁ、と言いかけたところで睨まれた。
「そんなの分かってる。マダムはこういうのを好むんだから諦めろ」
「諦めろって言われても、なぁポチ」
ポチに同意を求めると、ポチも首を縦に振る。
しかし今さらでしかないし、前もって言われて反対したところで大樹の意見が覆る訳はない。
ほどなくして部屋の前のチャイムが鳴る。
「ほら、笑顔でお迎えしろ」
極限頑張るが、到底無理だ。
こんな格好で色欲にまみれた女に愛想なんて振れない。
「ちゃんと仕事しなければ、足腰立たなくするぞ。別な意味で」
「……全力で対応させていただきます」
そんな事されたら、お茶会どころじゃ済まなくなる。
「いらっしゃいませ。ようこそお茶会へ」
ドアを開け、わざとらしいまでに満面の笑顔で最初に来たマダム達に挨拶する。
いつもと違う装いと髪型の俺に、マダムは一瞬ポカンとしたがすぐに目は色情を帯びた。
「あら香西先生。今日は一段と素敵」
「それはありがとうございます。さぁ中へ」
ポーと俺の顔を見上げてリビングまで付いてくるマダム。
一緒に来たマダムの視線も俺の横顔にロックオンされていて、寒気しかしない。
てか、ポチと大樹はどこに行った。
そう思いながらリビングに入ると、大樹とポチがいた。
「ようこそお茶会へ」
キラキラという効果音が似合いそうな笑顔で大樹がテーブルの脇に立って待っていた。
ポチは……ひきつってる。
「あらぁー! マネージャーさん、とっても素敵! ポチ君も!」
マダム達は一層色めきだった。
これが狙いで俺一人に玄関に行かせたのか。本当にホストクラブのようだ。
この後も次々とマダムが大樹の部屋を訪れて来た。
予定していたのは六人なのに、何故か七人いる。誰か喋ったな。
冷蔵庫にワインを取りに行く大樹について行き、つい文句を言ってしまう。
「来てしまったのは仕方がない。追い出すなんて印象が悪いだろう」
「……だから嫌だったんだ」
「じゃあ全部ポチに押し付けて帰るか?」
それは嫌だ。
いくらポチのせいでここうなったとはいえ、徹夜で用意してきたのは俺だ。
途中で投げ出したくはない。
「やるよ、最後まで」
ポチに走って買いに行かせた材料だって、まだ使っていない。
「さっさと終わらせよう、こんなふざけた遊び」
「遊びじゃない。仕事だ」
眼鏡のフレームを持ち上げ嫌味を言う。
「だったら眼鏡外して素顔見せる位のサービスしてくれば」
「冗談」
そう言い残し、大樹はワインと足りないグラスを持ってリビングへ戻っていった。
残された俺はポチに買ってきて貰った材料を使って、失敗作のシナモンクッキーを食べれるようにする準備に取り掛かった。
やろうとしているのは単純。
ロイヤルミルクティーを作ろうとしているだけ。
買ってきて貰ったのは牛乳と生クリーム。
温めた牛乳にセイロンの茶葉を浮かべる。
ダージリンだと少し香りが強い気がして、アッサムかセイロンの二択にした結果だ。
これを蒸さずに弱火で少し煮る。
煮込み過ぎると渋味が強くなるので、蒸す時間と一緒くらいがベストかな? と最近思う。
煮込み終えたら濾して、てんさい砂糖と生クリームを加えて温める。
狙っているのはチャイ。
本格的なチャイはマサラや他のスパイスが入ったりするが、これは日本で広まっているチャイもどき。
コンビニで見かけたシナモンミルクティーが、イメージ的には近いかもしれない。
強めのスパイスを濃いミルクティーで中和させ、チャイのような味わいにしようとは思っている。
好みの甘さがどの程度なのかいまいち分からないので、ミルクティーに加える砂糖は思いっ切り甘くしないでおく。
「どうにでもなれ、だ」
熱々のミルクティーを入れたティーポットをトレイに乗せて運ぶ。
リビングではマダム達が大樹を中心に楽しそうに話していた。
「お待たせいたしました。クッキーに合うお飲み物をお持ちいたしました」
ほんのりと甘いミルクの香りがマダム達の視線を俺に集める。
お喋りに興じていたせいか、まだ最初に注いだスパークリングワイン位にしか手は付けられていない。
シナモンクッキーを食べた人がいなかったのは不幸中の幸いだ。
「熱いので気をつけてお飲みください」
それぞれのカップにミルクティーを注いでいく。
マダム達はクリーム色の飲み物に、ちょっとだけガッカリした様子を見せた。
普通の紅茶にミルクを注いだミルクティーを想像したのだろう。
「じゃあ俺から頂こうかな」
マダム達がミルクティーよりワインに手を伸ばすなか、大樹だけミルクティーに手を伸ばした。
ちゃんと俺の意図をくみ取って、シナモンクッキーも一緒に手にしてくれた。
小振りなシナモンクッキーをひと口で頬張る。
かみ砕いた途端にちょっと眉をしかめたが、そのままミルクティーもひと口啜る。
ゆっくりと口の中の二つを味わうと、俺の方を見て口を開いた。
「なるほどな。シナモンミルクティーになるのか。ミルクの濃さからいってチャイに近い感じだな。シナモンの辛さが苦手な人は、最初にミルクティーを含んでからクッキーを食べるのがいいかもしれないな」
大樹の目は『成功だ』と言っている。
とっさに思いつきでやってはみたものの、うまくいったのは良かった。
大樹の満足そうな顔を見て、隣に座っていたマダムも真似してシナモンクッキーとミルクティーを口に運ぶ。
そして『あら』という顔で次のクッキーも口へと運ぶ。
ポチもおそるおそるシナモンクッキーを食べてミルクティーを飲む。
「!!!?」
顔からするに、ポチには無理だったようだ。
コショウやトウガラシとはまた違った辛さへの耐性がまるっきりないのか、今にも吐き出しそうだ。
でもここで立ってトイレなりに行って吐き出すのは、マダム達に失礼だと分かっていたのか無理矢理飲み込んだっぽい。
偉いポチ!
「ポチ、ミルクティーの甘さが足りないようだったら、砂糖を持ってこようか?」
ミルクティー単体で飲めば少しは辛いのが和らぐだろうし、ポチにはこの甘さでは足りない気がした。
ポチは無言でコクコクと頷く。
空になったポットを持ってキッチンへ行こうとすると、一人のマダムも一緒に立ちあがった。
「お手洗いお借りしたいの」
「ご案内します」
一緒にリビングを出て、マダムに玄関脇のトイレを案内し、俺はキッチンへ消えた。
砂糖は他の人も使うかもしれないので、マグカップにてんさい糖を入れて持っていくことにした。
全然お洒落でないが、シュガーポットを持ってこなかった自分のミスだからどうしようもない。
何とも場に似つかわしいマグカップにちょっと笑いそうになってしまったが、テーブルの真ん中にそれを置く。
予想よりも甘さが足りなかったのか、ポチの後にも使うマダムは二人ほどいた。
「あれ、トイレに立った人は?」
自分の席に座って、一人分空いてることに気付く。
「まだ帰ってきてない」
「ワインで酔って具合でも悪くしたのかな。心配だから見てくるよ」
「俺も行く」
接待役が二人も席を立つのはよろしくないとは思ったが、万が一倒れていたりしたら一緒にいた方がいいと判断したのだろう。
幸い他のマダム達はポチのホスト系の姿に夢中で、戻ってきていないマダムのことはさほど気にしていない様子だ。
ポチを相手に写真を撮ったりしているから、少しくらい二人いなくても問題ないだろう。
「大丈夫ですかー? 具合でも悪くしましたかー?」
ノックをしても返事はない。
本当に倒れているんじゃないかと心配になる。
そこに大樹が『失礼』と一言、トイレのドアノブを掴んで回した。
鍵は掛かっていなかった。
異様な事態に大樹と顔を見合わせてしまう。
が、大樹はすぐに鍵の掛かっていない仕事部屋のドアを勢いよく開け放った。
「何してるんです」
マダムはいた。
今まさに手にした封筒を開けようと、折り目のところに手をかけた所だった。
「え、いや……。この部屋で物音がしたから。入ったら封筒が落ちてて。それを拾っただけよ?」
「拾っただけにしてはおかしくないですか。なぜ封の折り返し部分を持ち上げて中をみようとしていたのです。それに、その封筒、落ちるような場所には置いてませんでしたが」
淡々と語る大樹の目は笑っていない。
ポーカーフェイスである筈の顔も、今日は怒りの色を滲ませている。
「狙いは何です。あなた、今日の招待に含まれていませんでしたよね」
言われてみれば休講を告げに言った時にいたメンバーではない顔だ。
だから大樹は嫌な予感がして一緒に来たのか。
「……マネージャーさん、あなた西園寺 大樹なんでしょう。あの西園寺グループの一人息子の」
マダムは開き直って、開口一番そう答えた。
「……それが封筒を盗み見ることと何の関係が?」
「誤魔化しているって事は、本人って断定して間違いないってことね」
マダムも意地なのか、大樹の射抜くような冷たい視線に負けることなく大樹に食って掛かる。
「仮にその本人だとして、そうだと分かったらどうするんですか」
「探してるからよ、あなたのお母様が。見つけたら、差し出すためよ」
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