クロノスの森

九九 零

3話「マリューの森」




「ここが…マリューの森…」

右を見ても、左を見ても、地平線の先まで永遠に続くように思える広大な森。
初めて実際にその目で見るミリアにとってみれば、今にも全てを覆い尽くしてしまいそうな巨大な森の生き物にも見えてきます。

しかし、マリューの森の木々は、まるで何かで線引きをしているかのように彼女達の立つ草原には木の枝はおろか、木の根すら生やしていません。

「初めて見たって顔だな」

「は、はい……」

マリューの森の壮大さは圧巻の一言に尽きます。ミリアは息を呑んで、初めて見るマリューの森を見つめます。

それを横目で見ていたリールットはニヤリと悪い笑みを浮かべました。

「マリューの森にはな、そう言う名前になった由来があるんだぜ。知ってるか?」

「い、いえ…」

「フッ。…マリューの森のマリュー。これは、邪竜を指してんだ。何代か前の勇者が、ここに邪神の使いのドラゴンを命と引き換えに封印したって言う言い伝えがあってな、そこから来たって話だぞ」

「え……」

話を聞いて、ミリアは顔を蒼褪めさせました。
どうやら、怖い話が苦手のようです。

そんな彼女にリールットはトドメの一撃を刺しました。

「噂じゃ、ここの中心じゃ封印された邪竜と死んだはずの勇者が戦い続けてるとか、勇者の亡霊が出るとか、ここで死んだ冒険者が邪竜の魔力で悪霊になって彷徨ってるとか、色々な噂があるらしいぞ」

「……行くの、やめません?」

「ハハハッ!大丈夫だって!オレは見た事ねぇからなっ!」

高笑いしながらリールットはマリューの森へとズカズカと入って行きます。その後を、ミリアは置いてかれまいと慌てて追いかけ始めます。

「全然説得になっていませんよっ!」

そう言いながらーー。


ーーー


白い長髪を体毛のように靡かせ、獣は駆ける。

新たな獲物を見つけた喜びが獰猛な笑みとなり、歓喜の遠吠えを上げながら四肢を駆使して駆ける。

時には木々を利用し、時には湖の上を飛ぶ様に駆け、時には何も気付いていない魔物をジャンプ台として周囲を見渡せる高さまで跳び上がり、着地と同時に方向転換を繰り返して駆けて行きます。

その速さは何者も追随を許さない。
その動きは何者も聴き取る事を許さない。
その身軽さは何者も気付く事を許さない。
その瞳に捉われた獲物は何者も逃れる事は許されない。

彼はマリューの森の獣。
血と肉に飢えた獣。

獰猛で狡猾で残忍な野生の獣。


ーーー


マリューの森に入ったミリアとリールットは、歩きながら話をしていました。

「んじゃあ、適当に近くの木に傷付けて樹液の採取と、その辺の雑草を採取しながら歩くぞ」

「はい!」

指示を受けてすぐに動き始めるミリア。その姿勢は良いのですが、両手一杯に集めた雑草の数を見て、リールットは少し張り切り過ぎだと感じました。

「先に言っとくが、そんなに要らねぇぞ?適当に距離を開けた所で瓶3本分の樹液と、帰るまでに数本の雑草を集めたら良いからな?」

「はい!」

手に持っていた雑草を一本を残して全て捨て、木の樹液を採取し始めるミリア。

元気なのは良い事なのですが、リールットからしてみれば、初っ端から張り切り過ぎて後に体力が切れてしまう事を心配に思えてきます。

それから、一時間程。

マリューの森を歩き回っていたミリア達は、とある一つの不自然な魔物の死体の前で足を止めました。

「ちょっと待て。そこから動くなよ」

ミリアはその死体を見ても何も思いませんでしたが、リールットはすぐに勘付いて周囲を警戒。死体を確認し始めます。

それは、一匹の熊型の魔物。
子熊です。

四肢の一本一本に蔦を巻き付けられ、周囲の木々に絡め、動けないように拘束してから首元を鋭い刃物で斬り裂かれて息絶えています。

明らかに人の手が加わった跡があります。

しかし、これを冒険者がしたとなると不自然な話。冒険者ならば、こんな回りくどい方法で魔物の討伐を行いません。

それに、倒した獲物をこの場に放置してどこかへ向かうなど有り得ないのです。

魔物の体は、肉や骨。体内に含まれる魔石と呼ばれる物まで、ほぼ全てに利用価値があり、持ち帰ると其れ相応の値段で売れるのです。

そんな代物を放置する。

余りにも異様な光景に、リールットは冒険者の勘で、この場に居るのは危険だと判断し、撤退を口にしようとして振り返りました。

「んなっ!?」

次の瞬間ーーリールットは驚愕に目を見開きながらミリアを強引に手前へと引っ張ると、彼女の口を塞ぎ、素早く近くの草むらに体を隠しました。

「ーーむぐっ!?」

突然引っ張られたミリアは何が何だか分からず、混乱を露わにしつつも、視線で何事かとリールットに訴えかけます。
しかし、リールットは、そんな彼女の視線を気にしている余裕はありませんでした。

それは、彼女の視界に映った巨大な影が彼女の手に負えないほどに強力な魔物だったからです。

「バーサク・ベアー…なんでここに…」

マリューの森、中層に棲息する魔物。

中層の中でも上位に君臨する最も凶暴で、手の付けようがない程に凶悪な魔物がそこには居たのです。

木々の隙間を介して見えた一瞬だけですが、それは間違いなくバーサク・ベアーそのもの。

決して表層に出現してはならない魔物だったのです。

運良く、森の中と言う事で視界が悪く、彼女達はバーサク・ベアーに見つかる事はありませんでしたが、しかし、その姿を一瞬とは言え見えてしまったリールットは気付きました。

「…ま、まさかっ…!?」

背後の木々によって宙吊りにされている子熊がバーサク・ベアーの子供だと言う事に。

「や、ヤベェ…。今すぐ逃げんぞっ!」

「むぐっ!?むくぐっ!」

ミリアは何かを訴えかけようとしていますが、口を塞がれたままで声が出ません。

そんな彼女をリールットは片手で軽々と持ち上げ、その場から即座に撤退を開始し始めようと一歩足を踏み出しーー足を止めました。

彼女が向かおうとした先。そこには、別のバーサク・ベアーが待ち構えていたのです。

「嘘だろ…おい…」

「グルルルッ!!」

既に見つかっており、リールットの背後にはバーサク・ベアーの子供だと思わしき子熊。
逃げる事は叶わない。そう悟ったリールットの行動は早かった。

ミリアを背後に放り投げると、即座に大斧を手に取って構えました。

しかし、バーサク・ベアーの強さは上級冒険者パーティーでギリギリ倒せると言われる程です。

中堅冒険者のリールットでは倒せる筈もありません。

「逃げろっ!」

それを知っているからこそ、リールットは背後のミリアに声を飛ばしました。

「リ、リールットさんは!?」

「オレは後から追い付く!だから、早く逃げろ!」

「…わ、分かりました!」

ミリア自身も怯えで足が震えているにめ関わらず、リールットの心配をしました。

しかし、相手はバーサク・ベアー。たった一体ですらリールット一人では太刀打ち出来ない魔物。

そんな魔物を相手にするのですから、冒険者に成り立てのミリアは足手纏いになってしまいます。
その為、ミリアは指示に従うしか術はありません。

ですが、声を掛ける事ぐらいは出来ます。

「必ず!必ず追い付いて下さい!」

そんな言葉を残して、ミリアは指示に従って逃げました。

「言われなくても分かってるよ…」

ミリアが立ち去るのを横目で見届けてボソリと呟くと、覚悟を決めて真っ直ぐに眼前の敵を睨みつけ、斧を強く握り締めーー踏み出そうとした足を止めました。

「ーーキャッ!?」

冒険者とは、死と隣り合わせの職業。

ほんの些細な偶然で死んでしまうこともあれば、ほんの僅かな判断ミスで死ぬことだってあります。

そして、今回は、ほんの僅かな偶然とミスによって起きてしまった事。

日常茶飯事な行動であり、冒険者として情けないミス。

背後から聞こえたミリアの叫び声に反応してしまい、咄嗟に振り返ってしまったリールット。

そんな隙だらけの背中に、バーサク・ベアーの威嚇攻撃であった袈裟斬りの爪がリールットの背を深々と抉りました。

致命傷となる傷を背に受けたリールットは自分の失態に内心で悪態を吐きながら地面に仰向けでバタリと倒れてしまいました。

今、この現状で彼女に待つ運命はーー死。

「リ、リールットさん…っ!」

それは、逃げた先で出くわしてしまったバーサク・ベアーの剛腕によって弾き飛ばされ、戻って来てしまったミリアも同じ。

ただただ目の前の魔物が怖く、恐ろしく、殴られた箇所に激しい痛みを覚え、腰を抜かせて立ち上がる事すら出来ない状況。

「に、逃げろ…ミリア…」

前面にバーサク・ベアー。背面にもバーサク・ベアー。
重傷を負ったリールットと非力なミリアの二人にここから逃れる術はありません。

それを分かっていながらも、リールットはミリアを逃がそうと命の灯火を激しく燃やします。

「…逃げろぉぉぉ!!」

今にも崩れ落ちそうな両足に喝を入れて立ち上がると、大斧を力強く横に大きく振ってミリアの背後にいるバーサク・ベアーに攻撃を仕掛けます。

しかし、その一撃はバーサク・ベアーの片腕で軽く受け止められてしまいました。

刃は確かにバーサク・ベアーに当たってはいますが、その毛は分厚く、肉ところか、皮膚皮一枚裂く事すらできなかったのです。

ですが、それでもバーサク・ベアーの動きを止めるには十分でした。

リールットが命懸けで作った逃走ルート。ここで逃げ出さなければ、本当にミリアは助からないでしょう。

「何してんだっ!早く逃げろっ!!」

なのにも関わらず、ミリアは逃げ出そうとしませんでした。

「…っ!」

いえ、逃げ出せなかったのです。

立ち上がろうとしましたが、足腰が言う事を聴かず、立てないのです。

一度恐怖を体に刻み込まれてしまったミリアの身体は、産まれたての子鹿のように震え、立つ事も、逃げる事も出来なくなってしまっていました。

「チクショォッ!!」

なんとしてでもミリアだけでも逃がそうとリールットは奮闘しますが、バーサク・ベアーの力には及ばず、逆に振るわれた剛腕の攻撃に耐えるだけで精一杯。

しかも、背中の大量の出血の所為で眩暈を起こし、立っているのもやっとの状態になりつつあります。

「グラァッ!」

そんなリールットを背後からもう一頭のバーサク・ベアーが無慈悲に攻撃を与えました。

「ーーガッ!?」

それは、ただ横薙ぎに腕を振るっただけに過ぎない攻撃。
しかし、今のリールットには非常に手痛い攻撃になりました。

そのたった一発の攻撃で、リールットの脇腹の骨は幾つか砕かれ、近くの大木に強く打ち付けられてしまいました。

「リ、リールット…さん…」

彼女は、もう立つ事すら出来ません。

視界が歪み、爪先から感覚が失われて行く。背中からは生温かい液体が絶え間なく吐き出され、痛みと悔しさが混じった涙をホロリと溢します。

「グルルルルッ」
「ガルルルルッ」

リールットが戦闘不能と見るや否や、バーサク・ベアー達の次の標的がミリアに切り替わりました。

「あ…あ、あ…。リ、リールットさん…」

ミリアからすれば、バーサク・ベアーは逆立ちしても勝てない相手です。
どう足掻いても勝つ術はなく、逃げる術もない。

そして、今の彼女の現状からして、何をする事も出来ません。

極度の怯えによって身体が言う事を聴かず、立つ事も、歩く事も出来ない。息をする事すら難しく感じ、呼吸が定まりません。

ただ、必死に両足をもがかせ、後退りしながらリールットの元へ後退する事しか出来ないのです。

「に…逃げろって…言っただろうがよ…」

「あ…ああ…」

逃げる事も戦う事も出来ない二人に待つ未来はーー死。

無力な者は狩られ、力ある者は喰らう。
これが、弱肉強食の世界。
これこそが、マリューの森に存在するたった一つのルール。

「だ、誰か…たすけて…」

小さくか細い声で呟いた言葉は、誰の耳にも届く事なくバーサク・ベアーの唸り声によって掻き消されました。

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