廃クラさんが通る

おまえ

036 二人の世界

「ジュー」
 と、フライパンの中のものが香ばしい匂いとともにふっくら焼き上がっていく。 まだ体がふわふわしている。 まるで夢の中にいるようだ。 俺がどうやって家に帰ったのかもよく覚えていない。 だがきっと体が覚えていたのであろう。 俺はちゃんと帰宅をし、今、夕飯おこのみやきを作っている。 今フライパンを振るっている動作も体に染みついたものだ。 俺の意識は今、肉体を離れ別の場所にあるが、俺の中に刻まれた記憶が勝手に俺を動かし料理をしている。
~くん!」
 腰のあたりに「どんっ」と衝撃があり、俺は首だけ振り返る。
「あ、お姉ちゃん、おかえり」
 そこには笑顔の『お姉ちゃん』。 スーツ姿のまま俺の腰に抱きついていた。
「気づかれないようにこっそりドアを開けて近づいたんだけど、気づいてた?」
 お姉ちゃんが俺に上目遣いで尋ねる。
「いや、全然気づかなかったよ」
 本当に気づかなかった。 いつもなら気づくんだけど。
「でも、あまり驚かなかったみたいだけど…。何かいいことあった?」
 俺の顔をまじまじと見る。
「え? いや、特になかったよ。そんなこと」
 やばい。 俺、まだ顔が緩んでたりしてた? 俺は体をお姉ちゃんの方へ反転させると、顔を無理矢理引き締める。
「本当に?」
 俺の顔をさらに覗き込む。
「ないって! 本当になかったって」
 俺はなおも否定をする。 いや、あったけど。 多分俺の人生の中でも一番の出来事が。 少し離れた場所にあった俺の意識がじわじわと現実にくたいに戻される感覚があった。 まだあの心地よい浮遊感を味わっていたかったのに。
「ん?」
 お姉ちゃんは抱きついたまま鼻をひくひくと動かすと俺の胸に顔を埋める。
「え? ちょっと…?」
 顔を埋めたまま、ぐりぐりと鼻をこすりつける。
「くすぐったいって! 離れてよ」
 俺は引き離そうと腕に力を込めようとしたが、それを実行する前にお姉ちゃんは顔を上げる。
「…女の匂いがする」
 俺の目を真正面から睨み付けると、俺は完全に現実に戻る。
「え? 嘘? 匂いする?」
 俺は腕を鼻の位置まで引き上げて嗅いでみたりする。 ――が、特に俺には匂いは感じとれない。
「しないよ。勘違いだって」
 俺は全力で否定をする。
「する。蒼空くんの匂いじゃない、他の女の匂いがする」
 瞬きもせず俺を睨み続けるお姉ちゃん。 先ほどまで俺を包み込んでいた幸せな浮遊感は一気に消え失せた。 それどころか重苦しい巨大な氷の塊を背負っているような感覚さえある。
「え~と……」
 たしかに長田さんに腕を組まれたり抱きつかれたりはしたけど。 抱きつかれることならこれまでもジルに何度もされたりした。 でも思い返してみればジルは長田さんほどの芳香は放ってはいなかった。 ジル本来の自然ナチュラルな香りが感じられるほどに。 いや、けっしてジルが臭いとかそういうことではなく、あくまで長田さんに比べて控え目な香りだということだ。 さらに弁解を続けるなら、香りだけで比べるとしたら、どちらかといえばジルの香りの方が俺は好きだ。
「誰と何をしていたの? 正直に話して、蒼空くん」
 静かな口調で俺に詰め寄ってくる。
「会長だよ。生徒会長の長田さん。その人と一緒に買い物してただけだって」
 俺は正直に話した。 嘘は何一つ言っていない。
「その会長さんって、女の人? 蒼空くんと二人だけで? 買い物以外してない?」「うん、女の人。え~と、他にはメックにいったかな。そこで二人でハンバーガーとか食べたよ」
 俺はポテトしか食べてはいないが。
「本当にそれだけ? 何もなかった?」「何もないって」「嘘! 二人っきりになったら絶対蒼空くん襲われちゃうって! 蒼空くん可愛いカワイイんだもん! その匂いだってその時についたんでしょ?」
 絶叫する目の前のお姉ちゃん。
「……」
 いや、襲われたわけではないけど、確かに突然抱きつかれたりはした。 そしてあれは…キス…だよね? あの頬に残った感触は。 でもべつに俺が可愛いカワイイからされたとか、そういうことではないと思う。
「あー! やっぱり襲われたんだ! 蒼空くん、その会長さんに悪戯イタズラされちゃったんだ! 何をされたの!? しちゃったの!? 何回も、何回も… まさか中に出しちゃったりとかはしていないよね!?」
 鼻息を荒らげ、顔を真っ赤に非常に興奮した様子で俺に詰め寄る。
「ちょっと!? 何回もって、もう、そういう前提!? それに出すってナニを!? 中ってどの中のこと!?」
 いや、その意味を俺はわかっている。 でもあえてとぼけた。そんなことはあり得ない。 長田さんとそんなことになるなんて想像さえしたことはなかった。 …今までは。 でも、あんなことをされて俺は意識してしまった。 キスの先があるのかもしれないと。 もしかしたら今後、俺たちがもっと親密になっていけばきっとその先には…。 と、家に帰る電車の中、そして家に帰って料理をしながら、俺は今まで感じたことのなかった高揚感の中でそんなことを想像したりもしていた。
「あ~! けがされちゃった~! 蒼空くんが汚されちゃった~! 蒼空くんは私だけのものなのにいいい~!」
 腕を振り、地団駄を踏んで、じたばたと暴れるお姉ちゃん。
「なかったから! そんなことはなかったし、されてないから! だから落ち着いて!」
 俺はお姉ちゃんの肩を押さえ、必死に宥める。
「本当に? 本当に何もなかったの?」
 目を潤ませて俺に訴えかけてくる。
「うん、お姉ちゃんの想像しているようなことは絶対になかったから」
 俺も真剣な眼差しで訴えかける。
「……信じる。うん、信じてあげる。そうだよね、蒼空くんそんなことしないもんね。蒼空くんがお姉ちゃん以外にそんなことするなんてありえないもんね」
 …はあ。 やっと収まった。 これで一安心 …ん? なにやら焦げ臭い匂いが…。 俺は慌てて振り返り、匂いの元をフライ返しでひっくり返す。
「あ~、もう、お好み焼き真っ黒だよ。…それからお姉ちゃんにもそんなことはしないからね。別に俺、お姉ちゃんのものってわけでもないし、俺だってそのうち学校を卒業して、就職して、ここを離れることになるかもしれないんだよ?」
 いつまでも俺がお姉ちゃんの元にいるわけではないし、このまま束縛が続けば長田さんとの関係の進展だってのぞめないかもしれない。
「…え…? 蒼空くんも私の元からいなくなっちゃうの? そんなことないよね? 蒼空くんだけはずっと私のそばにいてくれるよね…?」
 背中側から聞こえる声がだんだんと涙声になる。
「だから俺だっていつかは独立して…」「うわああああ~~ん! みんな…みんな、私の元からいなくなっちゃうよおおお~! 蒼空くんもいなくなったら、私、ひとりぼっちになっちゃうよおおお~!」
 俺は驚いて振り返ると、目の前のお姉ちゃんは大粒の涙をぼろぼろこぼしながら小さな子供のように大声で泣きじゃくっていた。
「蒼空くんがいなくなっちゃったら、私、生きていけないよおおお~! 私、どうしたらいいのおおお~!」
 俺はお姉ちゃんの背中に腕を回し、優しく抱きしめる。
「大丈夫。いなくならないって」
 そのまま俺はお姉ちゃんの頭を撫でる。 …そうだ、思い出した。 最初は逆だったんだ。 あの時、泣いていた俺をお姉ちゃんは抱きしめてくれた。 まだ小さかった俺はお姉ちゃんの胸の中で泣きじゃくっていた。 自分も辛かっただろうに、俺を一生懸命慰めてくれたんだ。 そして、今、それが逆転している。 俺の背もあの頃より高くなり、お姉ちゃんと同じくらいになった。 いつまで俺はお姉ちゃんと一緒にいられるのかはわからない。 でも一緒にいる限り、俺はこうやってお姉ちゃんに寄り添ってあげないといけないんだ。
「…本当に? 本当に蒼空くん、いなくならない? どこにも行かない?」「うん、いなくならないから、どこにも行かないから、もう泣かないでね?」「うん、もう泣かない。だから、今日は久しぶりに一緒のお布団で寝てもいい?」
 体を離すとまだわずかに泣き顔の残る表情で俺を見つめる。
「え? 寝るだけだよ? 変なことはしないでよね?」「うん! もちろん! 今日はよ~くお風呂で体洗わなくっちゃ。…蒼空くんも一緒にお風呂入る?」
 一転笑顔になると俺を上目遣いで伺う。
「入らないってば! 一緒に寝るだけなんだからね!?」「蒼空くん照れちゃって、か~わいい! 大好き! 蒼空くん!」
 と、俺を力一杯「ぎゅ~」っと抱きしめてくる。 よかった、なんとか機嫌を直してくれたかな? 俺の後ろからまた焦げ臭い匂いが漂ってくる。 反対の面もすっかり焦げ付いてしまったようだ。 焦げを避けたとしても食べられる部分なんてほとんどないだろう。 お姉ちゃんが風呂に入ってる間に何か別のものを作らないと…。

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