底辺召喚師は亡き勇者を召喚す

野草こたつ

◇天才と凡人◆

 最悪だ、と思った。
 セヴェリアはフィロメーナに言った、魔王が蘇るなら、そのときには自分も居たほうがいいと。それはつまり、敵は彼自身であるのだから、彼ならばその手の内をすべて暴けるということだ。
 フィロメーナの部屋に戻ってくると、彼女はソファに座り、反対側のソファを彼に勧める。
 彼女が怒っている、そして落ちこんでいるのを察して、セヴェリアは何も言わずにそれに従った。

「……彼は、別世界の、別の時間のあなたなのですね?」
 きっと、フィロメーナに召喚されることなく、彼女に忘れら去られ、暗闇の淵で眠り続けた英雄。
「ああ、そのとおりだ」
 彼が頷くのを見て、フィロメーナは語気荒く口を開いた。
「セヴェリアさんは! 私がどうしてあなたを拒むのか分からないのですか⁉ 私は何度も言いました、私が傍に居るのはあなたのためにならないと! それがどうしてでてきた言葉だとお思いですか⁉ あなたの……他でもないあなたの幸せを――」
「それは」
 セヴェリアはフィロメーナの言葉を遮った。

「それは、エゴだ、フィロメーナ。私がどういうとき幸福を感じるか、どうすれば幸福で居られるかをきみが決定することはできない」
「――っ」
 口を噤むしかなかった。
 けれど引きさがれない。これはとても重要な問題だ。
 おそらく、この世界の彼の未来を決定する、とても重要な。
 フィロメーナは考えた、そして、小さく息を吐くと席を立ってセヴェリアのすぐ前まで行く。そして、彼の頬に手を伸ばした。
「フィロ?」
 不思議そうにしている彼を見つめ、勇気を振り絞って彼女は彼に口づけた。
 軽いキスを数度、セヴェリアは青い瞳を見開いていた。
「私は今だって、昔だって、あなたのことが大好きで。あなたには幸せになってほしくて……ただ、それだけなんです」
「……その幸せが、私にとってはきみと一緒に居ることだったんだ。フィロ」
 彼の手が頬をなぞる。翠の瞳からこぼれる涙を優しく拭ってくれる。
「セヴェリアさんには……分からないのですか? 英雄として語り継がれるあなたはこの先もずっと存在し続けるでしょう。でも、凡人の私は百年も経てば人々の記憶から消え失せるのです……あなたと同じ、英雄の、姉さんと違って!」
 叫ぶような声だった。悲痛な響きを持つ声だった。
 堰を切ったように泣きだすフィロメーナを抱き寄せ膝の上に乗せて、セヴェリアはその淡い金色の髪を撫でる。

「セヴェリアさん、私とあなたは違うのです、あまりにも違いすぎるのです、何もかもが。だからあなたは決断しなくてはいけません、あなたはもう私と同じ人間ではないのだから、あなたの新しい在りかたを決断しなくては……いけません」
 彼はきっとこれからも多くの召喚師に喚ばれることだろう。
 けれど、彼が今のまま変化しなければ、彼の未来は結局決まっているようなものなのだ。
 フィロメーナという少女は、彼よりずっと早く消滅するのだから。
 彼が覚えていてくれたとしても、生きている人々の世界から消滅するということは、その世界から消え去るということだ。
「だからもう、終わりにしましょう。セヴェリアさん。あれがあなたの未来の姿だというのなら、私はこの指を切り落としてでも姉さんにこの指輪を譲ります。姉さんは……確かに悪しきものを召喚してしまったのでしょうが……」
 フィロメーナの言葉をセヴェリアは黙って聞いていたが、その気配に怒りが滲んでいるのが分かる。

「彼を私が召喚したことにして、あなたを姉さんが召喚したことにすれば……なんの問題もありません」
「フィロメーナ」
 めずらしく、彼が愛称ではなく名を呼ぶ。
 その声は怒りと悲しみで震えていた。
「きみのその行いが、私をああしたのだとなぜ分からない? 今だって胸が焼けるようだ、きみに酷いことなどしたくないのに、そうしてしまいたいほど」
 きつく抱きしめられて苦しさを感じたが、フィロメーナは負けじと声を絞りだす。
「私はあなたのために言っているのです!」
「私が望んだことは、永遠ではない。永遠などないことは分かっている。それに、私がきみを犠牲にするような案を受けいれると思っているのか? だとしたら、悲しい、などという言葉では足りないよ」
「セヴェリアさ――……ん、んんっ」
 彼の瞳を見つめて口を開こうとすると、無理矢理キスをされる。
 噛みつくような口づけに、フィロメーナの喉からくぐもった悲鳴がこぼれた。

「建前も、立場も、才能の有無も、存在の消滅も、すべて私にとってはどうでもいいことだ。知りたいのは一つだけ、きみが本当はどうしたいのか、それだけだ」
「ほ、んとうに……私は、あなたを姉さんに、譲ることを――」
 セヴェリアには、フィロメーナのことなどお見通しだろう。だからそういうことを口にするのだろう。実際、彼の言葉はうぬぼれではない。
 フィロメーナだって彼と一緒に居たい、本当は。いつまでだって。
「フィロ、私は一度死んでいるから、あの男がどうやって生まれたのか知っているんだ。最初に相対したときには、詳しくは分からなかったけど」
 腕の中で身じろぎをするフィロメーナを抱きしめたまま、彼は言葉を続ける。
「彼の世界のきみは私を忘れようとつとめた、そして、レイスルトと結婚した。彼は届かない声で、きみを呼び続けたよ。だけど、それが届くことはなかった。きみの記憶から彼は失われ、愛はやがて憎しみに変わり、彼はきみを探し求めて彷徨うようになった。失われた時間を取り戻すために」
 小さく息を吐いて、フィロメーナはようやく抵抗をやめた。

「……セヴェリアさん、一つだけ分かってほしいことがあります。それは、姉さんが彼を召喚してしまったという事実は、ラングテール家そのもの、そしてその親類一族を脅かす事実であると」
 彼は黙っていた。聡明な彼なら、そのことが分からないはずがない。
「こうなってしまった以上、私も決断しなければならないのはお分かりですね? 誰が犠牲になるべきなのか、それは、明白なのですよ。あなたなら――」
 セヴェリアに口を挟む余裕を与えず、彼女は続ける。
「分かってくださいますね? 私は、ラングテール家を憎んではいません、いつだってこの家の足枷にしかならなかった。それが今、役に立てるところに居るのです。それは、私にとってとても喜ばしいことです」
「何も知らぬ世間の人々から罵られて、冤罪を着せられることがかい?」
「ええ。どちらにしても、人々は姉さんではなく私を疑うでしょう、同じことです」
 フィロメーナははっきりとそう答えた。
「ですからセヴェリアさん、彼をこの世界から消滅させるまであなたを姉さんに預けます。それは変えさせません。私は……あなただけが真実を知っていてくれれば、耐えられます」
「……契約を破棄にはさせない、きみがなんと言おうとそれだけは譲らない。契約が破棄になれば、私は彼からきみを守り抜くことができないからだ。ただ、建前として、本来の主人をきみにしたまま、ディメリナと仮の契約を結ぶことはしよう」
 彼が納得してくれたことは、フィロメーナにとってとても嬉しいことだった。
 もしも彼がここでも否と言えば、ラングテール家およびその親類は非難の嵐に晒されることになる。それだけは避けたい。
 だが、英雄の一人である姉のディメリナではなく、劣等生のフィロメーナが事故として召喚したなら話は別だ。
 二人は決断し、セヴェリアはディメリナに事情を話しに行ったが、彼はそれを後悔した。
 ディメリナの部屋の入り口で、彼女はヒステリックに叫んだ。

「どうしてよ! あの子と契約を結んだまま私の精霊になると言うのでしょう⁉ そんなのおかしいわ! ただの演技だってことじゃない!」
「ディメリナ、フィロはきみの罪を代わりにかぶろうとしているんだよ?」
「そうよ、当然でしょ。あんな子、そのくらいしか使い道なんてないんだから! いいじゃない、あのぼんくらにこの私が役割を与えてあげたってだけよ!」

 頬を、打ちそうになって。
 セヴェリアはきつく唇を噛んでそれを自制した。そんなことをしても、悪く言われるのはフィロメーナなのだから。
 フィロメーナが彼らのために犠牲になる必要がどこにあるだろう、セヴェリアからすれば自業自得の結末だと言ってやりたいのだ。
 だが、それを彼女がどうしても望まないというのであればと折れた。それなのに、ディメリナの言葉はセヴェリアの精神を軋ませる。

「いいかいディメリナ、私はフィロがどうしてもと言うので、きみたちの名誉の――……そう、私にとっては、本当にどうでもいい名誉だが、そのためにきみと仮契約をすると言っているんだ。私はきみに従属するつもりはないし、きみもそのつもりでいてほしい」
「なんでなの? セヴェリア、聡明なあなただったら、どちらのほうがあなたの役に立つかすぐに分かるはずでしょう? それなのに、仮契約なんて納得がいかないわ!」
 しばらくのあいだがあった。
 セヴェリアは冷たい青の瞳でディメリナを見おろすと、静かに、ゆっくりと告げる。

「いいんだよ、ディメリナ。拒否するのならそれでいい、私は、ラングテール家やその親類がどうなろうとも知ったことではないんだ。フィロさえ居てくれれば、私には、きみたちがどんなに世間から非難され、きみがどこまで失墜しようと、どうでもいいことだ」
「――セヴェリア、馬鹿なこと言わないでよ、あなた、正気なの……?」
 ディメリナは震える声で言ったが、セヴェリアは無表情のままで言う。
「ああ、本気だとも。選ぶといい、きみしだいだ。私としては、断ってくれてもいいのだけれどね」
 彼女は頷くしかなかった。
 今、選択権を持っているのはディメリナではない。セヴェリアなのだ。

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