【旧版】諦めていた人生の続きで私は幸せを掴む

弓削鈴音

幕間: 少女のもとに集まる人々

「お嬢様、失礼致します。運動のお時間ですよ」

 静かな部屋に、優しげな声が響いた。
 その声の主は、"お嬢様"と呼んだ相手の脚を持ち上げて、寝返りを打たせる。

「……手伝おうか」

「いえ。お心遣い痛み入りますが、殿下のお手を煩わすほどのことではありませんゆえ」

「そうか」

「はい」

 もう一人部屋にいる人物───ラインハルトにエミーは軽く礼をすると、"お嬢様"───アマリリスの腕も動かす。
 自分の身体を動かされているのに一切反応しないアマリリスに、エミーは一瞬痛みを感じたように表情を歪めた。しかしすぐにその顔に微笑みを浮かべた彼女は、眠り続ける自らの主に丁寧に言葉をかける。

「お嬢様、ラインハルト殿下がいらしていますよ。軽く化粧を致しましょうか? もう殿下がいらしていくつか過ぎたので、遅いかもしれませんが」

「……アマリリスは、化粧をしてもしていなくても綺麗だから、僕は気にしない」

「ふふっ。ですって、お嬢様。愛されていらっしゃるのですね」

 王城に運ばれたアマリリス・クリスト公爵令嬢は、運ばれる前にも使われていた東棟のある一室───彼女が王城に滞在した時に使っていた部屋で眠っている。
 血が通っているのかもわからないほど褪めた顔色をした彼女の側には、二人の男女がいた。
 男の方は、彼女の婚約者でウィンドール王家の第二王子であるラインハルト・ウィンドール。
 女の方は、彼女の専属の侍女であるエミー。

 アマリリスを挟んで向かい合っている二人の目に宿るのは、純粋な彼女への愛情だけ。
 全く違う色の瞳は同じ光を灯していて、しかし彼女はその光があっても目覚める気配がない。

「……ライルから聞いた。僕の後にアマリリスが眠りについてから、ずっと側で世話をしていると」

「これが、わたくしの職務でございますから」

「ずっと休みを取っていない、とも。アイカが僕とアマリリスを連れ出した時も、ずっと祈っていて休憩していないらしいが」

「……アマリリスお嬢様は、わたくしの光でございます。その光が消えぬようにこの身を尽くすことを止める理由など、存在致しません」

「僕はアマリリスの婚約者で、王城にいる間は君も僕の使用人という扱いになる。だから僕は、君に休むように命じることができる」

 ラインハルトと会話をしている間もアマリリスに運動をさせていたエミーは、アマリリスを再び仰向けに寝かせる。
 もし他に誰かいれば不敬罪だと糾弾したであろう行為だが、ラインハルトはこの部屋に最初に入った時に、全てにおいてアマリリスを優先するように告げていた。不敬罪などには問わないから安心するように、と。
 王国の第二王子であるラインハルトと、公爵令嬢の使用人とはいえ平民のエミー。彼らが同じ空間にいるからには、こういったことも必要であった。この厳格な身分制度が王国の安寧を守っているとはいえ、ひどく面倒なことだとラインハルトは感じてしまう。

「少し休め、エミー。そこのカウチソファでも使って、仮眠を取った方がいい」

「……他にお嬢様の世話をできる者は、ただいまおりませんゆえ、わたくしが抜けるわけには」

「君自身もひどい顔色だ。もし今アマリリスが起きたら、どう思う?」

「……畏まりました」

 ラインハルトの言葉に、やっとエミーはアマリリスの側を離れて、近くのソファに腰掛ける。
 気力でどうにかしていたものの、一度緩んでしまうと疲労が彼女に襲いかかった。まぶたが重くなるのを必死に堪えるのを見て、ラインハルトは思わず声をかける。

「眠ってもいい。もし僕だけだったら不安だというのなら、城のメイドも呼ぶ」

「いえ、お嬢様がいつ目覚めてもいいように、わたくしは眠るわけには参りません」

 そう言いながらも、彼女はすでに限界に近かった。
 その様子に、無意識に彼女の主を重ねたラインハルトは、無言のまま魔法陣を描く。

「殿下…?」

 戸惑うエミーに、ラインハルトは二つの魔法をかける。
 疲労回復の無魔法と、癒しの光魔法だ。

「これで少しはマシになるはずだ。どうだ?」

「すごい、身体が軽く……。殿下、深謝申し上げます」

「構わない。今の僕には、これくらいしかできないから」

 ラインハルトに頭を下げると、エミーは再び立ち上がる。しかしそれをラインハルトは押しとどめた。
 戸惑うエミーに、ラインハルトは説明をする。

「魔法では、肉体の疲労は取り除けるが、精神的な疲れはどうしようもない。短くてもいいから、休憩を取る必要がある」

「あの、ですが……」

「眠らなくてもいいから、身体の力を抜いてゆっくりしろ…してくれ」

 そこで一旦切ると、ラインハルトはちらりと扉の方に視線をやった。

「ライルも心配しているんだ。休んでくれないか」

 素っ気ない言葉ではあったが、確かに感じられる温もりに、エミーは黙って頭を下げた。
 それに安堵したように頷いたラインハルトは、どこからか取り出した紙の束に、鉛筆で何かを書き付け始める。
 部屋の中に響くのは、鉛筆特有のサラサラという心地よい音以外は、二人分の寝息だけだった。






 コンコン、と扉が叩かれる音がしたのは、それから数十分ほど経った時のこと。
 いつの間にか目を閉じてしまっていたエミーは、その音で起きると、慌てて扉に駆け寄る。

「どちら様でいらっしゃいますか?」

「あ、アレックス・ウィスドムです! 入室しても、よ、よろしいでしょうか!」

「こら、アレックス。貴人の方がいる場所では、いくら焦っても大声を出しては駄目だよ」

 くぐもったその声に、ラインハルトはエミーに開けるよう指示をする。
 そうして入ってきたのは、ラインハルトの従者であるライルとアマリリスの護衛であるアレックス、そしてエストレイだった。

「申し訳ないです、ラインハルト様。ただいまよろしいですか?」

 少し砕けた敬語で自らの主に声をかけるライルは、わずかに苦笑していた。
 ラインハルトが目覚めて王城に帰ってきてから、偶然が重なり二人はなかなか会うことができておらず、これが最初の会話になる。しかし、いつも通りの様子で接するライルに、ラインハルトは気づかぬ内に入っていた肩の力を抜いた。

「あぁ。心配をかけた、ライル」

「っ!? ……いえ、心配など。ただ、ご無事で何よりです」

 ライルの知るラインハルトは、ほとんどそういった気遣いをしない。特に自分のことに関しては、かなり無頓着だった。ラインハルトが病気や怪我をした時の見舞いにも、僕は大丈夫なのに、と首を傾げるほど。
 そんな彼が変わった理由に、ライルは嬉しく思うと同時にやるせない気持ちを抱く。
 やっと主にできた大切な人が、なぜこんな目に遭っているのか、と。
 だが、ライルはそれをおくびにも出さずに、主に報告書を手渡す。悪魔の呪いにより執務などができなかった間の、他の者が代行していた仕事のリストと詳細だ。かなりの厚みがあるが、無魔法で自らの動体視力を強化したラインハルトは、一枚ずつ適当にめくっていった。
 おそらく、王国中探してもこんな使い方をするのはラインハルトだけだろう。ライルはそれに呆れの視線を送るが、彼の主は全く気が付かないようだった。

 パラパラと読み進めていくラインハルトが、突然告げる。

「ライル、僕はしばらくここにいる。大事な書類は遠隔魔法で署名するから、纏めておいてくれ」

「……あの、はい? これが空耳でなければ、高度な遠隔魔法をたかが署名のために使うと、そう言いましたか?」

 普通の人では滅多に習得できず、魔法師団に所属している者でも五人に一人ほどしか実用できるほどまでのレベルに達しないと言われている遠隔魔法。
 魔法の影響を遠くに飛ばすのではなく、魔法自体を術者から離れたところで発動させるので、魔法の仕組みを深く理解していないと使用できないのだ。
 ラインハルトから魔法を教わったりもしたライルでも、数メートルほどの目視できる距離でしか使えない。かなり使う人を選ぶ技術であった。
 それを、この部屋から離れなくないがために、署名のために使うと言い切った主に、ライルは呆れを隠さない。

「あぁ。問題があるか?」

「普通にありますよ。そもそも、王城内では不必要な魔法の使用は禁止されています。特に、魔力を大量に消費するものは」

「精霊魔法との複合だから、使う魔力は微量だ。他には?」

 全ての問題点を潰せばいいのだろう、と言わんばかりの主に、やはり人は簡単に変わらないのだとライルは溜め息をつく。それを見て、原因の張本人は何か言おうとするが、その前にライルが指を立てた。

「まず、婚約者であり病人という扱いになっているとはいえ、年頃の未婚の女性と同じ部屋に長時間いるのはよろしくないです。あなたが陰口を叩かれたりするだけでなく、アマリリス様にもご迷惑をかけてしまいます。これは、ラインハルト様としても避けたいのでは?」

「……まぁ、そうだな。だったら、転移魔法で誰にも見られないように来ればいい」

「いつの間に転移魔法なんて使えるように……。ラインハルト様、駄目です。人の目はどこにあるかわかりませんし、何よりエミーや医者殿の気苦労を増やすだけです。自覚はないのでしょうけど、王族と同じ空間にいるというのは、あなたが想像するより疲れるものです」

「だったら回復魔法をかけてやればいいだろ。僕の腕は、お前自身がよく知っているじゃないか」

「違います! 精神的に疲れるんですよ! ……はぁ。大声を出させないでください」

「大丈夫だ。お前の声はそこまで威圧感がないから」

 話が通じないラインハルトに、ライルが何度目かの溜め息をつく。"声に威圧感がない"というところで頷いていた他の三人は、極力気にしないようにしていた。

「というか、執務室はすぐそこですよ? 長時間離れることがないように、私が仕事を分配しますから」

「そういう問題ではない」

 ラインハルトは、ずれ落ちた毛布をアマリリスにかける。
 何週間ぶりに目覚めた彼は、この初春を少し暖かくなったように感じたが、まだまだ肌寒い。おそらく過保護な天災の精霊からの加護もあるし大丈夫なように思えるが、風邪を引かないとも限らないのだ。

「僕は、アマリリスが本当に辛い時に側にいられなかった。その罪滅ぼしではないが、今傍らにいてやりたい」

「ラインハルト様……」

 わずかに考え込むようにしたライルは、やがて笑顔を浮かべた。

「それなら尚更、執務の方は完璧にこなしてもらいます。アマリリス様の身の回りのことはエミーがやってくれていますし、アイカ様も時折見に来られています。心配はいらないでしょう」

「うわっ、ライルさんえげつない……」

「アル、そういうこと言わない。これがライルさんの仕事」

 ボソッと呟いたアレックスに、エストレイが肘鉄を食らわせる。ずっと黙って見ていた二人だが、エミーと違ってまだ幼い。口を開きたくなったのだろう。

「……せめて、後数時間だけいいだろ?」

「無理ですね。もうしばらくすれば医者の方の往診の時間なので、それが終わり次第仕事に戻りましょう」

「…………どうしても、か?」

「どうしても、です。さて、アレックスとエストレイはこの後どうしますか?」

 名前を呼ばれた時に肩を跳ね上げさせたのは、自分達のさっきの発言について言われるからだと思ったからか。
 そのことについての追及でないことに、二人はホッと息をつく。

「俺はアマリリス様の護衛なので、ここに残ります!」

「私も。アマリリス様は、身命を賭してお守りします」

 エストレイの返答にライルは苦笑を浮かべた。
 この部屋に来てから、苦笑と溜め息ばかりの苦労人は、壁にかけてある時計をチラリと見やる。魔法によって正確に時を刻む針は、そろそろ頂点を指す頃だ。往診は正午だと聞いている。

「私とラインハルト様は、往診が終わり次第執務室に向かう。その後から、二人はここの警護につくように。扉の前に衛兵はいるけれど、気を引き締めろ。責任者はアレックスだ。いいね?」

「はいっ! 俺が責任者ですね!」

「ライルさん、アルだと不十分」

 エストレイは不満げだが、ライルはそれを聞き入れるつもりはないようだ。
 その様子を見て、エミーは微笑みを浮かべながら、アマリリスを見やる。その瞳はわずかに揺れていたが、そのことに気付いた者は一人もいなかった。


 それから数分後、医者がやって来たのだが、部下に呼ばれたラインハルトとライルはその前に部屋を去っている。ラインハルトはかなり嫌そうな顔をしていたが、彼の扱いに慣れているライルが連れて行った。
 彼らとすれ違って入って来た医者は、王国一の回復魔法の使い手と呼ばれるケークスだ。魔法の腕前でなく知識も豊富で、彼に治せない難病はないと言われている。
 しかし、そんな彼でも、イレギュラー過ぎたアマリリスには何もできなかったのだが。

 もう五十を超えているはずのケークスは、それを感じさせない力強い光を双眸に湛えている。しかし同時に人懐っこい笑顔を浮かべていた。

「……魔力の放出は止まったようで、何より。侍女殿、お疲れ様。私が診ている間、少し座って休んでいなさい」

 さっきまでいた王子と同じようなことを言われ、自分が疲れているように見えるのか、と思いながら素直に椅子に腰掛けるエミー。

 鞄から取り出した帳面に、ケークスはいくつか文字を書いていく。何度か持参した魔法具を確認しながら、彼は診察を進めていった。
 それをこっそり覗いたアレックスは、ほとんどが記号だらけのそれに首を傾げる。

「……あまり無駄な時間は使えないということと、坊っちゃんのように覗き見されては患者の情報が漏れてしまうから、医者の間のみで使われている言葉や記号があるのですぞ」

「うぁ、あ、す、すいません…!」

 自分の祖父ほどの年齢に見えるケークスにたしなめられたアレックスは、羞恥から顔を赤くした。耳まで真っ赤になっていて、無表情で面白がるエストレイが、その耳をチョンとつつく。
 初対面の人がいるからか、エストレイのちょっかいには叩き返すだけで対抗するアレックス。

「ククッ、若い内はそれくらいで良いと思いますぞ」

「ケークス様。アレックスはいつもこんな。甘やかす必要は、ないです」

「カッカッカッ! 坊っちゃんは、良い助言者をお持ちのようで!」

 会話をしながらも脈を取ったり呼吸を確認していたケークスは、「ふむ」と帳面を確認する。

「変化は特に見られず、と。魔力的な衰弱は止まったようだし、命の危険はないだろう。安心せい」

 その言葉は、エミーに向けられていた。専門家からの保証に、彼女は感情を押し殺しながら頭を下げる。

「体調も万全、と。…………ほぉ、これは」

「え、なんかあったんですか!?」

 突然声を上げたケークスに、アレックスが反応する。
 ちょうど老医者は、アマリリスの目を光の魔法具で照らしながら確認しているところだった。

「侍女殿。確認したい事がある」

「はい、なんでしょう?」

「……アマリリス様の両方の瞳は、黒で間違いないか?」

「えぇ、間違いありません。それがどうなさいました?」

 アマリリスの瞳の色は、"黒持ち"と揶揄されることも相まってかなり知られている。貴族の家に出入りすることの多いケークスも、そのことは知っているはずだ。
 そもそも、毎回の診察の時に目の状態も確認している。だというのになぜいまさら、という思いと、まさか、という不安がエミーの中を駆け巡った。
 エミーの気持ちを読んだのか、「落ち着いて」と前置きしてから、ケークスは困ったように笑う。

「医者は長くやっているが、うぅむ……。特に怪我も病気もしていないアマリリス様の右目だけが淡紅色に変わる理由に、侍女殿は心当たりがあるだろうか」

 その問いかけにエミーは何も答えられず、部屋に沈黙が降りる。

 髪色と違って、瞳の色は歳を取っても変化しない。変わることがあっても、それはさっきケークスが言ったような、外傷などがあった場合のみだ。だが、アマリリスにそういったことは起きていない。
 異常ともいえるその事態に、ただでさえ疲れの溜まっているエミーが反応できるはずがなく、短くない経験の中でも初めてのことにケークスは唸るばかり。アレックスとエストレイも、もちろん何かすることもできない。

 誰も口を開かずにアマリリスを見つめていたちょうどその時、再び扉が開いた。

「おい、魔力が危険そうならすぐ部屋を出るんだぞ」

「わかっています。せっかく頂いた登城の許可を、みすみす無駄にしたくないだけです。……あ、ケークス殿。往診の時間でしたか」

 静寂を破ったのはアマリリスの実の弟であるレオナールとシルヴァンで、何度かケークスに会ったことのあるシルヴァンは、姉の側に立ち尽くす彼に挨拶をする。
 いつもなら快活に返してくれるのだが、困惑しているケークスは、さっきと同じ問いを繰り返した。

「シルヴァン様。アマリリス様の瞳の色が、特にこれと見受けられる原因がなく淡紅色に変わっておられるのですが、何かご存知ですかな?」

 突然の問いかけに、久しぶりに姉の姿を見たにも関わらず、レオナールとシルヴァンは首を傾げることとなる。

コメント

  • わたぱち

    すごい好きです!応援してます!!

    1
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