日々思うこと

泉 玲

優しい転び

久々に帰ってきた。
もはや流れている時間さえ違うのではないだろうか、人々の歩みや溢れ出る気忙しさに目が留まる。
みな無表情で端末に目を落としイヤホンに耳を傾ける。歩く速度もみな等しく、流れを崩す者など1人もいない。
自分も流れを崩さず目立たぬようにしなければ、と身が引き締まる。

そう思った矢先に、転んだ。何年振りかと思う程久々に転んだ。一瞬何が起きたか理解出来ず、転んだ姿勢のまま固まってしまった。それを理解したとて顔を上げることは出来かねた。顔から火が出るようとはこの事か。周囲の人々はどんなにか冷たい視線を投げかけているだろうか、はたまた物珍しそうにじろじろと見ているだろうか。
そう思っていた時、上から声がした。おい姉ちゃん、大丈夫か、と。驚いて顔を上げると、初老の男性が心配そうにこちらを見つめていた。声を掛けられた事にさえ焦って、大丈夫です、ちゃんと前を見て歩かないといけませんね、と誤魔化すように笑いながら早口で言った。
言い終わった時初めて周りの人々の様子が目に入った。少し心配そうにこちらを見ながら歩いて行く人、優しく微笑みながら行く人、驚いて見た後顔をそらす人。それを見て、皆ひとりの人なのだ、と安心した。感情のある、人間味溢れる人なのだ、と。
声を掛けてくれた男性は、ちゃんと傷口洗って絆創膏を貼りなよ、と言い残して去っていった。良い人だ。

途轍もなく恥ずかしい経験だったが、これまでの中で最も人間というものを感じられた瞬間だったかもしれない。
傷口はジクジクと痛むが、同時にほんのりと温かいものを胸に感じる気がした。

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