空っぽの体験

ノベルバユーザー120446

1

伊藤康生は役者であった。駆け出しの頃にエキストラとして時代劇に参加して以降ある時は刑事になりある時は医者になりある時は政治家にもなった。康生は演じる都度に自分が新しい人間になったのだと感じていた。ありとあらゆる事を知り尽くしていると思っていたのだ。
だが10年前に冤罪で一気にイメージダウンした。それ以降この中年をやめようとしていた男は妻と娘の居る家に引きこもっていた。それまで散々威張ってきたもんだから、
「なんだこのコーヒー。バカに薄いな」と言えば「内にはわざわざニートにお豆を買う金はありませんからね」と返されるもんだから康生は部屋で自分の出演している映画やドラマ、果てには声だけ出演したアニメを貪りつくように観るのが日常となった。
そんな観る以外の生活を送っていた康生の元に来客が訪れた。
見れば大学生くらいの青年である。部屋を借りたいという。食いぶちがない康生にとっては願ってもない話なので了承した。男は荷物を取りに帰った。康生よりも嬉しいのは妻の敬子だ。家計が助かるのは当然として下宿する事になった青年が美男子であったのが大きな理由である。
「あんたテレビ出てた頃からただの中年だもの。一回もあんなに綺麗な子連れてこなかったじゃない」時代劇に出ても時代劇にしかいない侍を演じ続けた康生はこのように言われた。「そういえばあの子なんてゆうのかしら」
青年は何を手間どったのか翌朝にトラックと一緒にインターホンを押してきた。康生は大荷物を運送業者と一緒に運ぶことになった。敬子は康生がこの家では見たことのない △□(部屋に飾るのであろう)を持って青年に一方的に話しかけている。青年が少し困っているようなので康生は敬子に荷物運びが終わった後のお茶の支度をしろと追っ払った。「すいません」と青年に言われた。
「別に気にしなくていいよ。あれはキミに旦那である私より好いているようだから」
青年はそれを聞いてバツが悪そうに笑った
青年は部屋に戻るために階段に向かって康生の方を向いて「そういえば康生さんにはまだ名前言ってませんでしたね。俺草間悠生っていいます」そういって階段を降りていった。引っ越しが終わった頃にはお茶の時間はとうに過ぎていた。康生が部屋に戻ろうとすると忙しそうに歩く敬子とすれ違い「お茶する時間なんてないじゃない」と言われた。

コメント

コメントを書く

「その他」の人気作品

書籍化作品