初めての恋

神寺雅文

告白の先に見えたあの日の約束26

 そんなこんなで時計の短針が六時を過ぎて七時に差し掛かる時刻、手遊びのレパートリーが三つに増えたところで、春香が眼鏡を外し指差し棒を手のひらサイズに縮めると一息ついた。
「今日はここまで。お疲れさまでした」「あ、もうこんな時間か! あまりにも楽しくて時間が経つのも忘れてた」
 名残惜しいが今日はここまでの様だ。春香がリビングに設置されたピアノの蓋を締め後片付けを始める。それに習って僕も絵本やら手遊びがたくさん載った雑誌を一か所に集めることにした。
「初日から頑張りすぎたね。でも、やっぱりみやちゃんといると楽しくてついつい時間が経つのを忘れちゃう。浮かれ過ぎかな私?」「そんなことない! 僕だって春香とこうして一緒に居られてすごく楽しい。なんて言うかすごい落ち着くし、もっと一緒にいたいって思ってる」
 見慣れないリビング、嗅ぎなれない芳香剤の匂い、どこに所在を確保していいか分からない雰囲気――初めて訪れた場所、それにも拘らず、緊張することなく自分らしく振舞えたのは、やっぱり相手が春香だからだろう。
 今僕はこうして春香と二人だけで春香のテリトリーでひと時を過ごせ、しかもお互いが有意義な時間を過ごせたと実感している。普通、初めて二人だけでお互いのどちらかの実家で長時間過ごすことになったら、変な緊張感があると思うんだ。ましてや、異性の実家だ。
「お父さんとお母さん遅いね? まだ帰ってこないの? あれだよね、こんな時間に男が居たら不審がるでしょさすがに」
 特に父親ってのは同性の僕からしてみれば一番出くわしたくない人物だ。ましてや、好きな女の子の父親だ。一歩間違えて悪い印象を与えてしまったらこの先が思いやられる。それだけは避けたいから、今日はこのまま会わないで帰りたい。
「そんなことない。みやちゃんならお父さんも大歓迎だよ。でも、まだ帰ってこないと思うよ……毎日遅いから……」
 語尾に力が無くなり春香の表情に哀愁の様なものが漂う。
「どうかしたの春香?」「え、なんでもないよ! さあ、もう遅いし片付けよう? 明日もあることだし」「明日も来ていいの?」「もちろん! 二人で素敵な先生になろうね」
 今日だけじゃない。それだけ聞けて一安心。名残惜しいが今日はこのまま帰るとしよう。春香のお母さんに会えないことは残念だけど、また次の機会にでも挨拶しよう。そもそも、保育園で会えると思うし、その時までに挨拶の文言でも考えておくかどうせ緊張して噛むと思うけど。
「さて、じゃあ帰るよ」
 雑誌や絵本を所定の棚に戻し鞄を持ってリビングの扉に手を掛ける――、と春香に呼び止められた。
「ねえみやちゃん、どうして私のこと選んでくれたの?」
 そう質問されたので振り替えると春香の表情は今までにないくらい元気がなくて、溶けかけた雪だるまの様な儚さを感じた。そのままの表情でぽつりぽつりと小さな声で言葉を紡ぐ。

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