【旧版】諦めていた人生の続きで私は幸せを掴む
58話: 大書庫の奥 1
※本編ですが三人称です。
 そこは、かつて■■という存在が支配していた空間だった。
 幾度天界で戦いが起ころうとも、人間界で災いが起きようとも、淡々と役割を果たしてきた。
 増えていく本と、それを入れる棚。それだけで構成されているそこに、命を見出す者も多かった。しかしそれを気味悪がる者もいた。
 それでも、実直に求められることをしてきた。
 いずれ■■が去ると、主を失った。それでもやはり、ずっと健気に真率に仕事を行ってきた。
 しばらくすると、新たな主を得た。新たな主は■■と似て非なる、不思議な存在だった。
 主はそこを大切に扱った。そこにある本を尊重した。そこに存在する無数の意志を愛し、慈しみ、敬った。
 その主は頻繁にそこに来ると、目的のものを見つけては、満足そうな笑顔を浮かべていた。
 しかし主は、ある時、突如自らを分断した。そして分断した己を、そこに閉じ込めた。
 それから何者もそこを出入りすることな無くなった。
 奥に封じられたもう一人の主。
 その主の号哭は、無人の空間に虚しく響いてた。
 その主の身を知る雨は、無機質な床にぽたりと落ちていた。
 誰も訪れないその場所で、独り嘆く声は、無数の紙に吸い込まれていた。
 吸い込まれ、消えていき、いつしか声さえも無くなった。その主は空虚な心を埋めるように、自らの半身に許された僅かな距離を、延々と彷徨うようになった。
 そしていつからか、その主から管理者が作られた。
 その存在は自らを「番人」と名乗り、そこを管理するようになった。
 「番人」は常に鎖に縛られていた。しかしそれを感じさせず、自らの務めを全うしていた。
 月日は流れ、新たな存在がそこに加わった。
 いわば客人とでも言うべきその存在は、「番人」の話し相手となった。時折鎖を見ては悲しそうに目を伏せながら。
 それからいくばか、さして長くもない時間が経ったある日のことだった。
 そこは───大書庫は、数千年ぶりに新たな主を見つけたのだった。
 赤みを帯びた焦げ茶色の髪を無造作に纏め、闇夜を感じさせる黒いワンピースを身に着けた少女。まだ七、八歳ほどの見た目も相まって、中性的なその少女は、日課である散歩をしていた。
 日課、と言っても、大書庫における時の流れは曖昧で、一日の明確な定義もない。ただ、思い立った時に、定位置である部屋の隅っこから立ち上がり、そこから数メートルもない狭い区域を、ふらふらと歩くだけである。
 少女に許された空間には、真っさらな手帳が一つ置いてある机と、二つの椅子しか存在しない。
 見慣れたそれらを、金色の双眸で軽く見やった少女は、歩みを進めた。
 少女における世界の限界は、唐突に訪れる。何か印があるわけでも、物が置いてあるわけでもない境界線は、それでも残酷なほどにはっきりと存在した。
 いつものように、その透明な境界まで歩いて行こうとした少女は、ふと足を止めた。
 見慣れた空間に、"何か"があったのだ。
 自分と同じ、ヒトのような形をしたそれは、しかし自分とは違う。
 髪は、ほぼ白と思えるほど薄い金で、黒いふんわりとしたドレスからは、自分のものより長い四肢が伸びている。
 少女は恐る恐る、その"何か"に近付いた。
 近付いてみると、うつ伏せになっている"何か"は、時折その肩を上げたり下げたりしている。
 更に近くへ行って見ると、髪に隠された顔が見えた。
 整った顔は苦しそうに歪んでいたが、少女にはそのわけがわからない。どうすればいいかと考えても、そもそも初めて見るその"何か"がどんなものかさえわからないのだ。
 少女はそっと、"何か"の指先に触れる。
 ほんのり温かみを持つそれは、わずかに柔らかい。自分の指と似ているその感覚に、少女は不思議な感覚を覚えた。
 次に手を触ってみると、それに反応したように指がピクリと動く。慌てて後ずさった少女は、離れたところからじっと"何か"を見つめた。
 けれど、"何か"はそれから動こうとはしない。
 再びジリジリと近付いた少女は、今度は腕を触ってみる。
 ほっそりとした腕は、折れそうな見た目に反して意外と頑丈そうだ。少女が軽く握るが、"何か"はわずかに身じろいだだけ。
 それに何を思ったか、少女は"何か"の腕をしっかりと掴み、ずるずると引っ張り始めた。が、突っかかるような感触がしてなかなか進まない。
 少女は"何か"の側にしゃがむと、ゴロンと"何か"を転がして、仰向けにした。するとちょうど髪とドレスが下になる。それに満足したように頷くと、少女は再び腕を引っ張った。
 少女の力はそれほど強いものではない。元々自分がいた場所に、"何か"を連れてきて戻ってきた頃には、そこそこの時間が経過していた。
 少女は部屋の隅っこに腰を下ろして膝を抱えると、無言で"何か"を見つめる。
 その空虚な瞳には相変わらず何も宿らないが、注がれた視線には静かな熱がこもっていた。その熱の理由は、果たして期待か好奇心か、あるいは憧れなのか。
 短くない時───といっても何千年も孤独に過ごした少女にとってはあっという間ではあった───が過ぎ、やがて"何か"に変化があった。
 透き通るような睫毛を震わせ、上体を起こすとともにゆっくりと瞼を持ち上げる。そうして黒と淡紅色の光があらわになると、ぼんやりとその二つの焦点が合った。
 見慣れない光景に、ゆっくりと視線を向けた"何か"は、やがて少女と目を合わせる。
 一瞬、夕日に染まる海のような黄金の双玉に見つめられて息を止めた"何か"は、すぐにそれを感じさせず優美に立ち上がる。そうして流れるように、嫋やかにカーテシーをした。
「……わたくしはクリスト公爵家令嬢、第三王子サーストン殿下の婚約者、アマリリス・クリストですわ」
 "何か"───アマリリスのその言葉にも、少女はそこから動こうとも何かを発そうともしない。ただうずくまったまま、彫刻のようにピクリともせずアマリリスを見つめる。
「不躾ではありますけれど、あなた様はどちら様ですの? 社交界で一切お見かけした記憶がありませんが」
 数拍待っても返事のない少女に、アマリリスは苛立ったようにどこからか取り出した扇子をバサリと開く。わずかに透けているレースの扇子には、ふんだんに花の刺繍が施されていて、まだ幼さの残るアマリリスの容姿をぐっと引き締めていた。
「聞こえていますでしょう。お返事を下さらない?」
 扇子で顔の半分を隠すアマリリスは、眉を軽く顰める。
「…………はぁ。答えたくないのでしたら構いませんわ。でしたら、最低限でも立ってくださいまし。床に直接座るなんて、淑女として相応しくありませんわ」
 どこか高飛車でいて華やかさを損なわないその声は、常人であれば萎縮してしまうような棘を持っている。
 が、少女は全く以て無反応だ。
「……わたくしと話したくないのでしたら、はっきりそう仰ってくだされば良いのに……。わかりました。エスコートをして下さるお父様にも失礼ですし、わたくしはそろそろここを離れますわ。では、御機嫌よう」
 染み付いた習慣でカーテシーだけすると、アマリリスは背を向けて一歩踏み出す。ふわりとドレスが揺れ、アマリリスはわずかに違和感を感じた。
 その瞬間、鈍痛がアマリリスの右腕を襲う。
「っ!!」
 令嬢としての矜持でどうにか叫ばなかったものの、ギリギリと締め上げられるような痛みを腕は訴え続けている。
 涙を堪えながら振り返ると、そこには無表情を崩さない少女がいた。
「何をするんですの…! はな、してっ!」
 必死に言葉を振り絞るアマリリスに、少女はゆっくり首を傾げる。
「ちょっと…! 痛い、ですわ…!!」
 掴まれていない方の腕で、しっかり握って離そうとしない少女の手を無理矢理引き剥がそうとする。が、虚しく空振りに終わった。
 その間も込められた力は緩められることはない。
「離して、痛いっ!!」
「……いらい、?」
 初めて何かを発した少女の声は、中性的で若干低め、そしてそこに一切感情は入っていなかった。舌っ足らずに聞き返す少女は、自分が握る腕を見て、またアマリリスに視線を向ける。
「いた、い?」
「そっ、そう! 痛いから離して、頂戴!!」
 少女の手に自分の手を添えながら、どうにか指を剥がそうとすると、少女は突然パッと離す。
 あまりにもそれが唐突だったため、アマリリスは軽くたたらを踏んだ。そうして顔を上げると、少女をキッと睨みつける。
「……あなた、どういうつもりなのかしら」
「……つも、い?」
「また喋れないフリ? あなた、わたくしの言っていることわかっているのでしょう? 何のためかは全く予想がつかないけれど、あまりおちょくらないで下さりません? わたくしを馬鹿にするということは、五大公爵家が一つ、クリスト家を冒涜し、ひいてはウィンドール王室を貶めることに繋がりましてよ」
「……あぅ…おういつ?」
「王室ですわ。初代国王キュリオス様の血を受け継ぎし、ウィンドール王国を守る崇高で高貴なる血族の方々のこと。わたくしは現王の第四子、第三王子でいらっしゃるサーストン・ウィンドール様の婚約者。第一王子殿下、第二王子殿下が共に婚約者がいらっしゃらない中、同世代の令嬢の中では最も身分が高いのがわたくしでしてよ」
 そんなことも知らないなんて、と言外に仄めかしながら、「あら」と言葉を続ける。
「あまりサーストン殿下をお待たせしては失礼に当たりますわ。もう失礼しても?」
 一応問いかける形を取りながらも否を言わせない口調のアマリリスは、少女を睥睨する。
 と、ポツリと少女が呟いた。
「ほんと?」
 脈絡ない簡素な言葉は、しかしアマリリスの心中に波紋を落とす。
「ほんと?」
「何を、仰りたいのかしら…?」
「ほんと、まってる?」
 アマリリスは震えていることをひた隠しにし、虚勢を張るように少女を睨む。
「なんてこと、仰るの…!! サーストン殿下はわたくしを待ってるに───」
 違いない、という言葉は継げなかった。
 少女がゾッと底冷えする目で、アマリリスを見つめていたからだ。
「……っ、何を───」
「どうしてあの方は私を見てくれないの? 私はこんなにあの方のことが好きなのに」
 突然話し出した少女は、一歩アマリリスに向かって踏み出す。
「あの日お会いしてからあの方のことが大好き。あの方以外を見るなんて考えられない。あの方が他の女を見ているとしても好き」
「……何、言ってるの」
「なんであの女ばかり見てもらえるの。私はすごく頑張っているのに。他人と無理してまで話してあなたのために努力したのに。何もしないあの女ばかり好かれるなんて許せない」
「……やめて頂戴」
「あの女がいなくなれば私が見てもらえる。騙して違法の移民用の馬車にでも押し込んでやろう。あの女がいなくなれば今度こそ見てもらえる。好きになってもらえる」
「………嫌よ、やめて」
「でも失敗した。卒業パーティーまでもうすぐだけれど最近は贈り物さえない。愛想を尽かされたのかもしれない。もう好きになってもらえないのかもしれない。……エスコートの誘いが来なかった。あの女と一緒に公の場に立つなんて許せない」
「……やめてよ、お願い…!」
「……あら、不思議ね。この後の"記憶"のあなた、全く違うじゃない」
 そう言って少女は、今にも泣き出しそうなアマリリスを見て微笑んだ。
「良かったわね。"感情"の呪いから抜け出せて」
「……呪い?」
「それにしても、自分にこんな力があるなんて知らなかったわ。ひどく心地よいものね、自分の感情を言葉にできるって」
 さっきまでとは打って変わって流暢に喋る少女は、楽しそうに一歩踏み出す。
 そうしてアマリリスにぐっと顔を近付けて、笑顔の少女は告げた。
「あなたの"記憶"を見せてもらったわ。あなた、なかなか愉快な人生を送っているみたいね」
 そこは、かつて■■という存在が支配していた空間だった。
 幾度天界で戦いが起ころうとも、人間界で災いが起きようとも、淡々と役割を果たしてきた。
 増えていく本と、それを入れる棚。それだけで構成されているそこに、命を見出す者も多かった。しかしそれを気味悪がる者もいた。
 それでも、実直に求められることをしてきた。
 いずれ■■が去ると、主を失った。それでもやはり、ずっと健気に真率に仕事を行ってきた。
 しばらくすると、新たな主を得た。新たな主は■■と似て非なる、不思議な存在だった。
 主はそこを大切に扱った。そこにある本を尊重した。そこに存在する無数の意志を愛し、慈しみ、敬った。
 その主は頻繁にそこに来ると、目的のものを見つけては、満足そうな笑顔を浮かべていた。
 しかし主は、ある時、突如自らを分断した。そして分断した己を、そこに閉じ込めた。
 それから何者もそこを出入りすることな無くなった。
 奥に封じられたもう一人の主。
 その主の号哭は、無人の空間に虚しく響いてた。
 その主の身を知る雨は、無機質な床にぽたりと落ちていた。
 誰も訪れないその場所で、独り嘆く声は、無数の紙に吸い込まれていた。
 吸い込まれ、消えていき、いつしか声さえも無くなった。その主は空虚な心を埋めるように、自らの半身に許された僅かな距離を、延々と彷徨うようになった。
 そしていつからか、その主から管理者が作られた。
 その存在は自らを「番人」と名乗り、そこを管理するようになった。
 「番人」は常に鎖に縛られていた。しかしそれを感じさせず、自らの務めを全うしていた。
 月日は流れ、新たな存在がそこに加わった。
 いわば客人とでも言うべきその存在は、「番人」の話し相手となった。時折鎖を見ては悲しそうに目を伏せながら。
 それからいくばか、さして長くもない時間が経ったある日のことだった。
 そこは───大書庫は、数千年ぶりに新たな主を見つけたのだった。
 赤みを帯びた焦げ茶色の髪を無造作に纏め、闇夜を感じさせる黒いワンピースを身に着けた少女。まだ七、八歳ほどの見た目も相まって、中性的なその少女は、日課である散歩をしていた。
 日課、と言っても、大書庫における時の流れは曖昧で、一日の明確な定義もない。ただ、思い立った時に、定位置である部屋の隅っこから立ち上がり、そこから数メートルもない狭い区域を、ふらふらと歩くだけである。
 少女に許された空間には、真っさらな手帳が一つ置いてある机と、二つの椅子しか存在しない。
 見慣れたそれらを、金色の双眸で軽く見やった少女は、歩みを進めた。
 少女における世界の限界は、唐突に訪れる。何か印があるわけでも、物が置いてあるわけでもない境界線は、それでも残酷なほどにはっきりと存在した。
 いつものように、その透明な境界まで歩いて行こうとした少女は、ふと足を止めた。
 見慣れた空間に、"何か"があったのだ。
 自分と同じ、ヒトのような形をしたそれは、しかし自分とは違う。
 髪は、ほぼ白と思えるほど薄い金で、黒いふんわりとしたドレスからは、自分のものより長い四肢が伸びている。
 少女は恐る恐る、その"何か"に近付いた。
 近付いてみると、うつ伏せになっている"何か"は、時折その肩を上げたり下げたりしている。
 更に近くへ行って見ると、髪に隠された顔が見えた。
 整った顔は苦しそうに歪んでいたが、少女にはそのわけがわからない。どうすればいいかと考えても、そもそも初めて見るその"何か"がどんなものかさえわからないのだ。
 少女はそっと、"何か"の指先に触れる。
 ほんのり温かみを持つそれは、わずかに柔らかい。自分の指と似ているその感覚に、少女は不思議な感覚を覚えた。
 次に手を触ってみると、それに反応したように指がピクリと動く。慌てて後ずさった少女は、離れたところからじっと"何か"を見つめた。
 けれど、"何か"はそれから動こうとはしない。
 再びジリジリと近付いた少女は、今度は腕を触ってみる。
 ほっそりとした腕は、折れそうな見た目に反して意外と頑丈そうだ。少女が軽く握るが、"何か"はわずかに身じろいだだけ。
 それに何を思ったか、少女は"何か"の腕をしっかりと掴み、ずるずると引っ張り始めた。が、突っかかるような感触がしてなかなか進まない。
 少女は"何か"の側にしゃがむと、ゴロンと"何か"を転がして、仰向けにした。するとちょうど髪とドレスが下になる。それに満足したように頷くと、少女は再び腕を引っ張った。
 少女の力はそれほど強いものではない。元々自分がいた場所に、"何か"を連れてきて戻ってきた頃には、そこそこの時間が経過していた。
 少女は部屋の隅っこに腰を下ろして膝を抱えると、無言で"何か"を見つめる。
 その空虚な瞳には相変わらず何も宿らないが、注がれた視線には静かな熱がこもっていた。その熱の理由は、果たして期待か好奇心か、あるいは憧れなのか。
 短くない時───といっても何千年も孤独に過ごした少女にとってはあっという間ではあった───が過ぎ、やがて"何か"に変化があった。
 透き通るような睫毛を震わせ、上体を起こすとともにゆっくりと瞼を持ち上げる。そうして黒と淡紅色の光があらわになると、ぼんやりとその二つの焦点が合った。
 見慣れない光景に、ゆっくりと視線を向けた"何か"は、やがて少女と目を合わせる。
 一瞬、夕日に染まる海のような黄金の双玉に見つめられて息を止めた"何か"は、すぐにそれを感じさせず優美に立ち上がる。そうして流れるように、嫋やかにカーテシーをした。
「……わたくしはクリスト公爵家令嬢、第三王子サーストン殿下の婚約者、アマリリス・クリストですわ」
 "何か"───アマリリスのその言葉にも、少女はそこから動こうとも何かを発そうともしない。ただうずくまったまま、彫刻のようにピクリともせずアマリリスを見つめる。
「不躾ではありますけれど、あなた様はどちら様ですの? 社交界で一切お見かけした記憶がありませんが」
 数拍待っても返事のない少女に、アマリリスは苛立ったようにどこからか取り出した扇子をバサリと開く。わずかに透けているレースの扇子には、ふんだんに花の刺繍が施されていて、まだ幼さの残るアマリリスの容姿をぐっと引き締めていた。
「聞こえていますでしょう。お返事を下さらない?」
 扇子で顔の半分を隠すアマリリスは、眉を軽く顰める。
「…………はぁ。答えたくないのでしたら構いませんわ。でしたら、最低限でも立ってくださいまし。床に直接座るなんて、淑女として相応しくありませんわ」
 どこか高飛車でいて華やかさを損なわないその声は、常人であれば萎縮してしまうような棘を持っている。
 が、少女は全く以て無反応だ。
「……わたくしと話したくないのでしたら、はっきりそう仰ってくだされば良いのに……。わかりました。エスコートをして下さるお父様にも失礼ですし、わたくしはそろそろここを離れますわ。では、御機嫌よう」
 染み付いた習慣でカーテシーだけすると、アマリリスは背を向けて一歩踏み出す。ふわりとドレスが揺れ、アマリリスはわずかに違和感を感じた。
 その瞬間、鈍痛がアマリリスの右腕を襲う。
「っ!!」
 令嬢としての矜持でどうにか叫ばなかったものの、ギリギリと締め上げられるような痛みを腕は訴え続けている。
 涙を堪えながら振り返ると、そこには無表情を崩さない少女がいた。
「何をするんですの…! はな、してっ!」
 必死に言葉を振り絞るアマリリスに、少女はゆっくり首を傾げる。
「ちょっと…! 痛い、ですわ…!!」
 掴まれていない方の腕で、しっかり握って離そうとしない少女の手を無理矢理引き剥がそうとする。が、虚しく空振りに終わった。
 その間も込められた力は緩められることはない。
「離して、痛いっ!!」
「……いらい、?」
 初めて何かを発した少女の声は、中性的で若干低め、そしてそこに一切感情は入っていなかった。舌っ足らずに聞き返す少女は、自分が握る腕を見て、またアマリリスに視線を向ける。
「いた、い?」
「そっ、そう! 痛いから離して、頂戴!!」
 少女の手に自分の手を添えながら、どうにか指を剥がそうとすると、少女は突然パッと離す。
 あまりにもそれが唐突だったため、アマリリスは軽くたたらを踏んだ。そうして顔を上げると、少女をキッと睨みつける。
「……あなた、どういうつもりなのかしら」
「……つも、い?」
「また喋れないフリ? あなた、わたくしの言っていることわかっているのでしょう? 何のためかは全く予想がつかないけれど、あまりおちょくらないで下さりません? わたくしを馬鹿にするということは、五大公爵家が一つ、クリスト家を冒涜し、ひいてはウィンドール王室を貶めることに繋がりましてよ」
「……あぅ…おういつ?」
「王室ですわ。初代国王キュリオス様の血を受け継ぎし、ウィンドール王国を守る崇高で高貴なる血族の方々のこと。わたくしは現王の第四子、第三王子でいらっしゃるサーストン・ウィンドール様の婚約者。第一王子殿下、第二王子殿下が共に婚約者がいらっしゃらない中、同世代の令嬢の中では最も身分が高いのがわたくしでしてよ」
 そんなことも知らないなんて、と言外に仄めかしながら、「あら」と言葉を続ける。
「あまりサーストン殿下をお待たせしては失礼に当たりますわ。もう失礼しても?」
 一応問いかける形を取りながらも否を言わせない口調のアマリリスは、少女を睥睨する。
 と、ポツリと少女が呟いた。
「ほんと?」
 脈絡ない簡素な言葉は、しかしアマリリスの心中に波紋を落とす。
「ほんと?」
「何を、仰りたいのかしら…?」
「ほんと、まってる?」
 アマリリスは震えていることをひた隠しにし、虚勢を張るように少女を睨む。
「なんてこと、仰るの…!! サーストン殿下はわたくしを待ってるに───」
 違いない、という言葉は継げなかった。
 少女がゾッと底冷えする目で、アマリリスを見つめていたからだ。
「……っ、何を───」
「どうしてあの方は私を見てくれないの? 私はこんなにあの方のことが好きなのに」
 突然話し出した少女は、一歩アマリリスに向かって踏み出す。
「あの日お会いしてからあの方のことが大好き。あの方以外を見るなんて考えられない。あの方が他の女を見ているとしても好き」
「……何、言ってるの」
「なんであの女ばかり見てもらえるの。私はすごく頑張っているのに。他人と無理してまで話してあなたのために努力したのに。何もしないあの女ばかり好かれるなんて許せない」
「……やめて頂戴」
「あの女がいなくなれば私が見てもらえる。騙して違法の移民用の馬車にでも押し込んでやろう。あの女がいなくなれば今度こそ見てもらえる。好きになってもらえる」
「………嫌よ、やめて」
「でも失敗した。卒業パーティーまでもうすぐだけれど最近は贈り物さえない。愛想を尽かされたのかもしれない。もう好きになってもらえないのかもしれない。……エスコートの誘いが来なかった。あの女と一緒に公の場に立つなんて許せない」
「……やめてよ、お願い…!」
「……あら、不思議ね。この後の"記憶"のあなた、全く違うじゃない」
 そう言って少女は、今にも泣き出しそうなアマリリスを見て微笑んだ。
「良かったわね。"感情"の呪いから抜け出せて」
「……呪い?」
「それにしても、自分にこんな力があるなんて知らなかったわ。ひどく心地よいものね、自分の感情を言葉にできるって」
 さっきまでとは打って変わって流暢に喋る少女は、楽しそうに一歩踏み出す。
 そうしてアマリリスにぐっと顔を近付けて、笑顔の少女は告げた。
「あなたの"記憶"を見せてもらったわ。あなた、なかなか愉快な人生を送っているみたいね」
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