魔法少女リンネ ~ The world of RINNE~

絢野悠

第1話

目が覚めてからすぐ、制服に着替える。牛乳で菓子パンを胃に流し込んでから部屋を出た。


昨日洗っておいた洗濯物を干す。家事全般は私の仕事だった。


登校時間が近づくと、いつものように早足で茶の間を通り抜けようとした。


「おいリンネ! てめーまた挨拶もなしに出てくつもりか!」


ドアを開けようとした瞬間、茶の間から父親が顔を出す。そして私に怒号を浴びせた。


「いっつもしけた面しやがって。チカゲを見習えよ」
「わかりました……行ってきます……」


そう言ってから、私はこの家を出た。今日一日が始まり、この家から解放される瞬間。それが良いか悪いかは、なんとも言えないところだ。
朝から飲んだくれている父とのやりとりは、不本意ながらも日課だ。私に興味なんてないくせに、少しでも癇に障ると怒鳴ってくる。本当に面倒で、本当にうざったい。


母が再婚する際に相手が連れてきた子供、それが妹の千影だった。私の一つ下だが、通っている高校は別々だ。


千影は幼少の頃に交通事故に遭っていた。そしてなぜかはわからないが、その時から犯罪なんかに興味を持ち、性格も少しずつ変わった。どれもこれも、似たような猟奇殺人事件の記事を集めていたと記憶している。


私は自分のことで手一杯だったので、千影を構ってはやれなかった。だが、その分は姉の果歩が補っていたのでよしとしよう。それに今となっては過去の話だ。


私たちがまだ幼い頃、千影の父は、私と果歩の母と再婚した。父は千影を溺愛し、私や果歩のことはゴミのように扱う。なにもしてないのに酒瓶を投げつけられるなど、小学校から当たり前だった。


最初からそうだったわけではない。元々は温厚で優しかった義父は、私が小学校高学年のときにリストラされた。それが原因で酒浸りになり、暴力も頻繁に行うようになった。


今も生活費のほとんどが母の給料だ。たまに父の友人が紹介する仕事を手伝う以外、ずっと家にいる。


義父がこんなことになってからというもの、私たちはなすがままされるがままだった。そのおかげで私はよく塞ぎ込むようになり、小学校からイジメの対象。それは高校二年生になった今でも変わらない。


いつも通り、始業一時間前には教室に入った。教室にいても喋る相手はいないし、やることは決まっている。


私は参考書を広げ、黙々と勉強にのめり込んでいった。


のめり込むという表現は、非常に適している。高校など所詮、良い大学に進み、良い職場に就くための踏み台なのだから。


小学校から我慢してきた。家を出るまでの辛抱だと自分に言い聞かせてきた。私の精神や思考は、小学生らしからぬものだと、当時も思ったものだ。


周囲の同級生がたわいない話で盛り上がり、外を走り回って遊んでいても、私は一人で勉強に打ち込んだ。それもまた、イジメを助長していたのかもしれない。


毎日のことだが、教室がうるさくなり始めても気にしない。私は勉強さえできればいい。


しかし、お昼休みには邪魔されてしまう。勉強に時間を費やしたいのだけど、そうさせてくれない人たちがいる。


同級生に教室から連れだされるのも、もう仕方ないことなのだと自分に言い聞かせていた。


「ほらどうしたよ! 便器の水はウマいかよ!」


私の顔は便器の中に押し付けられている。水は流しっぱなしなので、髪の毛もだいぶ濡れてしまった。


正直に言うと、とても苦しい。少しだけ水を飲んでしまうが、もうだいぶ慣れた。


この『行事』は昨日今日に始まったことじゃない。一年近くこんなことをされていたら、誰だって慣れるだろう。


心が折れる前に慣れてしまった。私、月城輪廻とはそういう性格なのだ。


ホウキやモップの柄が腹部に食い込む。いつもの四人組だったので、頭を押さえつけているヤツ以外の三人だろう。


「なんか言えよほら!」
「アンタが顔を押し付けてるからなにもいえねーんだろ?」


下卑た笑いが耳を刺す。


イジメを受けた最初の頃、あれは小学生だったか。あのときは頑張って抗おうとしたものだ。しかしいつの間にか、私は諦めてしまった。抵抗しても無駄ならば、従っている方が楽に決まっている。弱い者が淘汰されるのは世の常だ。


突如髪の毛を掴みあげられ、私は水流から解放された。


「なんか言えって」
「……苦しいわ」
「そうかいありがとう」


再度、便器の中へ。


思い切り押し付けられたものだから、鼻を打ってしまった。鼻血が出てないか、後で確認しなければ。


そういうことを考えられるくらい、思考に余裕がある。やりたいやつにはやらせておけばいい。いつか気が済んでどこかへ行く。


「水、もう出ないの?」
「水槽が空なんだよ。今日はもうこの辺でいいんじゃね?」
「反応なくてつまらねーし」


水が止まったかと思ったら、今度は床。ただし押し付けられたり叩きつけられたわけじゃない。放られただけだ。おもちゃに飽きた子供のように、彼女たちは私を放り投げた。


彼女たちはこぞってトイレを出て行く。


「今度、アソコに電球でも入れちゃおうか」
「バカだねー。それはさすがにやりすぎでしょー」
「壊しちゃったら楽しみなくなっちゃうからね」


なにがそんなに楽しいのか。そう聞きたくなるくらいの大声で、笑いながら出て行った。


一人だけ残された私は、ゆっくりと立ち上がる。


「人間なんて、大嫌い」


スカートをきつく握った。


当然、悔しいし痛い。私は機械でも人形でもない。感情を持った一人の人間なのだから。


学校など踏み台なんだ、我慢すればいい。こんなところ、人生の中で一欠片の時間だ。


自分を人間だと言って、人格を主張している時間も惜しい。己の道を突き進むという生き方に、今は疑問も不満も抱いてない。


こんな格好では教室に戻れない。ずぶ濡れだし、髪はぼさぼさだ。


こういうときは保健室に行くのが一番いい。あそこには替えの制服も常備させてもらっている。


ブラウスとスカートを少し絞り、水気を切った。


肌寒さを感じて二の腕をさすりながら、私は保健室に向かった。


保健室に入ると、ゆらゆらと揺れるポニーテールが目に飛び込んできた。


「またいじめられたの?」


振り向いた宮永先生は、現代では稀有な瓶底メガネをしている。これは彼女のトレードマークだった。


「仕方ないのよ。担任に言っても、生活指導の先生に言っても、誰も相手にしないと思うから。逆にそれが原因で悪化しても困るわ」
「はい、制服」
「ありがとう、宮永先生」
「ごめんね、どうすることもできなくて」
「誰にも言わないで、と口止めしたのは私よ? 先生が謝ることじゃない」


手渡された制服を、その場で着替えた。


この保健室は何度も使わせてもらっている。初めてずぶ濡れで入ったときの宮永先生の顔は忘れられない。驚きながらも、今にも泣き出しそうだった。


彼女はいい先生だと思う。生徒の話もよく聞いて、親身になってくれるとも評判だ。それだけにこのことを口止めするのは、こちらとしても可哀想に思う。


「早く卒業できるといいわね」


現在二年生の春。まだ二年近く残っているのかと、少々頭が痛くなる。


宮永先生にはいろいろと話してあった。早く卒業したがっていることも、勉強以外に興味がないことも。家庭の事情も、少し話した。その時は精神的に少々弱っていたのだろう、普段ならば口外しないような話だ。


「それじゃあ、教室に戻るわ」
「授業が始まってから十分経ってるけど、今行って大丈夫なの?」
「教室で私に興味を持ってる人はいない。それよりも、今は勉強しないと」
「そう。がんばれ、少女」
「ありがとう」


教師でさえも見放した学年一位の秀才。それが私。でもそれでいい。それが、いいんだ。


予想どおり、教室に戻っても問題はなかった。誰も見向きもしないし、着席しても声をかけてこない。


私はただ勉強するだけ。それは授業中でもだ。


授業を聞きながら、他の参考書を解いていく。この学校は県内でも頭が良い学校だから、ずっとトップに立ち続ければいい大学にも行かれるはずだ。


それだけが私の糧だった。


六時限目が終わったあとはすぐに帰る。以前は放課後も学校で勉強していたが、これも邪魔されてしまう。ならば家で勉強するしかない。父親はうるさいが、ここよりはましだ。

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