【旧版】諦めていた人生の続きで私は幸せを掴む

弓削鈴音

64話: 天災の怒り 1

「……アイカ」

 魔法学校の真ん中に堂々と居座っていた悪魔達を捕縛し、精霊界へ送っている時のことだった。


 徹底的に"隠密"を目標に行われた今回の作戦では、偵察も戦闘も事後処理も全部私一人で行っている。
 人員としてはユークライもいるけれど、彼はあくまで案内と、"私に本気を出させる"という不可解な役割を担っているだけだから、荒事をやらせるわけにはいかないのだ。

『どうしたの、ユークライ?』

「俺は君に……っ、アイカ!」

 何か言おうとした彼は、私の背後を見やって叫ぶ。

 と、その瞬間、濃い黒の霧が一気に部屋中に広がった。
 咄嗟に障壁魔法で身を守ろうとするが、霧に触れると掻き消される。

『まさか……』

 最悪のケースを想定するが、"彼女"は感知できない。
 となると、"彼女"の魔力を何らかの形で魔法具か何かにし、それを使ったのだろう。

 しかしそれはつまり、それほどの物を持たせるほど上位の悪魔がいる、あるいは重要な情報があるということだ。

 ウィンドール王国の中枢である王城、そのお膝元といっても差し支えない魔法学校ここに、怒りと悔しさが沸き立つ。

 向かってくる霧を、直接触れないよう風魔法で押し返すが、またすぐに広がっていく。この黒い霧を消す方法は持っていないから、こちらのジリ貧だ。

『チッ、面倒臭い…!』

 ユークライの手を握って、背後に飛び退く。そのまま二つの地下室を繋ぐ廊下に出ると、さっきまでいた部屋の中で爆発が起きた。

 咄嗟に霧から距離を取って、障壁魔法を発動する。
 目の前に現れた半透明に壁に、煙と粉塵と瓦礫、そしてそれに混じって無数の矢が刺さった。

 無事防げたと胸を撫で下ろすのもつかの間に、やじりと触れている部分の障壁がボロボロと崩れていく。

『死属性…!』

 万物の終わりを象徴する死の魔力。

 それに対抗できるのは、貴属性と無属性だけだ。
 味方の魔法を発動させるためだろう。黒い霧はどこかへと消え去り、視界を阻むのは薄茶色の埃だけだ。

 もう二枚障壁を張り、それを盾にしながらゆっくり室内へ足を踏み出す。

「……」

 ぐっと後ろに引っ張られたと思うと、ユークライが首を振っていた。

『どうしたの?』

 小さく囁くと、低い声で答えが返ってくる。

「隠しているようだけど、嫌な感じがする。無傷の悪魔がいるのかもしれない」

 ユークライには、私が悪魔に対して嫌悪感を抱かないことを伝えてあった。

『……わかった。でも乗り込むよ』

 ここを逃すわけにはいかない。
 言外にそう告げると、ユークライは頷いてくれる。そして、私の左手と繋がれている右手に力を込めた。

「無理はしないでね」

 そのいつかも聞いたセリフに、ほんの短い刹那だけだったが、全てが消える。


 悪魔も、精霊も、人間も、生き物も、魔力も。
 全部が全部感じなくなって、ただ繋いだ手からほのかに感じる体温のみが、一瞬、私の意識を構成する唯一になった。


 すぐに世界は戻ってくる。目の前には相変わらず煙たい地下室があるし、さっきはわからなかったけど、室内からわずかに魔力の反応もあった。
 けれど、沸騰する血液とは裏腹に、心は凪いで頭はひどくクリアだ。

『相手は、死属性っていうのを使ってる。貴属性と無属性を除けば、全てを侵食し破壊する属性。私は貴属性が使えないから、無属性の障壁を出しながら接近するね』

 ユークライに説明をしながら、状況を整理する。

 さっきまで室内にいて私と対峙した悪魔は、全員拘束して転がしてあった。魔法を使った拘束だったので、あの霧のせいで消えてしまっているだろうが、意識は戻っていないはず。
 となれば、私が相手するのは、死属性を操る悪魔のみ。

『ユークライ』

 大事な名前を口にする。

『行くよ』

「うん、行こう」

 彼が頷いて、どちらともなく手を離した。
 少し名残惜しいが、これが終わればまた手を繋げるからと、自分に言い聞かせる。

 随分乙女らしくなったものだな、というのは自嘲だ。この両手は汚れすぎているし、私に女の子らしくあれる資格はない。
 そんな重たい感情を押し込めて、息を吐く。

 一歩踏み出すと、室内に舞っていた砂煙が肌を叩いた。
 それらにゆっくりと、魔力の糸を張り巡らせていく。あくまで保険ではあるけれど。

『……天災か』

 足を止める。

 縦長の部屋の、ちょうど三分の一ほどの場所だろうか。前へ突進するには少し遠く、扉へ飛び退くには少々足りない。

『会ったことあるっけ?』

『先の大戦で、同じ戦場にわずかな時間だったがな。……小生が着いた時には、お前はもう去るところだった。数多の角と瞳を残して』

 悪魔は、私達精霊が"対悪魔戦"と呼ぶ戦いを、単純に"大戦"、あるいは"人界大戦"と表する。

 この悪魔、口ぶりからするに、対悪魔戦の経験者のようだ。

『お前は多くの我が同胞を殺した。そして、小生から二人の弟を奪った』

 声の位置は、すぐにわかった。
 そこそこ広いこの地下室の、奥の壁に近いところ。私からは、八メートルほど離れているだろうか。

『ゴーンズ、リコ。名前に聞き覚えはあるか』

『……後者は、私が殺したわけじゃないんだけど』

『部下がやったことであれば、上司のお前に責があるのは自明の理。……その残酷さ、あるいは味方であれば頼もしかったやもしれぬ。が、敵であるお前は、憎たらしく、おぞましく、醜悪で、卑しくてっ、下劣でっ、傲慢でっ…………あぁ、殺したい存在だっ!!』

『っ!』

 足を狙って、複数の刃が放たれる。
 私に利用させないためだろう。土魔法で作った使い切りのようで、役目を果たすと形を崩した。

『避けるなっ! これは、お前の罪だっ!!』

『ふざけんな! 殺さなきゃ殺されるって、常識でしょ!』

 怒鳴り返しながら反撃をする。

 相手の出方を伺うために、ひとまず石礫で上半身を狙った。が、パラパラと叩き落とされた音がする。
 初速はかなりあったはずだから、目がいいのだろう。

 未だに煙が舞っているせいでよく見えないが、魔力感知と温度感知を組み合わせて視界を作る。
 上背がある、ひょろりとした男だ。武器は背負った大剣のようだが、この狭い室内では使えないはず。

『はっ!』

 今度は、相手を囲むように描いた魔法陣から、氷の矢を降らす。ついでに、床を抜いて足を泥沼にするおまけ付きだ。

『小癪な真似を…!』

 障壁魔法で凌いでいるところに、さらに魔法陣を増やす。
 雷、土、風、無。

 若干魔力がもったいないが、相手の弱点を炙り出すため。

『はぁっ!!』

 いつの間にか沼を抜け出していたらしく、悪魔は私の眼前に迫って、大剣を振るってくる。
 こんな天井の低い空間でよくやるなと思いながら、私はそれを受け止めた。

 腕にずしりとかかる重量に耐えながら、大剣の主を蹴り飛ばす。

『ぐっ……』

 かすかによろめいた姿には、見覚えがあった。
 浅黒い肌に飴色の髪、白い法衣のような服の下には、鎖帷子を身に着けている。

 さっき言っていたように、ゴーンズとリコという悪魔の兄らしい。ゴーンズと容姿が似ていた。

『死ねっ!!』

『死なないよ!』

 放たれた斬撃を避けて、右手に持った氷の剣を振り下ろす。
 若干タイミングが遅く、受け止められてしまうが、相手の動きを封じることに成功した。

『ここには何の情報があるか、言って』

『ぐ、おぉっ!!』

『っ、チッ』

 細身の身体のくせにかなり膂力はあるようで、押し返されてしまう。

 咄嗟に後ろへ跳んで体勢を立て直すが、怒涛の勢いで繰り出される攻撃魔法に、距離を詰められない。
 面倒なことに、普通の八属性に混じって死属性の魔法もあるから、下手に普通の障壁魔法で防いだら怪我を負ってしまう。
 無属性の障壁をいくつも重ねることで防御をするが、攻撃に転じることができない

『天災! 小生はここでお前を殺すっ!!』

 答えるだけ意味が無い。
 私は無表情のまま、構築していた魔法を発動させる。

 にわかに粉塵が仄かに白く光り始めた。

『……なっ!』

 鋭敏さをエンチャントした砂埃は、風魔法によって一気に悪魔の身体へ殺到する。
 細かく鋭い小さな砂は、慌てて張られた魔法障壁を物ともせず、通り抜けていくつもの傷口を作っていった。

『ふっ!』

 攻撃の手は緩めない。
 氷の蔦を生み出して相手を固定し、そこに雷の矢を降らせる。

『ぐぉっ!!』

 悪魔の身体から、黒っぽい魔力が吹き出す。それに触れたところから、蔦がぼろぼろと朽ちていった。
 そうして自由になった身体で、雷の矢を全て防ぐと、再び接近してくる。
 さっきの粉塵攻撃で無数の傷を負っているが、それを物ともしないスピードだ。

『ぐっ……』

『死ねっ!!』

 真上から振り下ろされる大剣は、重力も伴って相当なもの。
 それを、無意識的に生み出したもう一本の剣を共に、双剣でどうにか受け切る。

『くっ……。うぁっ!!』

 単なる力比べでは、私に分はない。
 どうにか受け流し、そのまま斬りつける。

『笑止っ!!』

『ちっ』

 しかし、それも魔法障壁で阻まれてしまう。

 もう一度後ろへ退いて、息を整える。


 相手は、かなりの力量の持ち主だ。剣術も魔法もできるし、厄介な死属性も操る。
 私の後ろにはユークライがいて、さらに向こうにはアマリリスやナツミ、仲間達がたくさんいる。ここで負けるわけには、絶対にいかない。

『はぁっ!!』

 再び剣を構えながら、別の魔法を構築する。

 死属性に耐性がある三つの属性の内、唯一私が使えるのは無属性。
 無属性は本来攻撃向きではなく、障壁魔法やエンチャントの時の補助などに使われる。無属性の攻撃的な用法は、重力操作か物質移動を除けばほぼ存在しない。

 が、それらは相手に弾かれやすい魔法でもあるから、機を伺わないと通らないのだ。

 それが死属性に手こずりやすい要因なのだが、打開策がないわけではない。

『はっ!!』

 斬り結びながら、魔法陣を密かに描く。
 相手の大剣を食らうわけにもいかず、マルチタスクでかなり集中力を使うが、無事に魔法が完成した。

 床を蹴って身体が後ろに流れるのに身を任せながら、魔法を発動する。

『なっ、魔法障壁を…!?』

 一発で見破ったか。

 私が創ったのは、蛇を模した障壁魔法……もとい、攻撃的障壁魔法だ。

 障壁魔法という名前ではあるが、この魔法の本質は無属性で硬い壁を作ることにある。であれば、その壁の形を変えて、攻撃に使うのも可能だということだ。
 難点は、発動準備に時間がかかり集中力を使うことと、魔力の制御が上手くないとできないことだが、攻撃力や持続性は抜群。

 蛇を模しているのは、イメージしやすくフォルムが簡単な生き物、というしょうもない理由からなのだが、案外悪くない。
 威嚇するように舌を出しながら、何度も噛み付いていく。

 キィィン、と甲高い音が響いた。
 ぎりぎりと擦れる大剣と蛇の牙から、火花が散る。

『……天災』

 発せられた声は、明確に怒りが滲んで震えていた。

『これ以上、小生を愚弄するつもりかっ…!!』

『愚弄? 心当たりがないんだけど』

『ふざけるなっ! 先程から下級悪魔でも使えるような雑魚魔法ばかりで、噂で聞き及んだ強力なものを使う気配さえないではないかっ!』

『別にどんな魔法を使おうと、私の勝手でしょ!』

 蛇を制御しながらも、小さめの攻撃魔法を連発していく。
 どうやら、これを侮辱だと感じたらしい。大きな魔法を使う余裕がないだけなのに。というか、この攻撃的障壁魔法もそこそこの難易度なのだが。

『天災、朽ちろっ!!』

 突然叫び、私の方へ黒い球体を投げつけてくる。
 死の魔力の塊だ。横へ飛び退くが、少しだけ腕に掠ってしまう。

 すると、そこの肉だけ黒ずみ、ボロボロと落ちていった。

 何度見ても、死属性の攻撃の結果は慣れない。慣れたら生き物として終わりだと、そうも思うのだが。

 私が怪我を負ってしまったことで、蛇の動きが一瞬止まる。その瞬きのような短い時間で、魔法は叩き斬られていた。

『はぁ、はぁ』

 肩で息をする。
 体力もだいぶ来ているが、それ以上に魔力の消費が速い。別の所で使っている・・・・・・・・・魔法にダメージがあったこともあり、それの補充に魔力が持って行かれて、もう半分以上失っている。

 それはもちろん隠しているが、相手だってそこそこ経験を積んだ悪魔だ。私の魔力が、今ここで使っている分以上に減ったことには、勘付かれていた。

『かなり魔力が減少しているな。……やはり予想はしていたが、お前が境界を張っている精霊だったとは』

 意味がわからない、と言おうとして、とあることが頭を過ぎる。

『……ひょっとして、魔界と人間界の間の結界のこと? 境界って呼んでるんだ』

 せっかく返事をしたのに、なぜか返答は返ってこない。まぁ構わないけれど。
 そんな間も攻撃をしてくるのだから、障壁魔法でそれを凌ぐ。魔力残量があれだから、低燃費で行くしかない。

『いや、これは好機だ。あんな大魔法に魔力と魔力制御を割いているのであれば、平時と比べて弱体化しているはずだ。それに、今こいつを殺せば境界がなくなり、侵攻が可能になる……』

 大剣を構えを解かない臨戦態勢のまま告げられたそれに、思わず舌打ちしたくなった。


 数十年前から、私はずっと魔界と人間界の狭間に結界を張っている。それがあるから、悪魔がこっそり人間界に侵入する、なんてことはほとんどなかったし、あったとしてもすぐに察知して討伐することができた。
 が、十数年前のとある出来事のせいで、その結界が一度破れてしまい、修復した今もところどころ穴が空いているという事態が起きてしまっている。

 精霊界で今も進められている準備が終われば、すぐにでも解除する結界魔法だが、かなり私のリソースを奪っていた。すごく癪だが、この悪魔の言う通りなのだ。

 そのせいか、少しふらついてくる。人間でいう貧血気味だ。
 さっきの攻撃のせいで、左腕に力が入らないし、気分は最悪。

 それを隠すために、嘲るような表情を浮かべて挑発する。

『……で、言い訳は考えたの?  その好機をむざむざと逃して、泣きながら魔界に逃げ帰ったとき用のは』

『馬鹿にするな! 小生がお前に敗れることはなく、言い訳など必要がないっ!!』

 再び斬りかかってくるのを、今度は避けた。
 軽いステップで剣戟を躱しながら、攻撃魔法を放っていく。

 どれも有効打には成り得ないが、牽制にはなるし、これが積もれば相手の動きも鈍るだろう。
 そう思った矢先のことだった。

 私と対峙する悪魔が、口角を上げる。

『さて、時間稼ぎに付き合ってもらえて感謝するぞ、天災』

 その視線が私を通り越した奥に向けられた。

 まさか、という感情を押し殺して振り向くと、私の目に映ったのは───


 跪かされ首に剣を当てられ、
 腱の辺りから血を流して、
 私と目が合うと弱々しく微笑んだユークライ。

 不甲斐ないね、と口が動く。
 彼の喉を通った息が、掠れながらわずかに音を運んだ。声帯が潰されたんだと、直感的に理解した。


 一国の王子を危険に晒した責任だとか。
 戦闘中とはいえ私に気取られなかったあの悪魔は上級悪魔だ、っていう推測だとか。
 こんな場所に彼を連れてくるように仕向けたヴェルスに対する怒りだとか。
 退路を塞がれてしまったという状況把握だとか。

 色んなことが頭を駆け巡るのを、一瞬で怒りが塗り潰した。

『……』

 口を開く。が、音は出ない。何を言おうとしてるかさえわからない。
 ただ、明確にわかることが一つだけある。


 こいつらを殺す。
 それだけだ。


 ユークライの方へ行こうとする。何かに斬りつけられる。痛いけれど、それはすぐに麻痺した。
 暴れる感情のまま、手に持った双剣を後ろへ放り投げる。鈍い音がしたが、気にならない。追いつかれては面倒だから、ダメ押しで雷の球をぶつけた。

 足がもつれそうになるが、そんな場合じゃないと何かが自分を急かす。


 "絶対に失ってはいけない"と、心が叫んだ。


 左右からが飛んでくる。煩わしくて、相手するのも面倒で、右側は炎で焼き払った。叫び声が聞こえてくるが、そんなことに頓着している場合ではない。
 左側は魔法障壁を張っているようだったから、重力で押し潰す。それだけでは回避されるかもしれないから、生み出した金属の針で串刺しにした。


 ほんの数メートルが、無限に感じられる。走っても走っても、水の中を藻掻いているように前に進めない。
 地面を踏んでも、戻っていく感覚がする。
 ……いや、感覚じゃない。本当に戻っているんだ。

 それが魔法によるものだと理解した時、私は描き慣れた魔法陣を足元に出していた。妨害が入るが、それを津波の権威から借りた波で洗い流す。こうすれば、どんな魔法も邪魔はできない。ただの水魔法ではないから、死属性でも簡単には消せないのだ。


 ほぼ一瞬で転移用の魔法陣を描き上げ、冷たい鈴の音が鳴ったと思うと、目の前にいるのは彼に触れるゴミ・・だった。未だに剣を彼の首元に当てている。魔力からして、さっきの小細工も、このゴミがやったらしい。
 その背中に触れて、いつかも使った魔法で内臓をズタズタにする。それだけで、いとも簡単に崩れ落ちた。
 こんなやつが彼に触れていたなんて、というどす黒い感情を押し込める。とりあえず、今だけは。

 ゴミ、改め悪魔を蹴飛ばし、彼の正面に回り込んだ。

『はぁっ、はっ、はっ』

 誰か息の音がうるさい。少し静かにしてくれないだろうか。

 あぁ、違う。これは私の息だ。それさえも、透明な壁の向こう側のように感じる。
 感情が不安定なのは今に始まったことではないが、ここまで動揺して自分のこともよくわからなくなってしまうのは初めてだ。

『ユーク、ライ』

 視界がぼやけた。
 申し訳無さとか、悔しさとか、無力感とか、たくさんの感情がごちゃ混ぜになる。

『わたし、守れ、なくて……』

「……」

『本当に───』

 言葉が途切れたのは、ぐっと抱き寄せられたからだった。

 彼の温もりがすぐそこにある。
 そのシンプルな事実に、溢れてくる涙が止まらない。嗚咽が込み上げてきて、言葉を発することもままならなくなった。
 さっきまでの怒りの波も、いつの間にか引いている。心の中がゆっくり凪いで、彼の熱が身体にじんわりと広がっていった。

「……」

 不意に、おでこに軽く口づけされる。
 砂煙の中に入っていたから綺麗とはいえないはずなのに、慈しむように唇が落とされた。何度も何度も、泣き止まない私を慰めるように。

 それがくすぐったくて顔を上げると、ユークライは優しく笑っていた。目が眇められ、緑がかった碧の瞳が私を映す。
 再び涙が溢れそうになる。堪らえようとしていると、顎に彼の手が添えられた。

 滲む目を閉じる。視界が暗闇に染められるが、不思議と恐怖は一切なかった。むしろ、悠然とした温かくて深い安らぎがある。

 そうしてしたキスはとても穏やかで、どうしてか私はさっきの決意も忘れて、ひどく眠くなるのだった。

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