からっぽの金魚鉢で息をする

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女性は、
私が目を覚ましても
ベッドには居なかった。


此処での生活が長くなり、
隣や向かいに横たわる住人が
どんなハンデを抱えているのか
わかるようになってきた。


病は、結果だ。


だから、その人がどこで生活を
送ってきたのか
どんな人生を歩んできたのか
なぜ、苦しいのかなんてことは
わからない。


初めから誰も人の苦しみなんて
わからないのだ。


向かいのベッドの女性は、20代半ばの
独身といったところだった。


1ヶ月ほど前に此処へ来て、
彼女はずっと窓の外を見据えるだけで
一日を過ごしていた。


私が、彼女の輪郭を見たのは、
暑さに疲れ
1週間降り続く雨の金曜日だった。


私の部屋の住人は、ほとんどが
急変するような病気の持ち主では
無かったが、人間というのは、
それがいつ訪れるかわからないもので
その不安に駆られ過ごしていた。


小さい音だが確実にナースコールが
響き、私は、愛読していた哲学書
を一度机へ伏せ、視線を動かした。


室内で人間の動きといったものは
確認できずに居る間に、焦りを
滲ませた看護婦たちが足早に
室内へ入ってきた。

向かったベッドは、私の目の前だった。


彼女は、静かに窓を眺めている。


どうしたの?

と、看護婦は彼女に問い、
耳を彼女の口元へ
そっと近付けた。


彼女は、静かに目を閉じ、
私に聞こえないか細い声で、なにかを
呟いた。

その目からは大粒の雨が溢れていた。


看護婦は、表情ひとつ変えず


毎年、分からないのよね。


と、言ったが、彼女が何を
言ったのかは、その時の私には
まったく推測できなかった。


少し、外へ出ようか、と看護婦に
連れられて、彼女はたどたどしく
歩いて部屋を出て行った。


彼女の何かを悟ったらしい。



その数分後、面会の部屋へ向かおうと立った私は、ふと、彼女のベッドへ目をやり、
はっきりと、彼女を、見たような
気がした。



赤や青、いや、私の今まで理解していた
色のカテゴリーには無いさまざまな色の絵の具がベッドの中心部に散らばり、さらに
その中心の大きなスケッチブックの中で
その色たちが生きていた。





数ヶ月、ぼんやりしていた。


しかし、以前よりは、曜日の感覚や
時間の感覚がはっきりしてきた。

それは、彼女の輪郭に触れてから
毎日というほど、彼女の描く絵に
ついて言葉を交わし、そのいくつかを
見つめている時間が増えたからだ。




点と線で描かれるその先を彼女は、
まとめることをしない。

全体像を見据えて描かない。

何に向かっているかよりも、
大きな存在よりも
今日という日を

今という時間を

手に取っては無くなってしまう

零れ落ちてしまう

その一つひとつを
粉々な心で描いている。




その筆先の運びを、描いている姿を
私には決して見せないが、
不思議と、どんな表情で運んだかは
全て想像できた。


答えはない。

彼女が私に見せるのは、
途中であることの美しさだった。


これから消えても消えなくても
続いても続かなくても
壊れても壊れなくても
初めからまるでそこには何も
無かったかのようなものがあった。


この、色は、なんて色なの。

と、尋ねた。


それは、青を隠す色なの。

と、彼女は、答えた。

色の役割を知らないと、
生かしてあげられないと彼女は言い、
生きる構成があることを教えてくれた。


隠したり、隠されたり、
表したり、表す前に消えてしまったり
その筆先は、自分が決めてるのではなく
色が決めてるのだと。


私は動かされてるだけなんだ、と。


その日は、上から下へ
下から上へと雨が降っていた。


彼女は次第に、ベッドの上ではなく
机の上に絵の具や描きかけの絵を
置いて、面会や外へ出るようになった。


いつもの雨の日がそうであったように
雨が降っていることは当然だったように
哲学書を読んでいた私は、ふと、絵の具が床に落ちていることに気付いた。



もう、無くなりかけていた。

絞り出すように、絵の具チューブの
中心部から折れていた。

驚くことに、
ほとんどの絵の具が絞り出されていたことに気付いた。

その日机に置いてあったすべての
色は、花火のように一瞬でパッと咲いて
消えてしまうほど儚い赤だった。




その赤が脳裏から消えず溢れて
雨に全て溶けていった。




聞くべきだった。


すぐに、聞くべきだった。

深く眠ってしまっているうちに
想いは溶けてしまった。

その雨の日の赤は、彼女の肉体を
私の知らない場所へ連れていったまま
もう戻すことはなかった。



ぼんやりした日々は、私から
時間も曜日も月も奪っていった。



彼女のことを何も知らなかったことは、
私が何も獲得しなかったことを突きつけているように感じた。


看護婦が数人来て、向かいのベッドに
新しい住人が来ることを口々に話した。


ベランダから戻ってきた看護婦が

これは、彼女のだよね。

と、手にスケッチブックを持っていた。


横たわった体をすぐに起こし、
目を凝らすが、何が描いてあるか
見えず、思わず手を伸ばし、

見せてくださいと

告げた。




何ページにも渡る空白。


どれだけめくっても白い世界に
視界が眩む。


生命力に導かれるように
土砂降りのベランダへ出た。




スケッチブックが置かれていたであろう
場所には、木の腰掛けのようなへこみがあり、小さなお菓子の箱に筆が入っていた。



腰掛け、冷たい水を空から浴びた。



ふと、視線を落とすと、
スケッチブックには、滲み、濡れて
浮かび上がってきた無数の花や風景、
人の横顔、人間の温かさ、冷たさ、
全てがあった。


私が突き止めたかった赤の理由など
そこには無かった。



彼女は、心の奥の本当のことは全て
白で描いていた。


ねえ、あの木にはいつ、花が咲くの?





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