からっぽの金魚鉢で息をする

mi

黒 AM7:45

<月曜日>

右足のつま先で三角を描くように地面をなぞる。


スカートも靴も真新しい。


下糸を切って自由にしてあげたのに、
プリーツは同じ方向にしか揺れない。


昨日の23時まで、今日という日が来ることが信じられなかった。

一昨日と昨日は同じ気持ちで過ごしていたのに、どうして今日はこんなにも
世界が違って見えるんだろう。

もちろん、この気持ちは、最悪。

吐き気がした。


ーーーーーーこの街に引っ越すことが決まったのは、昨年の春だ。

私は、特段、あの街に残りたかったわけでもないが
離れるのは嫌だった。


あの街は、
季節で違う空気を味わうことができる場所だった。


古びたアパートの匂いと一緒に、桜を見た。

セミが鳴き、煩かったのに切なさも覚えた。

落ち葉を掃いてこいとお父さんに言われたあの日の枯葉の音を忘れられない。

薄く積もる雪は私を退屈させなかった。


私は、あの街で、13年の刻(とき)を過ごしたのだった。

これから生きていかなければならない年数を考えれば、大したことのない刻。


それでも、私を私たらしめるのには十分過ぎる時間だった。


思考も感覚も言葉も全てあの場所から流れていた。



走馬灯を見ただろうか。

吐き気に耐えられず、腹部を押さえて駅のホームでうずくまった。


目を閉じた。目眩から抜け出せない。


ああ、本当に、この街が嫌い。
力が残っていないのだ。私には。



「…てる?」

「きてる?」

「いきてる?」


遠くぼやけた体と心の中で耳だけが世界と通じていたように思う。

誰かの声が上から降ってきていることに気付いた。

それも、何度も。


答えなら、イエスだ。

たぶん。


私はまだ、生きている。

体を動かそうとした。


「だめ!動いちゃだめ!」

今度は先ほどの倍以上の声量で降ってきた。

こんなに自分のことがわからないことってあるのか。

状況が読めず、私は、体を動かさずに擡(もた)げていた頭だけを
ぐっと上へ勢いよく上げた。


それと同時に立っていた人間が私のすぐ側にしゃがみ、私の足元を指さし

「まだ生きてるんだよ。ほら。良かった。」

と言った。


私は、その人間のあまりの美しさに何も考えられなかった。

彼が言っていることも
彼の指しているものも

関係なしに食い入るように横顔を見つめていた。


そのわずか5秒後、私はホーム中に轟く声を出して尻餅をついた。


彼の視線の先にある自分の足元。

そこに、約7センチほどの鮮やかな緑の青虫が横たわっていた。



尻餅を付いた私には一瞥もくれず、彼は、手で青虫を掬った。


そのまま、すくっと立ち上がり、
彼は自分のカバンからなにやら小さな箱のような物を出し、丁寧に蓋を開け
青虫をそっと閉じ込めた。



手も綺麗だ。

いや、動作の一つひとつがまるで、自分と違う世界の光に照らされているかのように美しい。

学ランは、程よく彼に馴染み、真新しくないのに崩れすぎてもいなかった。

胸元を見ると、私と同じ校章が光っている。



「あ、あの、なんで、青虫、助けたの?」




こんなことを言いたかったわけじゃない。

そんな拍子抜けした私を彼はどこまでも真っ直ぐに透かしていた。





「助けたんじゃない。だって、一人じゃどこへも行けないでしょ? 君も。」



ーーーーーーーーーーアナウンスと共に電車が来た。


AM7:45。


しっかりと二本足で立ち、黒い靴とスカートを靡(なび)かせて

私は一歩をしっかりと踏み出した。

新しいことは悪いことばかりじゃない。
































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