天使が我が家に舞い降りた?!

絢野悠

第24話

一日が経過し、それでも恵は姿を見せなかった。


ため息を吐きながら、今日も小説を読み進めた。他にすることがなく、気を紛らわせる方法も思いつかなかった。


早く彼女に会いたいという気持ち。同時に会ってどんな顔をしたらいいのかという気持ち。さまざまな気持ちが入り混じり、小説の内容が頭に入ってこない。


彼女の料理はとても美味しかった。「美味しい」と言ったときの笑顔が忘れられない。


怒ったこともあった。怒られたこともあった。けれど、慰めてくれたこともあった。


そんな優しい彼女に、早く会いたい。


ため息を吐きながら本を閉じた。そのとき、入り口の方でガタンと音がした。咄嗟に顔を上げた。


「恵、さん?」


出会うなら、もっとドラマチックであるべきだ。そっちの方がロマンチックだ。でも、こういう再会の仕方も悪くない。


彼女がこちらを向いた。目を見開き、瞳を潤ませる。


「光輝……」


たどたどしくも歩み寄り、ベッドの横に立った。光輝の頭から足先までをまじまじと見て、眉をハの字に寄せた。


点滴の管に触れ、手に触れ、顔に触れた。


「脚にギブスをされているところ以外はいたって普通だよ」


本を枕元に置いた。


「私の名前、覚えてるの?」
「覚えてるよ、当たり前じゃないか」
「私とお前が出会ったのは?」
「公園」
「私はお前になんて言った?」
「ボクの不幸を治すって、天使だって言った」
「本当に覚えてるんだ」
「ちょ、ちょっと。笑いながら泣かないでよ」
「泣いてなんか」


目元を拭うと、確かに濡れていた。どこか鼻が詰まっていて喋りづらい。


「心配、してくれたんだ」
「するに決まってるだろ!」
「その割には来るのが遅いような気もするんだけど」
「いろいろあったんだよ! いつ、どこで、なんでこんなことになった!」
「昨日目が覚めてから一日経ってるから……二日ぐらい前だよ。女の子を助けて車に轢かれちゃったんだ」
「轢かれちゃったんだって、お前……」
「正確にはちょっと違うんだけどね。女の子を助けて、地面に頭をぶつけたらしいよ。脚の方は車と接触したけど、ちょっと折れたくらいだって。だからギブスも薄めなんだ」


コンコン、とギブスを叩いた。


「でも、よかった」


くしゃりと、恵の顔が歪んだ。眉間にしわを寄せているが、どこか柔らかい表情だった。


「なんで泣きそうなんだよ」
「お前が死んだら悲しいからだよ! 言わせんなよ!」


今度は眉尻を釣り上げて怒り始めた。


こんなやりとりをしているが、光輝は心から嬉しく思っていた。


心配させてしまったことは申し訳なく思っている。けれど、心配してくれたのだと思うと胸が熱くなる。


たった数週間の同棲生活。その中ですり減っていく不幸は、確かに光輝にとってなによりも嬉しいことだった。だがそれ以上に、彼女と出会い、共にいられたことがなによりも幸せだった。


「夢の中で言われたんだ。待っていればきっと来るって。だから待ってた。絶対来てくれるって思ってた」
「夢の中で? 誰に?」
「キラキラと輝いてて誰かはわからなかった。顔は全然。でも髪の毛を一つに束ねて左肩から垂らしてた。優しい声で敬語だったかな」


恵は顎に指を当て「あー」と間延びしたような声を出した。


「だからあのときいなかったのか……」
「思い当たる節でも?」
「まあ、いろいろとな。で、なんか言われたか?」
「選ばせてやるって」
「なにを?」
「ずっと不幸でいるか、それとも不幸を取り払うか」
「当然校舎を選んだんだろうな? じゃなきゃ、私がお前のところに来た意味がない。お前の不幸体質を治すために降りてきたんだから」


光輝はふるふると、首を何度も横に振った。


「前者を選んだよ。前者じゃないと得られないものがあったんだ」
「お前、不幸体質のせいでたくさんのものを失ってきたんじゃないのか? そのせいで苦労してきたんじゃないのか? なんてことをするんだよ」
「辛かったよ、苦しかったよ。たぶんこれからもそれは続いていくと思う。恵さんに少しだけ軽減してもらったから今までよりはましかもしれない」
「なんで完全に取ってもらわなかったんだ。お前は、なにがしたいんだよ」


また、彼女が泣きそうな顔になった。その理由はわかっている。光輝のことを心配し、慈しんでいるからだ。


「不幸を完全に取ってもらうっていう選択肢は選べなかった。そうすれば、ボクはキミとの記憶を失ってしまうから。と言っても、この記憶も一週間くらいしか保たないみたいだけどね」
「お前、そのためだけに……」
「不幸体質がなくなることは、きっとボクにとってはなにものにも代えがたい幸せなんだと思うよ。けど、それ以上に代えがたいものを知っちゃったんだ」


普通の人より少しばかり不幸であったとしても、別の方向性を持った幸せがあるんじゃないかと考えてしまった。


「だからキミを待ってた。この記憶が消えてしまう前に、この気持ちを伝えなきゃって思ったから」


この先、目の前から恵が消えたとしても。


「ボクはキミが好きなんだ。キミと一緒にいて、一生涯の中で一番楽しかったんだ。幸せだったんだ。キミが天界に戻っても、この気持ちを伝えずにはいられなかった」


恵が両手を口に当てた。顎が震えている。次第に、大きな瞳が潤んできた。


「ボクは人間で、キミは天使だ。きっと相容れないんだと思う。それでもさ、ありがとうって言えなきゃ、感謝をちゃんと伝えなきゃ、キミに失礼だと思ったんだよ」


彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「ありがとう、恵さん。ボクの不幸体質はそのままだけど、キミと一緒にいたときは幸せだったよ。ボクはキミとの記憶を忘れるかもしれないけど、この気持ちだけは忘れたくないって思う。誰を好きになって、どうやって幸せだったかなんてわからなくていいんだ。確かに幸福を感じられたんだって、そう思えればそれでいいんだ」


光輝がゆっくりと目を閉じた。唇を強く結う。涙をこらえきれなくて、思わずその場で泣いてしまった。


泣くつもりなどなかった。このまま笑顔で別れたかった。しかし、それができなかった。


目の前から消えてなくなるだろう幸福を見過ごせなかった。


今はなによりも、誰よりも彼女のことを大切に思っていたからだ。


次の瞬間、左の頬を衝撃が襲った。なにが起きたのかと目を見開くと、目に涙を溜めた恵が平手を振り切っていた。


「な、なにを……」
「この大馬鹿野郎……!」


病院であることを気にしているのか、大声を出そうとしても出せなかったのか。おそらく、その両方だった。


「私がなんで戻ってきたかわからないのか。天使の力を失ってまで現れた理由がわからないのか。胸を痛めるほど心配した理由がわからないのか、お前は」
「天使の力って……うそでしょ……?」
「ホントだよ! 私はもう天使じゃない。追放されたの、天界を」
「なんで? いつの間に?」
「つい数時間前よ。理由は、任務の対象者を不幸にしてしまったから。それと私のワガママ」
「対象ってボクでしょ? ボクは不幸になんてなってない。むしろ恵さんのお陰で前よりもよくなった」
「でも私の力が弱かったから不幸体質は治らなかった。私の力が弱いせいで、事故のときも一緒にいられなかった。全部力不足のせいなんだ」
「ずっと高熱が続いてたのって、もしかしてボクのせい?」
「まあ、そういうこと。大天使様にはアナタでは力不足だと言われたわ。そのせいで身体を壊すとも。でも私は任務の途中放棄はしたくなかったし、なによりもお前のことが気になってた」
「気になってたって、それだけの理由で戻ってきたの? 天使の力を失って?」
「それだけの理由じゃねーよ! バカにすんなよ! 私はお前と一緒にいたいって思ったんだよ!」


真っ赤になって、彼女は俯いてしまった。


「それって、もしかして」
「言わせるつもりかよ」
「言ってくれなきゃわからないよ」
「ちょっと、待っててくれ」


両手で顔を覆ってから数秒。頬を二度三度と叩き、光輝の瞳を直視した。


「実は、まだよくわからない。人間としての暮らしも、人間としての感覚も未熟だ。この感情をどう表現していいかも、難しい。でもあえて言うなら、私はお前に恋をした。好きに、なったんだ」


叫びそうになる口に手を当てた。本当は今すぐにでも叫んで院内を駆け回りたい衝動にかられた。


「なんだよ、その顔」
「思った以上に、素直だなって」
「イヤなのかよ」
「ううん、嬉しいよ。とても、嬉しい」


気持ちが通じただけじゃない。絶対に届かないと思っていたものに手が届いた。こんなことがあるのかと歓喜した。


まだ夢の中なのではと、自分の頬を強くつまんだ。


「夢じゃないわよ。私はお前が好きなんだ。一緒にあの家に帰ろう」
「うん。一週間、待ってもらってもいい? ちょっと早く帰れるように相談してみる」
「入院ってそんなことできるの?」
「わからない、たぶんできるんじゃないかな」
「お前は本当にふわふわしてるな。手を離したら飛んでいってしまいそうだ」


恵が手を差し出してきた。手のひらを上に向けていた。


光輝はその手をそっと握った。


「恵さんだって、どっか飛んでっちゃいそうな性格してるじゃないか。だから恵さんのことはボクが捕まえておくよ」
「お互い大変だな」
「それでいいよ。ちょっと不幸でもいい。ちょっと大変でもいい。キミが一緒にいてくれるならなんとかなりそうだから」


彼女の手は温かく、柔らかかった。


もう絶対に離さないと、強く握りしめた。


今までで一番の幸せを手にしながら、その代償に少しの不幸が残った。けれど、その不幸をかき消すほどに幸せを感じていた。


彼女との生活を想像するだけで高揚していく。一抹の不安はあれど、この気持ちに嘘偽りはない。


お互いに顔を見合い、微笑んだ。それだけで今は幸せだった。

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