囚人

しのじい

囚人

 私は夢を見ていた。

 私は自分の携帯端末を自分の膝ほどの高さの四つの脚のついた正方形の台にスポーツタオルと共に置いていた。

 不意に端末が台から滑っていった。
私は端末が落ちないように手を伸ばした。
が、しかし端末は私の予想を遥かに上回る速さで滑り落ちていった。
 私は焦った。
なぜなら、私は今プールに居て、このまま端末が落下すればプールに落ちてしまうのに気づいたからだ。
手を伸ばす速度を上げた。すると、端末の真下に掌を置くことができた。これで端末が落ちてくるのを待つだけだった。端末は私の掌に触れた。指を折り、掴もうとした。しかし、指を折り始めるのが早すぎた。端末が完全に掌に収まる前に指を折り始めてしまったがために中指の先が端末の背面に当たった。
端末は指に当たった衝撃で掌の上で跳ね、再び宙に浮いた。
 私は焦りはしなかった。また先程と同じ事を繰り返せばいいだけなのだから。
 しかし、私は掴み取る事が出来なかった。
 そう、私は完全にミスを犯したのだ。
 端末はそのまま、吸い込まれるように落ちていった。
 不思議な事に私の手は神経が切れたように全く動かなかった。いや、動かさなかった、と言うべきか。
 私は諦めていた。
 端末が落ちて、水没するという事は既に決定された事であり、変えようがないことだと思ったからだ。
 その事実に抗うことが、途轍もなく惨めに思えてきた。
 心の底から笑いが湧き上がってくるようだった。
 目前には、この世の物理法則、つまり、重力に逆らうこともなく、力なく落下していく端末があった。
 この光景も悪くない、そう感じていた。
 落下している自分の携帯端末をただひたすら水没していくのを待つ光景、そして気持ちを。
 これ程までに清々しい事はないのかもしれない、そうも感じていた。

 不意に私の中から、突如として二つの思考が現れた。
 一つ目は、納得できるのか?というものだった。
 私はその端末を使い始めて一年が経つ、そこそこの時を共にしてきたものだ。少しだが、情が移り始めていた。
 それと私は、幾度となくスマホゲームに課金してきたのだった。費やした時間と金が一瞬にしてデジタルのデータにすらなくなってしまい、私の記憶の中でしか残らなくなってしまう。
 そんなことを考えていた。
 それでもいいのか?
 私は自問自答を繰り返した。
 答えは一つだった。
 納得などできるはずがない。
 私がプールに落下していく自分の端末を諦めたとしたら、そのことをもう一度思い出したとしたら、本当に悔やんでしまわないのか。
 答えはノーだった。
 私は必ず悔むだろう。そして、今、この時に戻れないかと、嘆き、苦しむ筈だ。
 二つ目は、私は、端末など持っていないのではないか、というものだった。
 私はそもそも端末など持っていないのかもしれない。そして今、落下しているものは自らがプールに落とした木の葉なのかもしれない。
 だから、受け止める必要など無いのかもしれない。
 端的に言えば、自己欺瞞に陥っている、のだった。
 二つの相反する考えが交錯した時、私はこの世の全てを凌駕したように思えた。
 それは、政治的権力とか、そんな下らないものではなく、この世の全てに関わりを持ちながらも空気のように、直接視覚を刺激することのできないが、この上なくはっきりとしたもの。
 そう、「時間」だった。
 私は時間を凌駕し、支配した。だから、端末が落下するまでの間、つまり今の一瞬がこのように永遠のような時間に思えるのだ。
 私は時間を支配している。故に、神に等しき存在なのだ。
 もう、何も恐れる必要など無い。いつでもやり直すこどかできるし、飛ばしてしまうことができるからだ。
 私は、腕を伸ばして端末を取ろうとした、しかし、腕が動かなかった。私は確かに、腕を動かそうという明確な意思を持って動作を行おうとしたのに。
 何故だ?私はそう思った。
 体だけが動かなかった。
 意識だけが先行して動いていた。
 体と意識の乖離。
 そんな筈はない。私は思った。私は気づいた、体という物体を持つものの時間を止めていたのだ。
 弘法にも筆の誤り、か。私は笑った。
 時間を再び動かそうとした。しかし、何も変化がない。
 何故だ、何故だ、何故だ!
 私は神なのだ。神が何故時間を支配できない!
 私は焦っていた。おかしい、何かがおかしい。
 私はある一つの可能性に辿り着いた。
 それは、私の思考を、存在を根本から否定するものだった。
 怖かった。考えたくもなかった。
 体と意識の乖離。即ちそれは、時間の檻に、時間に囚われたことを意味していた。

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