Destiny

ほっちぃ

Destiny

いま本文を読んでいるあなたは、死神というものをご存知だろうか。この伝書によると、運命に導かれた者の魂を引き抜くことができ、善人も悪人も等しく死へと誘うらしい。それが彼らの仕事で、逆らうことができない、とある。今から綴る文章は、社会の底辺で足掻く者の戯言として受け取ってもらえるとありがたい。


都内某所、四月。僕は桜の傘がまばゆい公園で花見をしていた。「部長」両手で顔の前へビールを掲げ、返事を聞いてから酌をする。ラベルの向きを上にして、ジョッキの側面から流し込んでいく。僕だって本当はこんなことはしたくない。こんなことというのは、なにからなにまで全部だ。存在などまったく気にしていない素振りを見せながら蚊を叩くのも、これっぽっちも尊敬していないコイツに酌をするのも、くだらないマナーを気にして生きていくのも、全部だ。「ふぅ」注ぎ終わっただけで疲れが出たのか、ついため息をついてしまった。気付かれていないかちらりと顔色を伺う。すると、コイツはもう酔っ払って気分が良くなったのか、泡の量に文句を言ってこない。毎回そうしてくれればいいのに、と、コイツの皺を見ながら思う。「すみません。お手洗いに行かせてもらいます」この呑気な雰囲気に耐えきれなくなって、レジャーシートのナワバリから外へ出る。「なに笑ってやがんだ」誰にも聞こえないように隅の方でぽつりと呟いた。

ナワバリから離れると、僕の心とは対照的な陽射しが舞い込む。仮設トイレまではまだ遠い。「遠いな」ここがあまり人でごった返さないのは、こういった配慮のなさがあるからだ。「公園の設備まで自己中かよ」アルコールが回っているからなのか、なにげないことにいつもより腹が立つ。「ん、なんだ」道の真ん中に一本の桜の木があった。それを避けるようにアスファルトが舗装されていて、それが僕の人生に立ちはだかる邪魔者のように感じて、木に向かって呟いた。「僕だってお前くらいに照らされれば、好き勝手しても儚く散ることを惜しまれるのに」嫉妬か恨みかなんなのか、とにかくだんだんとムシャクシャしてきて、どこか知らない街にふらっと出かけてそのまま一生を終えたくなった。知らない世界に行きたい。二度として、アイツらの顔なんて拝むことのない場所まで連れ去ってほしい。そんな非現実的なことを考えていると、目の前の桜が急に散り出した。一枚散り、三枚散り、ついには花吹雪となって、花びらはひとつも無くなった。「な、なんだこれ」なにが起きているのかわからなくなって、桜の頭を見た。ものの数秒ほどですっかり枯れてしまった木を見て、右足が後ろにひとつ摺られる。
そのとき、艶かしい声がどこからか聞こえた。「そこのあなた、現状に不満があるようね」動転していた僕はてっきり後ろにいると思いこんで、後ろを振り向いた。だが、そこには誰もいなかった。「どこを見ているの?」声の居場所をよく探すと、どうやら木の方向から聞こえてくるようだった。向きを正してみるが、やはり桜の木が視界いっぱいに広がっている。「こっちよ、おバカさん……っと」「うわっ!」ようやく声の距離が掴めてくると、予想していた位置よりずっと手前に、ドタッ! となにかが落ちてきた。桃色の長い髪、巨乳。突然の出来事に尻もちをついてへたりこむ。それ以上の情報を僕の脳は処理できない。「初めまして」僕はまだ混乱しているというのに、胸元が強調された服を着た彼女は、なんの躊躇もなくこちらへ手を差し伸べてくる。僕は反射的にその手を取ってしまい、見事な曲線美が目に焼き付きながら身体を起こすことになった。「あ、ありがとう。えっと、君はいったい」「私は」女は髪をかき上げ、話を割るように話し始めた。「占い師をやってるの。名前は沢尻 瑛美留えみるっていうの。みんなはサリーって呼んでるから、あなたも気軽にサリーって呼んでくれたら嬉しいわ」「は、はぁ」妖艶な声色や見た目と違ってガンガン話してくるタイプのようで、気後れにも昂りにも似た感情に支配された。「実はね、あなたに死相が出てたから、気になって声をかけちゃった」死相。文字にして書くと一瞬で理解出来るが、言葉にされるとどんな字の"しそう"なのか、すぐには分からなくて、横を流れる川に視線を落として考えた。「あぁ、死の相で死相ね」サリーは待っていたように二回頷くと、またすぐに話し始めた。「そこで提案なんだけど」僕は、サリーの口から出た言葉がこれまた唐突で信じられなかった。「今から私とデートしない?」僕が? この子と、デート? たしかに、嫌な思いをしてまでアイツらと関わって生きていくのは疲れたし、どこかに逃げ出したい気持ちはある。胸の大きい子も嫌いじゃない。だが……「デート?」 僕には現実という向き合わなければいけないものがあるし、サリーにはなにもメリットはないはず。急に非現実的なことを言われると、途端に冷静に考えることが出来るものだと感心する。「美人局だとか援助交際だとかの類じゃないよ。お兄さんのことが純粋に気になったから、もっと知ってみたいなって思って」と彼女は言った。なるほど。言い分はよく分からないが、サリーとほんの少しデートするだけなら、社会的にも大きな問題になることもないだろう。気づけば尿意もなくなっていたし、ちょうどよかった。花見の最中だったが、あの場所から僕がいなくなって困る人は、きっと誰もいないだろう。花見だって、会社の恒例行事だから半雑用係として僕も呼ばれているだけで、本当はアイツらだけで仲良くやりたいはずなんだ。トイレに向かおうとしたときに誰ひとりとして目線をくれることすらなかったのがいい証拠だ。「じゃあ、行こうか」僕がそう言うと、サリーは目を輝かせて喜んだ。「決まりっ!」僕は会社の連中を放置して、サリーと出かけることに決めた。
それから、彼女の提案で遊園地に出かけることにした。サリーは電車の中で「今日一日はなにもかも忘れて楽しもう。嫌なことは明日にしよう」と、自分自身にも言い聞かせるかのように力強く言った。


「人が少ないね」遊園地に着くなり、僕はそう言った。休日だというのに、子どもの姿を見かけない。たまに見かけるのは、ベンチに座っているカップルだとか、仲睦まじい老夫婦だけだ。「花見のシーズンだもの、世間一般の会社員はわざわざ遊園地になんて誰も来ないわ」と、サリーが言う。僕はここに来ているくせに妙に納得してしまって、そうなのかと答えた。「じゃあせっかく空いてることだし、今日は全部回ろう」僕達は全てのアトラクションを体験することにした。
「まずはあれかな」サリーが指差した方向には、とても高い観覧車があった。いきなりトリかとも思ったが、僕には順番の希望なんてないから、わざわざ従わない理由もなかった。
観覧車に乗り込んだあとは、小さな密室の中、ふたりして窓に張り付いていた。変わった景色が見れるということもない都会の観覧車。冷静に考えてみれば、見慣れたビル群を高く上がった箱から見るだけで金を取られるという、ただの無駄遣いだ。それでも、面白味のない毎日とは違う非日常というだけで楽しかったし、なにより一緒に遊ぶだけで喜んでもらえる存在がいてくれることが嬉しかった。
「次はなにしようか」
この日は、一日がとても早く感じたんだ。



「当園は、まもなく、閉園とさせていただきます」無機質な園内アナウンスが流れる。同時に、サリーの肩の奥にある人工樹の、さらに向こう側へと陽が沈んでいく。僕は、空が演出した一幕を見届けると、サリーにそっと声をかけた。「じゃあ、そろそろ出ようか」
お互いに言葉を交わすこともなく、距離を置くこともなく、並んで外に出た。遊園地の入口に鎖を回す警備員の姿に哀愁を感じながら、無言のまま駅へと向かった。

なにを話せばいいのだろうか。どう切り出せばいいのだろうか。僕はどうなりたいのだろうか。脳内がぐるぐるとしていた。
駅が見えてくると、明日からの生活を思い出させる広告が打ってあった。「働くあなたへ転職ナビゲーション」そこには、過酷な労働環境から救われたという社員が掲載されていて、キャリアアップがどうとか、待遇の改善だとか、そんなことが書かれていた。そうだ。いくら会社から必要とされてないとはいえ、僕も立派な社会人なんだ。勝手に行事を抜け出してきたのだから、怒られるだろう。それか、下手したらこの広告の人みたいに、転職することになるかもしれない。もうアルコールは完全に抜けきっているというのに、昼間と同じ気持ちになった。知らない誰かが知らない場所まで僕を連れ去ってくれたら……と。「また、さっきから死相が見えてるわ」サリーが急にそう言った。僕は特に驚かなかったが、自分への呆れと虚無感から、笑いながらこう言った。「だろうな」すると、サリーはこんなことを言った。「私、実は……」自分でもはっきりと分かるくらい顔が引きつった。突然のカミングアウト。マイナスイメージの強いワード。場面と言葉のちぐはぐさ。傷心の僕を固まらせるだけの強いインパクトを与えるには十分だった。「だから……行かない?」その言葉を噛み締めるように長い沈黙が続いたように感じる。僕はまたしても、なんと言っていいのか分からなくなったからだった。ただ、足の向いた先は、駅とはまったく別の方向だった。


料金後払い式のホテルに着くなり、僕はシャワーを浴びた。出っ放しにしたシャワーが、身体に無数の刺激を与える。いくら汚れを落とそうと水圧を上げても、排水口へと流れていくのはただのお湯ばかり。僕の中に生えた、どす黒く疎ましい汚れは、これっぽっちも流れ落ちなかった。せめて……せめて、罪悪感か、僕の心の曇りを、この雨雲と一緒に消し去ってくれればいいのに。
考えを整理していくとだんだん虚しくなってきて、とうとう水圧をゼロにし、風呂場を後にした。

「サリーはそのままでいい」とにかく、もうなんでもよかった。これ以上、僕がなにかおかしなものに支配され続けることには、とても耐えられなかった。
高反発のベッドに座っていたりサリーを押し倒し、乱暴に服を脱がせた。彼女の口を塞ぐために口を遣い、彼女の手を抑えるために手を遣った。心に溜まった汚れが、憤怒の色をたたえたイチゴに詰まり、溢れ、遠慮の字がまったくと言っていいほど似合わない。「好きにして」どうなってもいいと覚悟したのか、女はそう言う。「ああ好きにするとも」僕は、シャワーで流れなかったどす黒い感情を女にぶつけた。何回も何回も、これでもかとぶつけた。そのたびに、女は自慢の魅惑に塗れ、僕は加速した。やがて、イチゴは決壊し、蜜とともにどす黒い感情の一部が流れ出した。洗ったはずの背中を雫で濡らしたまま、僕はベッドに大きく横たわる。罪悪感、虚無感、焦燥感。なにもなかった。それらはなにひとつとしてなかった。僕がなにをしたかったのか、なにを求めていたのか、どうすればよかったのか。なにも分からない。自分で自分のことが不思議になった。そんな僕に声をかけたサリーのことも、今さら不思議になって聞いた。「どうして僕なんかと?」こちらから聞いておきながら、内心は怖さがあった。心の片隅ほどしかないはずの恐怖で埋め尽くされていた。そんな僕の心境を知ってか知らずか、サリーが言った。「あなたが空っぽだったからよ」空っぽ。ポジティブな意味合いを持たせたつもりはないはずだし、僕も普段からそういった意味合いで受け取ることはない。だが、不思議と嫌な気持ちは無かったし、むしろその響きが心地よかった。「そうだ、僕は空っぽだ」意味もなく、オウム返しのように、呟いた。「でも」サリーは、ゆっくりと話し始めた。「空っぽでよかったのかもしれないわ」それから僕はただ、黙って聞いていた。「あなたが空っぽだったから死相が出ていた。だから、私はあなたを試したの」試した。サリーははっきりとそう言った。「あなたが落ちるか落ちないか、試したの。でも、結果はダメだったわ。あなたと私は一線を超えた。それでも、あなたはこちらへ来なかった。あなたはあまりにも空っぽだったから」僕の頭はもう冷めた。それなのに、僕の頭は言葉を言葉として捉えるだけで、その言葉がなにを意味するのかが理解出来なかった。「だから、運命が戸惑ってしまった。そこで私は、最後の最後で賭けをした」

彼女は、笑っているのか泣きそうなのか曖昧な顔をした。

「あなたはそれに乗った。でも、ダメだった。それもあなたの運命だったのかしら」
そこまで言うと、彼女は深呼吸をした。
息を吐き終えると、こちらを向き直して言った。

「実は、私は……みんなからこう呼ばれてるの」





大天使・サリエル。



それは、人を死へと誘うという死神の名前だった。

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