ちいさな世界で、僕は

ういまる。

第1話 『翼を失くした天使 Ⅰ 』

 
[2014.05.17]


『……あ!時紋君だー』

 突然かけられた声に僕は振り向いた。
 …否、正確には〝突然〟ではないか。一応、彼女がこちらに来るのはわかっていた。ただ、少し面倒だったから避けようとしただけだ。

『ちょっと、時紋くーん?時紋灯くーん??』

『……』

  僕は前を向いた。無視。歩調を早める。
 彼女は足が遅いから、これで諦めるはずだ。
 …いやあ、今日もいい天気────

 …と、そこまで考えた時、ふわり、とすぐ側で風がそよいだ。制汗剤のレモンの香り。ぐっ、っと腕を引かれ、僕はバランスを崩す。
 腕を引いた彼女は満足気に笑うと僕の耳に口許を寄せて。

『…灯くーん!!聞こえてますかーっ!!』

『…っ!?』

 …叫んだ。この人、耳元で叫んだ。きゅうっと身が竦んで鳥肌が立つのを感じる。うるさい。
 全力の抗議と呆れを込めて犯人を見れば、彼女はくすくすと擽ったそうに笑った。

『…うるさいなぁ…、そんな大声出さなくても普通に聞こえてるから…』

『ふふ、だって時紋君が返事してくれないから』

『だからって…』


 …さて、流石にそろそろ気になっているだろうから、彼女の説明をしようか。
 この傍迷惑な人は晴風ゆりめ。
 深窓の令嬢という表現がいっそ残念になるくらい似合う整った鼻目立ち。綺麗な黒の髪を二つに分けてふんわりと巻き、更に黄色のリボンでくくった少々特徴的で幼さのある髪型は、本人もよく似合うとわかっているのだろう、去年出会った時から全く変わっていない。…年齢的に19歳は少女と呼べるか微妙だが、美少女と言っても全く問題が無さそうな可愛らしい女性だ。
 性格も優しく朗らかで人当たりが良く、頼まれごとを断れないお人好し。大学ではよく、彼女は負の感情なんて無い、天使のような人間なのだ、なんてまことしなやかに噂されているが、お人好しとか、かわいいとか、そういう点においてはあながち間違っていないんじゃないかと僕は思っている。
しかも僕達、つまり去年入学した2年次の中で主席だ。
 さらに、足は遅いけれど運動自体は得意で、本人曰く〝走らない競技なら無敵〟なんだとか。

 …まるで絵に描いたような、非の打ち所のない完璧人間。結局のところ、彼女をできるだけわかりやすく表現するならそんな所か。正直盛りすぎだ。この世界に神様なんてものが存在するのなら、彼は彼女を余程気に入ったのだろう。恋なんじゃないかってくらいに。

 そんな彼女がどうして僕みたいに中途半端な人間と親しくしているのかと聞かれるとそれは少し返答に困ってしまうのだけど、とりあえず、僕と彼女は去年からそれなりに親しくしていた。
 ついでに、僕は彼女と同じサークルに所属している。
 …まあ、それは僕が彼女に引きずられたのだが。
 
『えへへ、ごめんなさーい! …で、それでね?』

『謝る気ないよな、それ』

『ごめんごめん、でね?』

『雑になってるからな?』

『ふふ、…それでね?』

『遂に謝罪が消えた…!?』

 もういいよ、とぼやく。くすくすとひとしきり笑って満足したらしいゆりめは、僕の肩を掴んだ。
 ……ぎりぎり、と。嫌な音がする。

『いやいやいや、痛いから!?』

『…時紋君、サークル来ないの?』

『ぐっ』

『……今日も来てくれないの…?』

 しょぼん、と悲しそうな表情を浮かべるゆりめは、僕も思わずはっとするくらいには可愛いし、儚げだ。
 ……まあ、それがこんな理不尽な強さで僕の肩を掴んでいなければ、だけど。それにしても痛い。これ、掴むというか握られている気さえするんだけど…。

『………。だってさ、全員行かなきゃいけないようなことなんて…』

『…………そっかぁ…残念だな…私、時紋君が来るの、いつも楽しみにしてたんだけどな…』

 うる、と涙目になっての上目遣い。
 …あざとい。これが主席の力か。違うだろうけど。
  しかし僕には効かない。僕はこんなの普段から見慣れてるし。いくら力が強くなっていったとしてもあんな変人の巣窟なんかには……。

『残念だな…ほんとに来ないの?時紋君…?』

『…………イキマス』

 …別にあざとさに屈した訳では無い。
ただ、これ以上続けたら肩が無くなる。痛いわ。


 …やっぱり、ゆりめを天使だと形容できるのは容姿とお人好しくらいか、なんてぼんやりと思いながら僕はゆりめと共に踵を返し、サークル棟の方へと歩みを進めるのだった。



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