海の声

漆湯講義

2.離郷

「誠司、早くしなさい! いつまでもたらたらしてないのっ! もう予定の時間とっくに過ぎてるんだから!」

 母さんのキリキリとした怒鳴り声が玄関から空っぽになった蒸し暑い家の中に響く。
 ……親の都合で住み慣れたこの家を出る子供の気持ちを考えろっての。なんて事は口には出さずに、「わかったよ、すぐ行くよ」と言うだけ言って、すぐに玄関には向かわずに自分の部屋へと足を進めた。そしてクローゼットの扉の裏側、誰にも見つからない所へと隠し持っていたペンで"セイジ"と書き遺した。この部屋が他の"誰か"の部屋になっても、元は自分の部屋だという証拠として怨念を込めて。
 儀式を終えた俺が玄関へ行くと、母さんと不動産屋のお兄さんがドアを開けたまま何やら談笑していた。如何にも"俺待ち"な状況になんだかむず痒い感じがして、敢えて何も言わずに二人の前をすっと通り過ぎると、すぐに俺の背後へと母さんの声が叩きつけられた。

「アンタ! お待たせしたんだからごめんなさいくらい言いなさい」

 だけどここで言われるがまま謝るのはなんだか親の思い通りになってしまう気がして、俺は振り返ると何も言わずに軽く会釈だけして外に出た。

「っもう、あの子ったら……、すいませんね。反抗期なのかしら、まったく」

 また母さんの小言が背中に投げつけられて俺は聞こえないくらい小さく舌打ちをした。
 溜息を吐きたくなる程に陽射しが強い。俺は小走りにアパートの前に停められた車へと向かった。
 車に乗り込むとクーラーに冷やされた空気がすぅーっと鼻から滑り込んで肺を満たす。夏のエアコンほど心地良いものは無い。
 すると、既に運転席へと座り車載のナビを操作していた父さんが申し訳なさそうに口を開く。
「この家と今日でさよならなんて、なんだか寂しいよなぁ。父さんの仕事の都合なんかで急にこんなことになっちゃって悪かったな」
 俺は「いいよ。別に気にしてないし」と愛想の無い返事をしてから後部座席へと横になった。俺だってもう子供じゃないんだからそんくらい分かってる。"オトナのジジョウ"ってやつだろ? 知ってるよそんくらい。
 車の外から聞こえる蝉の声に不釣り合いなナビの操作音が重なる。すると目的地セット完了の音声と共に車のドアが開き、あからさまに怪訝そうな表情を浮かべた母さんが助手席へと乗り込んできた。
「誠司、さっきなんでちゃんと謝らなかったの? アンタ反抗期なの? それとも思春期? お父さんも誠司にちゃんと言ってよね! 知り合いじゃないから良いものをもしこれが……」
 ったく、うるさいなぁ……。俺に聞くなよ。反抗期とか思春期とか、自分じゃよく分かんねぇし。
 そんな終わることのない母さんの小言をバックミュージックに、俺達を乗せた車はゆっくりと"俺の家"から遠ざかっていった。


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