バミューダ・トリガー
三十三幕 恐怖
煙る空気の中、酸素と砂埃を同時に吸い込みながら、やっとのことで神河輪人は警察署の正門にたどり着いた。
「キヒィ、キヒヒッ・・・」
砂埃が立ち込める状況下、視覚よりも優秀に働く聴覚が、不気味な笑い声を捉えた。
(なんだ・・・?)
ぼやける視界が、微かに発される、血のように赤い光を捉えた。
「キヒィ、・・・うん?あれ?誰かナ?」
(女の声・・・?俺に気づいたのか?)
命をいたぶるような、悪意の影が差した声音で、質問が投げ掛けられた。
俺は、破壊の後に僅かに残った石塀の裏で息を殺す。
「・・・祟り女の手」
(っ!!)
呟くような声が聞こえた途端、背中に原因不明の怖気がはしる。
そして、この刹那の行動の停滞は、背後に現れる異変への対処を決定的に遅らせた。
ぐんっ
「なっ・・・!」
時、すでに遅し。
異質で異様な赤い腕によって襟首を背後から捕まれた俺は、抵抗をさせない程の力量をもって石塀から引き出された。
「ゲホッ、くそっ、今のはまさか・・・!」
俺は、いましがた俺を襲った不可思議極まりない異能に、《バミューダ》との関連を疑わされる。
「キヒィ?あらぁ?虫螻かと思ったラ、違うみたいだネ・・・!キヒィ、キヒヒヒヒヒッ!!」
嬉々とした笑い声を響かせて、コツコツとコンクリートを踏む靴の音が近づいてくる。
砂埃が晴れるなか警察署の正面玄関の方から歩いてくる人物は、三色に輝く髪止めが印象的な、十代後半とおぼしき出で立ちの女性であった。
「あれ?キヒヒッ!お前ハ、もしかして、件の高校生カ?その手首ニ、着けてるミサンガ!キヒヒヒヒヒっ、今まで会っタ能力者たちとは、また違った「異能」ヲ感じるネ・・・!!」
(クソ、話が通じる奴とは思えないな・・・)
「お前はどこの誰だ!何の目的があってここへ来た!・・・っ!」
敵の正体を言及する最中、図らずも神河輪人は、その目に「死」を映す。
まさに今、神河輪人が立つ地面。
大破したパトカーへと続く、他でもなく当のパトカーによって堀り削られたであろう地面。
その地面は、抉られたアスファルトに沿うような形で、少ないとは言いがたい量の血によって紅く染め上げられていた。
「キヒィ?やっと気付いたようナ顔だネ?」
「ふ、・・・」
言葉を発することができない。
確かに神河輪人は、今まで再三、能力者との戦闘を経験してきた。
しかし―
これまでの戦いでは、死人が出たことなど無かった。それはひとえに、敵にこちらを殺す意思が無かったためである。
代市 冬と千葉 逸は、過去の戦闘でこちらに対して過激な態度をとってこそいるものの、大元は鐵 里音からの指示に従っての行動であったため、本当に怪校生たちの息の根を止めた試しは無かった。
「双蛇の輪」からの刺客であった永井 幸四郎は、手慣れた殺意を見せることこそしたものの、秋仁の手を借りることで恐怖を紛らわせる事ができていた。
しかし今回は一人だ。
そして何より、目の前で人が死んでいる。
(ころ・・・人が、大人が、死んで・・・?)
思考が停止する。
甘かったのだと、本能が告知してくる。
俺はこれまでの敵を「脅威」と格付けし、結局はこちらへの殺意すら持っていなかった「対能力者組織」の勢力を最大の敵として考えていた。
「自分が殺される」という、決して欠いてはならない恐怖の形を、心のどこかで蔑ろにしていたのだ。
そして今、いざ神河輪人と対峙した女に、そんな個人的な事情を考慮しようなどという考えは存在しない。
女はただ、目の前の不要で邪魔な命を、奪うことを考え、行動する。
殺すことを、躊躇わない。
「キヒヒッ!どうしたノ?立ち尽くしているネ?こっちから仕掛けてモ良いのかナ?」
女が膝を軽く曲げて視線を下げ、両手を軽く開いて独特な戦闘態勢をとる。
「っ・・・!」
しかし、畏怖が輪人の行動意思を阻害する。
蛇に睨まれた蛙が動けなくなるがごとく、真の、本能的な恐怖が足を竦ませている。
「チッ・・・つまらないネ。殺すなとは言われたけド、傷つけるなとは言われてないかラ、遊ぼうと思ったのニ・・・」
(また、それか・・・!俺を生かして、どうしようってんだ・・・?以前永井が言っていた「世界を救う」とかいうことに、繋がりが・・・?)
女は一度嘆息して、再び口角を上げる。
「でモ、必要なのハお前の能力!能力の効果ハ記憶に依存するわけだかラ、たとえ体が壊れようト、記憶を司ル脳さえ無事なラ問題ないよネ・・・!」
深い笑みを浮かべたのと同時、女の額の左側で髪をまとめている三つのヘアピンのうち、右端のひとつが赤い輝きを帯びる。
(能力の発動・・・!?さっきの赤い手はやっぱりこいつの・・・!!)
強張る眼球を必死に動かし、あくまで体は件の女に向けたまま、周囲を警戒する。
「いくヨ・・・!」
女が、神河輪人へむけて二度目の能力行使をするために構え直して―
「神河・・・?これ、なんなのよ・・・」
背後から、聞き覚えのある声がした。
それは、強気な少女に似合わない、とても弱々しい、震える声で。
「なっ!?」
「誰ダ?」
危険を報せていた本能が漂白される。
恐怖を忘れて振り返った先には、血痕と破壊の跡を目の当たりにして、金縛りにあったかのように硬直する鈴の姿があった。
――――――――――――――――――――――――
高校生二年部より、雲雀 鈴、混戦。
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