風神さん。

ぽんち

セイレーン編~0




 足は地についているが自重は感じない。
 景色は鮮明だが目の前の人の輪郭は溶けている。
 暑さも、寒さも、痛みも、匂いも、音も無い世界だが心の安らぎだけはある世界。

 矛盾を矛盾として認めながら、その矛盾は当然だと認める世界。


 そこで、彼は言った。輪郭が溶けるほどかたちが分からないはずなのに、彼は悲しそうな顔をしている事がわかった。
 悲しそうな顔をしていることを知っている。

 そこで、彼は言った。音が無いから聞こえないはずなのに、彼は優しい、優しい声色で言葉を紡いだ事がわかった。
 優しい声をしていることを知っている。


 これは経験だろうか?それとも予知だろうか?過去なのか?未来なのか?

 彼の話は何だったっけ?思い出せない、思い出せない。


「例えば、君の頬を撫ぜる風が吹いたとしよう」


 そうだ、そうだ。彼の話はあの時も聞いた。あの時も聞いた。

「君はその風にーーーー」

 そしていつもこうなんだ、風の音が邪魔して聞こえない。右から左へ叩きつけるような風、押し寄せるようなノイズ、全てをかき混ぜてしまって。


 夢から現実へと押し返すその風で、私は。







 今はいつだ?

 今は、カンナヅキという少女と名のないぼーやが出会う数週間程前の夜のこと。
 ここは、とある村にある泉。かつては人の足が運ばれることもあったそこは夜というせいもあり人気は無い。
 泉の前に立つ奇妙な女二人組を除いて。

 ひとりはくるくるとした茶髪を伸ばし、可愛らしいリボンで横髪のみを縛る姿はまるでツキビトのようだが彼女に緑の髪は見当たらない。そして瓶底のような分厚いグラスのメガネをかけ、白衣に身を包みながら下駄を履く、なんとも奇妙な格好をしていた。
 もうひとりの女は空色の髪を上でひとつに結い、さらしと短いパンツだけというなんとも軽装が過ぎる女。

 茶髪の女はそこで口を開く。

「セイレーン、居るのでしょう?」

 女の声は艶めかしく、上品なものであった。初めの数秒こそ何も変化が無かったものの、どこからか声が響き始めた。

「我の名を呼ぶ命知らずはだあれ?」

 くすくすという子供の声が響きながら、そう応えたのは低い男の声と女の声が同時に入り交じったような気味の悪いもので。

「あぁ、もうそういうノリは要らないわ、セイレーンの出来損ないさん。」

 茶髪の女は、セイレーンと呼んだ謎の声の質問にそう返答した。表情は見えないが、もしこの声の主の顔を見れるならばとても不快そうに、刻まれそうなほどに深いシワを寄せているだろうと予測出来るほどに、空気が一瞬にして凍りついた。

「呪い殺されたいの?」

 気味悪い声は殺意が乗り、さらに気味悪くなる。全身を舐め回すような声に悪寒が走るだろう。が、女は二人ともそんな様子は無く。

「やれるものならやってみなさい?でもね、私の話を聞いてからにしたほうがいいわよ」

 余裕の笑みをにやにやと浮かべるその姿はやけに説得力がある。声だけのセイレーンもその態度を不思議に思ってか、あるいは何もする力がないのか、異変は何も起きない。

「えぇ、実に賢い判断だわ、心して聞きなさい?あなた、今…肉体が必要でしょう?」

 それは、セイレーンにとって今最も欲するものを的確に指摘された質問だった。

「だからね、私たちに協力しなさい。そしたらあなたに肉体を与えましょう」

 とても、とても甘い提案。セイレーンは沈黙する。迷っているのだろうか、だが致し方ない。セイレーンにとってその提案は蜜のように甘い誘惑を香らせるもの。
 そんなうまい話がそうそう幸運を運ぶはずがなく。

 セイレーンが自身の沈黙を破ったのは声ではなく、泉から予兆もなく突然現れた可視化された五線譜。
 それはまるで意思を持っているかのように茶髪の女の喉元目掛けて空気を切り裂きながら伸びる。

 肉を裂く音が奏でられる。

 五線譜が傷をつけたのは茶髪の女ではなく、空色の髪の女。彼女は茶髪の女を目掛けるそれから守るために、身を挺して。否、腕を挺して護った。
 空色の髪の女の左腕は赤い血を滴らせると、傷口が黒く、腐るように黒変してゆく。

「あは、すごいすごい!みてサツキちゃん、色がかわってるよ!」

 茶髪の女をサツキと呼んだ空色の髪の女は自分の状況を理解しているからこそ・・・・・・・・・・笑顔を浮かべ高揚している。

「キサラギ?守れとは言ってないはずだけど」

 空色の髪の女をキサラギと呼んだサツキは先程までの余裕の笑みから一変、酷く冷たいアメジストのような瞳でキサラギを睨みつける。彼女の手には試験管が握られており、それは使われることなくサツキの白衣の内側に仕舞われる。
 サツキに睨まれたキサラギはというと、母に叱られた子供のように肩を項垂れさせて「ごめんなさい」と言って五線譜を左腕で力任せに振り払うと一歩下がる。

「で?セイレーン?交渉は決裂かしら?」

 明らかなセイレーンからの攻撃をうけて、まだ沈黙をするその怪物にサツキは話しかける。

「いいえ、乗るわ、その提案に。これはほんの挨拶。もし私を騙すようなことをしたらこんな事ではすまさないって。貴女たちなんていつでも殺せるの。…振る舞いに気をつけるのよ」

 サツキは少しつまらなさそうに鼻をならすが、交渉が成立したのならそれでいいとそれ以上は何も言わなかった。

「まずはここから出てもらわないとね」


 紫の、不穏を孕んだ魔素がサツキの周りに現れる。それは、彼女が魔法を展開させる前兆。









 朝。窓から差し込む光に、ゆっくりと意識が現実へと引き戻される。柔らかなベッドに身を沈めた女、カンナヅキは夢を見たいた。
 まだ朧気な意識の中で、とても幸せな何かを体感していた繭に包まれたような高揚感だけが残っていたがらすぐにあれは夢だったのだと朝の冷たい空気が彼女に告げる。

 何度も見る、夢。

 また見たのか、なんて考えながら寝返りをうち掛け布団を強く抱きしめる。

 カンナヅキは天使の誘惑ハニーエンジェルに加入してすぐ、ここのギルド寮に入ることにした。本館とは渡り廊下と繋がっており西は女子寮、東は男子寮となっている。賃貸料はとても安いにも関わらず、カンナヅキが突然借りることを決めた部屋でも備え付けのベッドやデスクには埃ひとつ見当たらなかった。
 彼女はこれほど柔らかく暖かなベッドで眠ったことがあるだろうか、と喜びのままに体を預け朝を迎えてしまって現在に至る。

「おはよう」

 誰も居ない部屋で、誰に言うわけでもなく、カンナヅキは呟くようにそう言った。たたき起こされずに自分の起きたい時間に起きて、起きてからもだらだらと布団の中で過ごす事はカンナヅキにとってはとても珍しいものであった。
 それは五年間の奴隷生活苦痛の日々から抜け出せたことを彼女に実感させる。

「おはよ、おねえさん!」

 誰に向かって言ったんだろう、とカンナヅキが自分で自分の朝の挨拶にくすりと笑おうとしたとき彼女の背後から声が返ってくる。

 慌てて身を起こして声の方を見れば、カンナヅキがぼーやと呼ぶ名の無い少年。ぼーやの大きな亜麻色の瞳に寝起きで驚く彼女をうつす。

「なんでここに居るの!?」

 ここは女子寮。それ以前に十八歳の女のプライベートな空間。そういった事は一切考えてなさそうとはいえ、やはり寝ている間に無断で入室していいものではない。カンナヅキはただただ驚いているとぼーやは何故そこまで驚くのか分からないといった表情を浮かべ、首まで傾げてみせる。しばらく不思議そうにしていたがぼーやはすぐに「あ」と声を上げると背中に背負ったリュックを下ろし、中を肩まで入れて探る。
 カンナヅキがどう叱ろうかと悩んでいるとぼーやは目当てのものをリュックから引きずり出す。

「おねえさん、これ!ギルドの加入祝い!」

 とてもぼーやの背負っていたリュックには収まりきらなさそうなプレゼントBOXが、目の前に差し出された。物で誤魔化そうとしているのか、とじとりと睨みながらも小さくお礼を言ってBOXにラッピングされたリボンに指をかける。
 すると、リボンは触れただけでひとりでに解けてゆき、丁寧に包んでいたラッピング用紙も時を戻すかのように一枚の紙に戻る。そうして現れた箱のふたを開けると。

「わあ…!」

 先程まで自室に不法侵入されたことで不機嫌さを顕にしていた彼女が思わずそう言葉を漏らしてしまうほどの、綺麗な綺麗なティーセットが入っていた。

「気に入ってくれた??」

 カンナヅキのその反応に確かな手応えを感じたぼーやは瞳を輝かせてそう尋ねる。カンナヅキもうんうんと何度も首を縦にふると、おそるおそる壊れないようにティーセットを取り出した。
 それは陶器で作られており、手触りはとても滑らかでポットもティーカップも取っ手と指がしっかりと馴染む。柄は可愛らしく、それでいて控えめな花が上品にあしらわれている。
 なんて素敵なのだろう。

「僕ね、紅茶がすっごく好きなんだけど、おねえさんにも好きになって欲しくて」

 こんなものを贈られてしまったら好きになる以外の未来はありえないと思えてしまうほどに、カンナヅキにとってそのティーセットは心を動かした。彼女はもう一度ぼーやにお礼を言う。BOXの中を除けばアップルティーとダージリンティー、アールグレイティーの茶葉が缶にそれぞれ詰められたものまで入っており、なんといういたせりつくせり。

「じゃあ早速これで紅茶を淹れてみてもいいかしら!」

 せっかくなので初めてはぼーやの前で使おう、という思いと早くこのティーセットを使って飲んで見たくて仕方がなかったカンナヅキはそう提案すると、二人でキッチンに向かいぼーやに紅茶の淹れ方を教えて貰った。


 無断で入室したことなどすっかり忘れ、カンナヅキは上機嫌で、ぼーやも勿論上機嫌で。朝のティータイムを共に過ごした。





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