【旧版】諦めていた人生の続きで私は幸せを掴む
79話:正面衝突
その連絡が入ってきたのは、相変わらず書類と向き合っていた昼下がり、アマリリスの肉体が回復した三日後のことだった。
『アイカ様っ』
突然、私に魔力の流れを通じてナツミが話しかけてきた。
その声の様子から、ただ事ではないことを理解した私は、魔法陣を描いて彼女の声を部屋全体に聞こえるようにする。
『精霊界の南で戦闘が始まりましたわ』
ついにか、という感じだ。
数日前から、偵察に現れる悪魔がいたとの報告は何度もあった。いつ始まってもおかしくない状況で、予想よりも少し早かったものの想定通りではある。
後ろで、ヴィンセントとライル、アレックスが小さく息を呑んだ。ユークライとラインハルトは落ち着いて耳を傾けている。
そして、リコはいつものどこか淡々とした表情だ。
彼女は私の隣まで歩いてくると、続きを促すように軽く顎をしゃくってきた。
私は眉を顰めて、わざと反対側の肘掛けに体重をかけて距離をとる。
『詳細は?』
『悪魔側の指揮は呪の上級悪魔、数はおよそ三百ほど。感情の一派と闘いの一派が中心となって応戦しているようですわ』
『なるほどね。誰がどう動いてる?』
『わたくし達の東は、スノールが警戒を強めています。念のために、南にはサダンがすでに向かっていますわ。あちらは彼だけで十分かと。北は獣の一派だけでどうにかなるというのがわたくし達の見方ですわ』
『私もそう思うよ。ただ、一応西にも誰かを向かわせておいて』
「いや、西ではない。人間界だ」
突然口を挟んだのはラインハルト。
ペンを手の中でクルクルと回しながら、淡々と言葉を続ける。
「西に無駄な人員を割く必要はない。あそこが闘いの精霊の本拠地だということも、悪魔は理解しているはずだ。せいぜい陽動する程度だろう。おそらく悪魔が侵入するのは、ウィンドール王国とメイスト王国の間に流れるリムレック川だ」
『根拠は?』
「あそこの魔力は安定している。精霊もあまりいない。悪魔が天界からの足掛かりの拠点とするのに最適だ」
端的ではあるが説得力がある。
私自身、悪魔が人間界に侵入するとしたらウィンドール王国外だろうと思っていたので、特に異論はなかった。
『聞こえてた、ナツミ?』
『えぇ、聞こえておりましたわ。ではパルエラをそちらに』
『うん。それでお願い』
それだけ言って連絡を切る。
一瞬部屋に静寂が降りるが、すぐにアレックスの声が響いた。
「し、師匠、これってつまり、ウィンドール王国にも悪魔が攻撃してくるってこと…?」
『さすがの悪魔も人間の国を攻めることはないはずだよ。私たちの守りを人間界と精霊界で分散させるのがあいつらの狙いだから』
「どうして悪魔は精霊が人間界を守るって確証があるんすか?」
口を挟んだのはヴィンセント。
その答えはとても簡単だった。
『愛し子がいるからだよ。私たち精霊にとって愛し子っていうのは、何にも代えがたい大切で愛おしい存在なの。そんな愛し子が傷つけられる可能性が少しでもあるなら、精霊は動く。それを悪魔は知っているから、人間を攻撃するそぶりを見せてくる』
特にこのウィンドール王国には、今高位精霊の愛し子が四人━━━ユークライ、ラインハルト、アマリリス、そしてもう一人がいる。この国に棲んでいる精霊自体の数も多く、私たち精霊にとってかなり重要な場所なのだ。
「……失礼を承知で聞くんすけど、だったら愛し子なんて作らなければ良いのでは?」
『それは━━━』
「それは無理だ」
キッパリとラインハルトが告げた。
「そもそも精霊の行動原理は、人間のそれと大きく異なる。人間が生存を最も重んじるのに対し、精霊が最も重んじるのは享楽だ。多くの精霊は、その長い生涯をかけて果たしたい何かしらの目的、あるいは欲を持っている。が、そのどれもが容易に達成できるわけではない。だから精霊は、愛し子を作り自らの力を分け与えることで、擬似的にそれを達成しようとする」
「確かに、そんな話をジンから聞いたよ。彼の望みは最高の武器を造ること、それを俺に手伝って欲しい、って」
初めて聞いたその情報に詳しいことを聞きたくなるが、私が口を開く前にリコが話し始めた。
「精霊にとって愛し子を持つのは、精神の安定のために必要なことなの。もちろん愛し子を持たない精霊もいるけれど」
『まぁだから、精霊が人間界の守りを薄くすることは有り得ないし、悪魔はそれを知った上で戦略を立ててくるってことだけわかってくれればいいよ。といっても、相手の策略にただで嵌ってあげるつもりもないけど』
そのためにパルエラが人間界に来るのだ。
もしウィンドール王国に攻めてきたとしたら、私だけでなくカイルやラインハルトもいる。隣のメイスト王国にも精霊はいるし、他の二つの帝国は精霊にも悪魔にも過ごし辛い場所だから安全だ。
「アイカ」
リコが私の袖を引いた。
その目が、真っ直ぐと私に向けられてくる。
「本気なの?」
私にだけ聞こえるような小さい声でそう聞かれた。
リコは、何を、とは言わない。しかしなんとなく彼女が言いたいことはわかった。
『本気だよ。絶対に終わらせる』
椅子から立ち上がり背伸びする。
他にやることがなったのでユークライの仕事を手伝っていたが、権限もなければ事情もあまり知らない部外者の私にできることはあまりなかった。できてせいぜい書類の書き写しや計算だけ。
悪魔が人間界に来るであろうという状況になった今、私がすべきことはそれに集中することだ。
『ちょっと出てくる。あちらさんの空気感を自分で見て確かめたい』
「うん、わかった。……ちょっと来て」
ユークライが座ったまま私を手招く。
近付くと手を掴まれて、手の甲が彼の唇に触れた。
『なっ!?』
「気を付けてね。無理はしないで」
掴まれた手から温もりが伝わってくる。
うん、と小さく返事をした後、後ろからの視線を感じて慌てて咳払いした。
手を離して、早足で扉へ駆け寄る。
『じゃ、じゃあ、行ってきます!』
身体を扉から滑り出させて、さっと閉じた。
パタンと閉まった音にほっと胸を撫で下ろすと、斜め下から突然声がかかる。
「わたしも行くの」
いつからか隣に立っていたリコが、そう声をかけてきた。
わざと嫌な顔をしても彼女はさっきの言葉を撤回する気配はない。
『……転移魔法を使うけど、耐えれるの?』
さっとリコの身体を視ると、関節のところがわずかに擦り切れ、常に魔力が込められて循環している四肢は最初の頃の純度を失っている。
彼女自身の魔力も底減りしていて、常時発動しているはずの魔力障壁も薄くなっていた。
「お前の魔力を少し分けて欲しいの」
『わかったよ』
ここでごねても無駄だ。
歩きながら彼女の頭に手を置いて、今の彼女が耐え切れる分の魔力を流す。
魔力が流れ出ていく感覚に、少し目眩と似た視界の揺らめきというか、気持ち悪さを覚えるが、すぐにそれも引いた。
『……これで足りる?』
「身体の補強をしたいから、素材を集めて欲しいの」
『それくらいは自分でして。……ここら辺でいっか』
王城の庭に出る。
少し曇っている空を見上げた。
流れる雲の下を鳥が羽ばたいている。涼しい風が吹いて、思わず目を細めた。
少し魔力が不安定な感じがする。雨が降るかもしれない。
『早めに転移するよ』
リコの手を握る。セラミックと金属の間のような質感とひんやりした感触。
彼女が本当に生きてはいないということを思い知らされると同時に、こんな歪な彼女を生み出してしまったことに苦いものが迫り上がる。
それをわかっているのだろう。
私の半身は、煽るように愉快犯的な笑顔で私を見やる。
「早めに転移するんじゃないの?」
わざと私の話し方に寄せてそう言った彼女は、グッと手を強く握った。
痛くて文句を言うために口を開こうとした瞬間、わずかに緩んでいるリコの口元が見えてしまう。
『……行くよ』
こんな顔をした自分自身にきつい言葉を投げかけられるほど、私は割り切った精神を持ち合わせていない。
魔力を身体から流して魔法陣を描く。行き先のところだけを意識的に描き入れ、巡る力に方向性を与えると、軽やかな鈴の音と共に目の前が一瞬真っ白に染まった。
二回瞬きをしたら、そこはもう森の中だった。
リムレック川には行ったことないから、ここからは徒歩。それをわかっているリコは、下を見て溜め息をつく。
「歩きにくいの」
『はいはい』
足で大地を踏み締めて、魔力を流しながら木々や草に語りかける。
彼らはそれに呼応して、少しだけではあるが私たちが歩きやすいように道を作ってくれた。
「さすが天災の精霊」
上機嫌な声で言ってくるリコに肩を竦める。
彼女の場合、このセリフは私を褒めているのではなく、自分が歩きやすくなったことを喜んでいるだけだ。
『大地との親和性は本当に有り難いよ』
自然系の権威同士は互いに影響し合っているから、こういう風に大地の精霊と似た芸当をすることができる。
辺りにいる下位精霊が恐る恐るこちらを伺っているようだが、構わずに進んでいった。
木漏れ日が肌を照らす。
そういえば、一応王城にいたから官僚の制服に寄せていたのだった。機能性は正直微妙で、厳格さというか生真面目さが強い印象だ。
地味な長袖のエーラインワンピースを、上下に分けてセーラー服っぽくする。
「……スカートでいいの?」
私の格好を見たリコがそう尋ねてきた。
『別にいいでしょ。なんで?』
「本当に相手の雰囲気を見るだけで終わらせられるのか疑問なの。イライラをどうにかするために暴れたいと思っているはず」
『そんなわけないでしょ。偵察だけだって本当に。……多分』
こういう時は大抵戦闘に入ってしまうことが多いけれど、今日は相当なことがない限り絶対に戦いに関与しないと決めている。遠くから眺めるだけにする予定だ。
「まぁいいの。そろそろ止まった方が……」
言葉を切ったリコの視線の先を追いかける。
少し離れたところで森が途切れていて、その先に開けた草原があった。
そよそよとした風が吹いて穏やかだが、魔素の流れがどうもおかしい。
『……巨大な魔法陣』
周囲の魔素を、辺りに影響が出ない程度に一つのところに緩やかに集中させている。
遠くからだからよくは見えないが、使われている文様や文字などは、普段私が使っているそれとは大きく異なっているようだ。
「悪魔の描き方なの」
リコが静かに言った。
その声はひどく淡々としている。憎むべき敵が目の前にいるというのに、彼女は━━━いや、私も、思考は静謐で冷静にそれを受け止めていた。
『……見張りが四。中級悪魔と下級悪魔がそれぞれ二ずつ』
「下級といってもほぼ中級と言って差し支えないの。……大規模な固定の転移魔法陣の準備、それももう終盤なのよ」
『精霊は、獣のところが一名。多分あれはカニスかな』
息と魔力を潜めて、私たちからも悪魔からも離れたところで監視をしている犬の精霊であるカニスの方を見る。
自分の気配をほぼ完全に周りと同化させているため、悪魔に気付かれることはないだろう。ただ、第二位精霊の私には簡単に居場所がわかってしまった。他の上位精霊もきっとわかる。
そもそも精霊同士では、相手の認識を歪ませるような隠密魔法はあまり効果がないのだ。
もっとも、彼は私のことを見つけることはできていない。
それもそうだ。私の方が精霊としての力が強いし、魔法の腕も上。無駄に長く生きていないから、一応こういった基礎的な魔法の熟練度は低くないのだ。
基礎的な魔法だけでなく実戦で使うような魔法も、そこら辺の精霊に比べれば高い練度のものを使える。だからこそ、ヴェルスや精霊王は私に前線に立つことを求めたのだ。
しかしまだそのタイミングではない。
もう一度目を凝らして、差し迫った危険がないことを確認してリコに声を掛ける。
『精霊界への情報伝達とかはカニスがやってくれるだろうし帰りますか』
「つまんないの。何もないなんて」
私自身少しだけ思っていたが、さすがに声に出すのは違うとリコを嗜めようとした瞬間。
ドゴォン!!!
爆発音が鼓膜だけでなく全身を揺らし、視界を粉塵が覆い尽くした。
目を閉じながらも、魔力感知と温度感知の両方で情報を集める。
『カニスが……いや、え、なん、で』
「ヴェルスが」
私の言葉を引き継いだリコが彼の名前を呼んだと同時に、彼の怒りに満ちた声が響き渡った。
『裏切り者が!!』
長年精霊界の重鎮同士として付き合いがあったが、こんなにも感情的なヴェルスは初めて見たかもしれない。
カニスを庇うように立つヴェルスが、目の前にいる女性の姿をした精霊を睨み付けている。
「……あれは、色情」
腰ほどまである長い小紫の髪を緩く一つにまとめ、刺青の入った両腕を惜しみもなく晒し、豊満な身体を黒いワンピースに包む彼女は、腕を組みながらゆったりと立っていた。
憎しみが盛り上がるよりも先に、冷ややかな感情が迫り上がってくる。
心が沸騰するが、頭は逆に冷めていく。
隠密の魔法が解けていないか確認し、近くの木の根に腰掛けた。
魔力感知の範囲を広げ、敵影を捕捉する。が、かなり距離があるから大丈夫だろう。
「どうするの、アイカ」
『……ひとまず様子見。ある程度のことはヴェルスが処理してくれるはずだから』
そこまで言った時、膨れ上がる魔力が後方の森から感じられた。
大規模な転移魔法。
現れたのは複数の精霊だった。
『黙ってて。音を出したら気付かれる』
こくりとリコが頷いたのを見て、私は森の端っこのところまで歩みを進める。
足音が鳴らないようにゆっくりと歩いていると、私の横を猛スピードで精霊が通り過ぎていく。六名全員、私には気付かない。
『……悪魔と内通するのみならず、自らの手で精霊の命を狙うのか』
感情を押し殺した声で、ヴェルスがそう言った。
彼が庇うように立つ後ろでは、カニスが自分の負傷した脇腹を治療している。急所は外れているようだが、出血量がかなり多い。ヴェルスが来ていなかったら、とどめを刺されていただろう。
『なんとか言ったらどうだ、色情!』
『……うるさいわねぇ』
彼女が声を発した瞬間、嫌なものが背筋を這った。思わず頭を軽く振ると、ヴェルスも同じような仕草をしている。
『色情の権威、感情操作か。精霊王に背いたお前でも、まだ権威は使えるとはな』
『当たり前でしょう?あなた方が頼みの綱にしている精霊王には、精霊を支配する力なんてないのだから』
『なっ!?』
ヴェルスが驚いた声を上げる。色情に静かに近付いていた精霊達の間にも、動揺が走ったようだった。
でもそれ以上に私は動転した。隣でリコが私の肩に手を添えていなかったら、隠密用の魔法が全て解けてしまうほどに。
「……おそらく色情は、魔王と直接面識があるの」
『そう、だね。そう考えるのが、一番自然だと思う』
「そもそも、悪魔の中でも精霊王の詳しいことを知っているのは魔王だけのはずなの。どうしてそれを今になって、色情に伝えたかはわからないけれど」
私達が会話している間に、色情を取り囲むようにしていた精霊達に牽制するように、悪魔が魔法陣を描き始めていた。
じきに戦闘が始まる。そうするとここら辺一帯の魔力が安定しなくなり、転移魔法を使いにくくなってしまう。
『……ひとまず王城に帰ろう。色情の悪魔の中での地位は、私達の予想以上かもしれない』
「賛成なの。ここはヴェルスがいれば大丈夫なの」
本当は、荒ぶる感情のままに出て行って、色情をこの手で倒したかった。
しかし、ヴェルスがいるのに悠然と話しているということは、何かしらの逃走方法を確保していると考えるのが自然だ。彼女の後ろに魔王がいるなら尚更。
それよりも、王城に帰って情報を共有する方が大切なはず。魔王の手先が、数年ほど前まで王城にいたかもしれないのだ。詳細を調べて、必要であればすぐにでも対策を打たなくてはいけない。
私は一度振り返って、睨み合う精霊と悪魔を見た。
何度、この光景を目にしたのだろう。何度、死に行く同胞を看取っただろう。
『また━━━』
対悪魔戦が、本当に、始まってしまった。
『アイカ様っ』
突然、私に魔力の流れを通じてナツミが話しかけてきた。
その声の様子から、ただ事ではないことを理解した私は、魔法陣を描いて彼女の声を部屋全体に聞こえるようにする。
『精霊界の南で戦闘が始まりましたわ』
ついにか、という感じだ。
数日前から、偵察に現れる悪魔がいたとの報告は何度もあった。いつ始まってもおかしくない状況で、予想よりも少し早かったものの想定通りではある。
後ろで、ヴィンセントとライル、アレックスが小さく息を呑んだ。ユークライとラインハルトは落ち着いて耳を傾けている。
そして、リコはいつものどこか淡々とした表情だ。
彼女は私の隣まで歩いてくると、続きを促すように軽く顎をしゃくってきた。
私は眉を顰めて、わざと反対側の肘掛けに体重をかけて距離をとる。
『詳細は?』
『悪魔側の指揮は呪の上級悪魔、数はおよそ三百ほど。感情の一派と闘いの一派が中心となって応戦しているようですわ』
『なるほどね。誰がどう動いてる?』
『わたくし達の東は、スノールが警戒を強めています。念のために、南にはサダンがすでに向かっていますわ。あちらは彼だけで十分かと。北は獣の一派だけでどうにかなるというのがわたくし達の見方ですわ』
『私もそう思うよ。ただ、一応西にも誰かを向かわせておいて』
「いや、西ではない。人間界だ」
突然口を挟んだのはラインハルト。
ペンを手の中でクルクルと回しながら、淡々と言葉を続ける。
「西に無駄な人員を割く必要はない。あそこが闘いの精霊の本拠地だということも、悪魔は理解しているはずだ。せいぜい陽動する程度だろう。おそらく悪魔が侵入するのは、ウィンドール王国とメイスト王国の間に流れるリムレック川だ」
『根拠は?』
「あそこの魔力は安定している。精霊もあまりいない。悪魔が天界からの足掛かりの拠点とするのに最適だ」
端的ではあるが説得力がある。
私自身、悪魔が人間界に侵入するとしたらウィンドール王国外だろうと思っていたので、特に異論はなかった。
『聞こえてた、ナツミ?』
『えぇ、聞こえておりましたわ。ではパルエラをそちらに』
『うん。それでお願い』
それだけ言って連絡を切る。
一瞬部屋に静寂が降りるが、すぐにアレックスの声が響いた。
「し、師匠、これってつまり、ウィンドール王国にも悪魔が攻撃してくるってこと…?」
『さすがの悪魔も人間の国を攻めることはないはずだよ。私たちの守りを人間界と精霊界で分散させるのがあいつらの狙いだから』
「どうして悪魔は精霊が人間界を守るって確証があるんすか?」
口を挟んだのはヴィンセント。
その答えはとても簡単だった。
『愛し子がいるからだよ。私たち精霊にとって愛し子っていうのは、何にも代えがたい大切で愛おしい存在なの。そんな愛し子が傷つけられる可能性が少しでもあるなら、精霊は動く。それを悪魔は知っているから、人間を攻撃するそぶりを見せてくる』
特にこのウィンドール王国には、今高位精霊の愛し子が四人━━━ユークライ、ラインハルト、アマリリス、そしてもう一人がいる。この国に棲んでいる精霊自体の数も多く、私たち精霊にとってかなり重要な場所なのだ。
「……失礼を承知で聞くんすけど、だったら愛し子なんて作らなければ良いのでは?」
『それは━━━』
「それは無理だ」
キッパリとラインハルトが告げた。
「そもそも精霊の行動原理は、人間のそれと大きく異なる。人間が生存を最も重んじるのに対し、精霊が最も重んじるのは享楽だ。多くの精霊は、その長い生涯をかけて果たしたい何かしらの目的、あるいは欲を持っている。が、そのどれもが容易に達成できるわけではない。だから精霊は、愛し子を作り自らの力を分け与えることで、擬似的にそれを達成しようとする」
「確かに、そんな話をジンから聞いたよ。彼の望みは最高の武器を造ること、それを俺に手伝って欲しい、って」
初めて聞いたその情報に詳しいことを聞きたくなるが、私が口を開く前にリコが話し始めた。
「精霊にとって愛し子を持つのは、精神の安定のために必要なことなの。もちろん愛し子を持たない精霊もいるけれど」
『まぁだから、精霊が人間界の守りを薄くすることは有り得ないし、悪魔はそれを知った上で戦略を立ててくるってことだけわかってくれればいいよ。といっても、相手の策略にただで嵌ってあげるつもりもないけど』
そのためにパルエラが人間界に来るのだ。
もしウィンドール王国に攻めてきたとしたら、私だけでなくカイルやラインハルトもいる。隣のメイスト王国にも精霊はいるし、他の二つの帝国は精霊にも悪魔にも過ごし辛い場所だから安全だ。
「アイカ」
リコが私の袖を引いた。
その目が、真っ直ぐと私に向けられてくる。
「本気なの?」
私にだけ聞こえるような小さい声でそう聞かれた。
リコは、何を、とは言わない。しかしなんとなく彼女が言いたいことはわかった。
『本気だよ。絶対に終わらせる』
椅子から立ち上がり背伸びする。
他にやることがなったのでユークライの仕事を手伝っていたが、権限もなければ事情もあまり知らない部外者の私にできることはあまりなかった。できてせいぜい書類の書き写しや計算だけ。
悪魔が人間界に来るであろうという状況になった今、私がすべきことはそれに集中することだ。
『ちょっと出てくる。あちらさんの空気感を自分で見て確かめたい』
「うん、わかった。……ちょっと来て」
ユークライが座ったまま私を手招く。
近付くと手を掴まれて、手の甲が彼の唇に触れた。
『なっ!?』
「気を付けてね。無理はしないで」
掴まれた手から温もりが伝わってくる。
うん、と小さく返事をした後、後ろからの視線を感じて慌てて咳払いした。
手を離して、早足で扉へ駆け寄る。
『じゃ、じゃあ、行ってきます!』
身体を扉から滑り出させて、さっと閉じた。
パタンと閉まった音にほっと胸を撫で下ろすと、斜め下から突然声がかかる。
「わたしも行くの」
いつからか隣に立っていたリコが、そう声をかけてきた。
わざと嫌な顔をしても彼女はさっきの言葉を撤回する気配はない。
『……転移魔法を使うけど、耐えれるの?』
さっとリコの身体を視ると、関節のところがわずかに擦り切れ、常に魔力が込められて循環している四肢は最初の頃の純度を失っている。
彼女自身の魔力も底減りしていて、常時発動しているはずの魔力障壁も薄くなっていた。
「お前の魔力を少し分けて欲しいの」
『わかったよ』
ここでごねても無駄だ。
歩きながら彼女の頭に手を置いて、今の彼女が耐え切れる分の魔力を流す。
魔力が流れ出ていく感覚に、少し目眩と似た視界の揺らめきというか、気持ち悪さを覚えるが、すぐにそれも引いた。
『……これで足りる?』
「身体の補強をしたいから、素材を集めて欲しいの」
『それくらいは自分でして。……ここら辺でいっか』
王城の庭に出る。
少し曇っている空を見上げた。
流れる雲の下を鳥が羽ばたいている。涼しい風が吹いて、思わず目を細めた。
少し魔力が不安定な感じがする。雨が降るかもしれない。
『早めに転移するよ』
リコの手を握る。セラミックと金属の間のような質感とひんやりした感触。
彼女が本当に生きてはいないということを思い知らされると同時に、こんな歪な彼女を生み出してしまったことに苦いものが迫り上がる。
それをわかっているのだろう。
私の半身は、煽るように愉快犯的な笑顔で私を見やる。
「早めに転移するんじゃないの?」
わざと私の話し方に寄せてそう言った彼女は、グッと手を強く握った。
痛くて文句を言うために口を開こうとした瞬間、わずかに緩んでいるリコの口元が見えてしまう。
『……行くよ』
こんな顔をした自分自身にきつい言葉を投げかけられるほど、私は割り切った精神を持ち合わせていない。
魔力を身体から流して魔法陣を描く。行き先のところだけを意識的に描き入れ、巡る力に方向性を与えると、軽やかな鈴の音と共に目の前が一瞬真っ白に染まった。
二回瞬きをしたら、そこはもう森の中だった。
リムレック川には行ったことないから、ここからは徒歩。それをわかっているリコは、下を見て溜め息をつく。
「歩きにくいの」
『はいはい』
足で大地を踏み締めて、魔力を流しながら木々や草に語りかける。
彼らはそれに呼応して、少しだけではあるが私たちが歩きやすいように道を作ってくれた。
「さすが天災の精霊」
上機嫌な声で言ってくるリコに肩を竦める。
彼女の場合、このセリフは私を褒めているのではなく、自分が歩きやすくなったことを喜んでいるだけだ。
『大地との親和性は本当に有り難いよ』
自然系の権威同士は互いに影響し合っているから、こういう風に大地の精霊と似た芸当をすることができる。
辺りにいる下位精霊が恐る恐るこちらを伺っているようだが、構わずに進んでいった。
木漏れ日が肌を照らす。
そういえば、一応王城にいたから官僚の制服に寄せていたのだった。機能性は正直微妙で、厳格さというか生真面目さが強い印象だ。
地味な長袖のエーラインワンピースを、上下に分けてセーラー服っぽくする。
「……スカートでいいの?」
私の格好を見たリコがそう尋ねてきた。
『別にいいでしょ。なんで?』
「本当に相手の雰囲気を見るだけで終わらせられるのか疑問なの。イライラをどうにかするために暴れたいと思っているはず」
『そんなわけないでしょ。偵察だけだって本当に。……多分』
こういう時は大抵戦闘に入ってしまうことが多いけれど、今日は相当なことがない限り絶対に戦いに関与しないと決めている。遠くから眺めるだけにする予定だ。
「まぁいいの。そろそろ止まった方が……」
言葉を切ったリコの視線の先を追いかける。
少し離れたところで森が途切れていて、その先に開けた草原があった。
そよそよとした風が吹いて穏やかだが、魔素の流れがどうもおかしい。
『……巨大な魔法陣』
周囲の魔素を、辺りに影響が出ない程度に一つのところに緩やかに集中させている。
遠くからだからよくは見えないが、使われている文様や文字などは、普段私が使っているそれとは大きく異なっているようだ。
「悪魔の描き方なの」
リコが静かに言った。
その声はひどく淡々としている。憎むべき敵が目の前にいるというのに、彼女は━━━いや、私も、思考は静謐で冷静にそれを受け止めていた。
『……見張りが四。中級悪魔と下級悪魔がそれぞれ二ずつ』
「下級といってもほぼ中級と言って差し支えないの。……大規模な固定の転移魔法陣の準備、それももう終盤なのよ」
『精霊は、獣のところが一名。多分あれはカニスかな』
息と魔力を潜めて、私たちからも悪魔からも離れたところで監視をしている犬の精霊であるカニスの方を見る。
自分の気配をほぼ完全に周りと同化させているため、悪魔に気付かれることはないだろう。ただ、第二位精霊の私には簡単に居場所がわかってしまった。他の上位精霊もきっとわかる。
そもそも精霊同士では、相手の認識を歪ませるような隠密魔法はあまり効果がないのだ。
もっとも、彼は私のことを見つけることはできていない。
それもそうだ。私の方が精霊としての力が強いし、魔法の腕も上。無駄に長く生きていないから、一応こういった基礎的な魔法の熟練度は低くないのだ。
基礎的な魔法だけでなく実戦で使うような魔法も、そこら辺の精霊に比べれば高い練度のものを使える。だからこそ、ヴェルスや精霊王は私に前線に立つことを求めたのだ。
しかしまだそのタイミングではない。
もう一度目を凝らして、差し迫った危険がないことを確認してリコに声を掛ける。
『精霊界への情報伝達とかはカニスがやってくれるだろうし帰りますか』
「つまんないの。何もないなんて」
私自身少しだけ思っていたが、さすがに声に出すのは違うとリコを嗜めようとした瞬間。
ドゴォン!!!
爆発音が鼓膜だけでなく全身を揺らし、視界を粉塵が覆い尽くした。
目を閉じながらも、魔力感知と温度感知の両方で情報を集める。
『カニスが……いや、え、なん、で』
「ヴェルスが」
私の言葉を引き継いだリコが彼の名前を呼んだと同時に、彼の怒りに満ちた声が響き渡った。
『裏切り者が!!』
長年精霊界の重鎮同士として付き合いがあったが、こんなにも感情的なヴェルスは初めて見たかもしれない。
カニスを庇うように立つヴェルスが、目の前にいる女性の姿をした精霊を睨み付けている。
「……あれは、色情」
腰ほどまである長い小紫の髪を緩く一つにまとめ、刺青の入った両腕を惜しみもなく晒し、豊満な身体を黒いワンピースに包む彼女は、腕を組みながらゆったりと立っていた。
憎しみが盛り上がるよりも先に、冷ややかな感情が迫り上がってくる。
心が沸騰するが、頭は逆に冷めていく。
隠密の魔法が解けていないか確認し、近くの木の根に腰掛けた。
魔力感知の範囲を広げ、敵影を捕捉する。が、かなり距離があるから大丈夫だろう。
「どうするの、アイカ」
『……ひとまず様子見。ある程度のことはヴェルスが処理してくれるはずだから』
そこまで言った時、膨れ上がる魔力が後方の森から感じられた。
大規模な転移魔法。
現れたのは複数の精霊だった。
『黙ってて。音を出したら気付かれる』
こくりとリコが頷いたのを見て、私は森の端っこのところまで歩みを進める。
足音が鳴らないようにゆっくりと歩いていると、私の横を猛スピードで精霊が通り過ぎていく。六名全員、私には気付かない。
『……悪魔と内通するのみならず、自らの手で精霊の命を狙うのか』
感情を押し殺した声で、ヴェルスがそう言った。
彼が庇うように立つ後ろでは、カニスが自分の負傷した脇腹を治療している。急所は外れているようだが、出血量がかなり多い。ヴェルスが来ていなかったら、とどめを刺されていただろう。
『なんとか言ったらどうだ、色情!』
『……うるさいわねぇ』
彼女が声を発した瞬間、嫌なものが背筋を這った。思わず頭を軽く振ると、ヴェルスも同じような仕草をしている。
『色情の権威、感情操作か。精霊王に背いたお前でも、まだ権威は使えるとはな』
『当たり前でしょう?あなた方が頼みの綱にしている精霊王には、精霊を支配する力なんてないのだから』
『なっ!?』
ヴェルスが驚いた声を上げる。色情に静かに近付いていた精霊達の間にも、動揺が走ったようだった。
でもそれ以上に私は動転した。隣でリコが私の肩に手を添えていなかったら、隠密用の魔法が全て解けてしまうほどに。
「……おそらく色情は、魔王と直接面識があるの」
『そう、だね。そう考えるのが、一番自然だと思う』
「そもそも、悪魔の中でも精霊王の詳しいことを知っているのは魔王だけのはずなの。どうしてそれを今になって、色情に伝えたかはわからないけれど」
私達が会話している間に、色情を取り囲むようにしていた精霊達に牽制するように、悪魔が魔法陣を描き始めていた。
じきに戦闘が始まる。そうするとここら辺一帯の魔力が安定しなくなり、転移魔法を使いにくくなってしまう。
『……ひとまず王城に帰ろう。色情の悪魔の中での地位は、私達の予想以上かもしれない』
「賛成なの。ここはヴェルスがいれば大丈夫なの」
本当は、荒ぶる感情のままに出て行って、色情をこの手で倒したかった。
しかし、ヴェルスがいるのに悠然と話しているということは、何かしらの逃走方法を確保していると考えるのが自然だ。彼女の後ろに魔王がいるなら尚更。
それよりも、王城に帰って情報を共有する方が大切なはず。魔王の手先が、数年ほど前まで王城にいたかもしれないのだ。詳細を調べて、必要であればすぐにでも対策を打たなくてはいけない。
私は一度振り返って、睨み合う精霊と悪魔を見た。
何度、この光景を目にしたのだろう。何度、死に行く同胞を看取っただろう。
『また━━━』
対悪魔戦が、本当に、始まってしまった。
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