光と壁と

増田朋美

終章 光と壁と

終章 光と壁と
正代は、鏡の中の自分を見て、やっと本来望んでいた自分の顔になれたなあと思った。
余分な黒髪が全部なくなった、坊主頭になった自分の顔が真正面に来た。仏道というものは、自分を習うことだと聞いていたが、髪で誤魔化すことができなくなったいま、本当の自分と常に向き合わなければならない。顔かたちも、そばかすの多い頬も、みんな自分だと思わなければならない。剃髪というのは、そのためにあるのだ。
あれから、何年たっただろうか。思えば、高校を中退してから、ここへ着くまでの道のりは、まさしく最悪だった。
まず、優等生が覚醒剤というものを使っていたことが、新聞とか雑誌などに、数多く報じられてしまい、報道陣たちがやってきたのを目撃した彼女は、精神錯乱状態になって、精神科に送られた。一度病院に行ってしまうと、そこから立ち直るのは極めて難しいことを思い知らされた。退院しても、少しでも不安定になれば、すぐにまた戻されてしまうのだ。医学的に言えば、まだまだ隔離した方がよいので入院すべきだとかいろいろあるらしいけど、病院の金儲けのためなのかと、父が怒鳴り混んだくらい、費用がかかった。高校も、学校の名誉を傷つけるからとして、無理やり退学させられた。それもまた、彼女には大きな衝撃で、退学が決定した翌日、農薬を用いて自殺未遂を起こしたが、気がつくと、また病院の中にいた。看護師さんに、お父さんたちのことも考えなさいよ、といわれた。
その後、彼女は働けるまで自宅療養というかたちになったが、とても社会にでて働こうという気になれず、ずっと家の中に居座っていた。ちょっとでも傷つくことがあると、大いに暴れてものを壊した。父母は、はじめは止めてくれたが、年をとっていくにつれて、それもできなくなっていった。中には過去を忘れろと、親切に言ってくれた人も多かったが、正代はその方法がわからず、さらに暴れるしかできなかった。
やがて、父母は仕事を定年退職し、これからは悠々自適という年になったが、篠田家では、そのようなことはまずあり得なかった。そうなると、正代は、余計に罪深さを感じて、より精神不安定になり、時が解決という言葉は大嘘であると思い知らされた。
やがて、その数年後に母が死ぬと、正代は、父から奥多摩にある精神障害者のグループホームにいけと命じられたが、断固としてそれを拒否した。どうしても福生を離れるのは嫌だったからだ。しかし、ここでようやく仏様が憐憫を垂れてくれたらしい。母の葬儀を執り行ってくれた僧侶が、彼女を養女として迎えようと名乗り出てくれたのだ。正代はすぐにそれを承諾して、菩提寺の養女として暮らし始めた。養父となってくれた僧侶の、念仏や法話などを聞いているうちに、彼女は仏道に興味がわいてきた。そして、苦労ばかりかけて一般的な幸せをまったく与えることができなかった両親への謝罪と、彼らがせめて向こうでは幸せになってくれるように祈りの言葉を捧げ続けることを、人生の目標にしてもよいと思った。正代は、正式に仏道修行をはじめ、やがて非常に珍しい、女性の住職になった。これを達成したことで、彼女の精神は、はじめて安定を取り戻したのである。
その日、いつもどおり正代は本尊さんである千手観音像に向かって念仏を唱えていた。やさしく見守ってくれる本尊さんは、彼女の母が若いときにそっくりだと思った。
「庵主さま、すみません。」
寺の掃除をしていた女中が、本堂にやってきた。
「ある女性の方が、お話を聞いてほしいといって、きているのですが。」
また何かのセールスかと正代は思った。
「売り込みかしら?」
「セールスではないんですよ。中年の女性のかたで。」
中年の女性というとだれだろう?
「どんな人?」
「はい、着物を身に付けられたかたで。なにか、相当訳があるようです。」
「そうなのね。すぐいくわ。」
正代は、本堂の玄関に向かってあるいていった。
本堂の玄関前の木造の階段に、その女性が座っていた。正代より七歳から八歳ほど年上の女性で、ピンクの着物をきちんと身に付けていた。着物の裾には、桐紋が刺繍されていた。
「はじめまして。」
と、彼女は言った。
「こんにちは。」
正代も、軽くあいさつした。
「今日はどうされました?」
「ええ、このお寺に行けば、綺麗な尼さんが、お話をなんでも聞いてくれると、娘がインターネットで見つけてくれましたの。」
中年の女性はそういった。
「そうでしたか。身の上相談のような感じかしら。」
正代は、法話会を行うだけではなく、個別に悩んでいる人の相談にも乗っていた。自分だけではなく他人のために生きることも、必要だろうとおもったからだった。
「まあ、なんという名目で有ろうと、聞いてもらいたいことがあったら、そこへ行けと、娘が、そういっていました。」
「わかりました。では、本堂に入ってください。」
「はい。」
正代は彼女を本堂に招き入れた。
「でも、まだ若いのに、尼さんなんて、よっぽど辛いことがあったんでしょうけど、あたしも、なかなか理解なんてしてもらえなかったわ。」
そういいながら彼女は本堂へ入ってきた。時折その言葉を言われることがあったが、正代は何も動じなかった。というより、慣れていた。
「こちらへどうぞ。」
正代は、本尊さんの前に、座布団を敷き、彼女をそこへ座らせた。
「ありがとうございます。」
女性は、そこに座った。正代も座布団を用意して、彼女に向き合って座った。二人は、本尊さんに間に入ってもらって、見合いをしているような格好になった。
「じゃあ、お話とは何でしょうか。しどろもどろでもゆっくりでもかまいませんし、文脈があってなくてもかまいませんよ。大切なことはね、どれだけ、自分を介抱させてあげられるかどうかだから。」
正代がこう切り出すと、彼女は話し出した。
「ええ。私、この年になるまでろくな目に会わなかったの。だから、人生って何だろうって悩むようになって。まあ、ここへ行ってみろといったのは娘なんだけど、娘にそうしろと指導をされるなんて、私も教育者として情けないわね。」
「ああ、教育関係の仕事だったんですか。」
「ええ、こう見えても体育教師よ。もう終わってしまったけどね。」
「そうですか。なんか全然見えないけど。」
確かにそのとおりである。体育の先生というと、もっと勝ち気で、堂々としていて、強そうな女性が多い。しかし、彼女は、着物を身に着けて、非常に繊細な女性という印象を与えさせて、とても、体育教師には見えなかった。
「体育の先生でも、お年を召したら、着物が恋しくなるものなんですか。」
「まあね、これは、私の一番目の夫が、縫ったものだった。なくなった後に、遺品を整理して、ほとんどは処分したんだけど、これは、さすがに着用できるから、持って帰れって、父が言ってきかなかったの。まあ、着れるようになったのはごく最近で、ずっと、押し入れにしまいっぱなしだったから、もう、変色してしまっているけど。」
「へえ、着物を縫ってたんですか。」
「ええ。自慢じゃないけど、和裁技能士の資格持っていたから。それだけが唯一のとりえだったかも。それ以外のことにおいては何をやってもダメな人だったけど。」
「そうですか。」
「でも、一年もしないうちに逝ったから、あんまり印象に残る人ではなかったわね。亡くなった時も、私、立ち会えなかったのよ。勝手に故郷に帰って、そのままって感じだったから。私が、あの人が亡くなったときかされた時は、もう骨になっていたのよね。その時はね、私、あの人は、いろんな人と何十又かけていると勘違いしていたから、もう好きにしてって、激怒したけど、、、。」
「ああそうですか。つまり、ほかの女性と関係を持っていたんですか?」
「私はそう思ってた。だから、なくなったとしても何も悲しくはなかったわ。むしろ、ざまあみろとかそう思ったくらい。だから、彼の葬儀も何も来ないでって言われたとしても、当初はそれで当り前だと思っていて、私のほうが勝利者であると思っていたわ。」
と言ってその女性は、うつむいた。
「でもね、生徒の一人がね、違法薬物に手を出した問題が明るみになっちゃって、私は、責任を取って勤めていた高校も退職させられて、住んでいた福生からも追い出されたわ。暫くは、渋谷の実家に戻って、ちょっと精神科に通ったりもしたけれど、父が、よい人を見つけてきてくれて、その人の都合で群馬の田舎まで行ったから、それ以上落ち込むことはなかった。幸い、翌年には息子が、その二年後には娘が生まれたし。」
「そうなんですか。お父様の判断は賢明だったと思います。」
正代は、少し苦々しい思いをしながら、そう返答した。
「そうやって、結婚して子供も持てたんだけど、やっぱり、罰という物は必ずあるのね。私、再婚して仕事を辞めて、母親やったんだけど、なんだか子供と夫との付属品にしか自分はないのかという贅沢な悩みで悩むようになってしまって。食事の支度とか、洗濯とか、娘と息子たちの世話で、時間を全部取られてしまって、私のやりたいことをやれる時間はどこにもない。顔を合わせるのも、家族と近隣の人だけでしょ。もう、つまらなくて仕方なかった。こんな無価値なことをずっと続けていくのかあって、ご飯も食べられなくなって、何もできなくなっていったわ。」
「いわゆる、専業主婦の鬱というわけですか。」
確かに、そうなって、正代のもとに来た女性もたくさんいる。
「そうなのよ。二番目の夫は、お母さんをやれるのはその時だけだぞって言ってくれて、一生懸命励ましてくれたんだけど、私は嫌で嫌で仕方なかった。」
「つまり、子育てには生きがいがなかったということですか。」
「そうなのよ。学校で生徒を育てていた時は、あんなに楽しかったのに、自分で子供産むと、なんでこんなに苦痛になるのか、わからないくらいだったわ。別に、義母との仲が悪かったとか、そういうわけでもないのにね。ただ、自分が育てるのに失敗した生徒の様にはするなとは言われていたけれど。そうならないようにと、考えれば考えるほどつらくなって。」
「ああ、プレッシャーがすごかったのですか。」
その生徒が自分だとは、正代はあえて言わなかった。
「まあね。彼女が問題を起こした時、彼女のお父様の激怒ぶりが怖かったから、そうはさせないと誓いを立てたのかもね。」
「子供さんたちは今現在、どうしているんです?」
「それがね。」
彼女は、がっくりと落ち込んだ。もう、だめだと言いたげに。
「息子は受験のストレスで向こうへ逝ってしまって、娘は、生きていてはくれるけど、お嫁に行ったわ。息子が逝ったときね、担当のカウンセリングの先生がこういったのよ。彼は、お母さんが落ち込んでいたのを、自分のせいだと思っていて、その責任を取るために自殺したんだってね。そのあとの、娘とも大変だったのよ。お母さんみたいな母親にはならないって騒ぎだすし。」
「お孫さんはいるんですか?」
「いないの。娘の主張によると、自分は、ちゃんと育ててもらっていないから、子供を作ることはあえてしないんだって。」
「そう。確かに人間は、他人の立場に立って考えろと口に出して言うことはできるけど、実行することは先ずできないものね。ここへ相談に来た女性が、やっぱり娘さんと同じことを言ったんですよ。彼女は、子供のころ、お父様に殴られて育って来て大人になったから、親になっても、そういうやり方しかわからないで、子供を育てられないから、作らないって。まあ、それも社会を守るための一つの生き方なのかもしれないですよね。社会が、人間にとって暮らしやすくしていくためのね。」
「ええ。まあ、そうなのかもね。でも、娘がその言葉を宣言した時は、責任は私にあるって突きつけられたようで、もう、本当につらかったわ。今、娘は、群馬の北外れに住んでいるんだけど、そちらでのんびりと暮らしていたほうが、自分に合っているからって、東京にはなかなか出ないわよ。」
「お母さんが悪いとか、非常に困るとか、そういうことを言ったりはしましたか?」
「それはないわよ。ただ、穏やかに考えて決めたみたい。でも私ね、今までの姿勢が全部間違っていたんだなっていうことを知らされた出来事があった。」
「何ですか?」
「ええ、群馬に引っ越す数日前の日に父がね、一番目の夫にせめて謝罪だけでもしろっていうから、私、彼の知人に頼み込んで、彼の墓所まで連れて行ってもらったの。」
「どこにあるんですか?」
「茨城。名前は忘れたけど、小山のすぐ近くにある田舎町だった。」
「菩提寺がそこにあるんですか?」
「菩提寺ではないんだけど、お寺でやってくれている、自由霊園に近いところかな。儀式的なことが本当に嫌いな人だから直葬で送ったらしいんだけどね。私、それを聞かされて、私だけ除け者かとはおもてなくて、当り前だと思ったんだけ、私が除け者にされる理由も、すぐにわかったわ。」
彼女は、ちょっと黙って、また語り始めた。
「私、初めて知った。あんなにすごい人を、向こうへやっちゃったんだなって。なんという勘違いをしていたんだろって、思いっきり後悔した。だって、墓石の上に、花とか悪芝が立ててあるのはどこの家でもそうだけど、彼のところには、大学の入学通知書と、女子相撲の番付表がおいてあったから!」
「つまりどういうことですか?」
「私、さっき何十又かけてるっていったでしょ。彼が、本当に関係を持っていると思っていたのよ。何人かの女性と面識があったしね。だけど、彼女たちは、性的な関係ではなく、彼に助けてもらっていたのね。一人は、めでたく横綱の称号を貰って、女子相撲界で大活躍したらしいし、もう一人は、東京を離れて、埼玉の所沢で幸せに暮らしているらしいわ。ああして、証拠の品物を持ってくるんだもの、とても気持ち悪い関係だったとは思えないわよ。それなのに私ときたら、そんなに人助けをしていた人を、誉めるどころか、死ぬまで追い込んだんだから!きがつくのは遅すぎたわ。」
「なるほど、、、。もしかしたら、それが引っかかってて、娘さんや息子さんに、愛情が伝わりにくかったのかもしれませんね。」
「そうね、、、。」
彼女はそっと涙を拭いた。
「忘れよう忘れようと思っても、そうはできないもの。そうしようとすればするほど、思い出されてできなくなるわ。」
「まあ、仏教的な解釈をすれば、」
正代は、そこで僧侶の顔になった。
「基本的にすべてのものは、何もないというのが仏教の教えにはよく出てくるんですね。あるものは縁だけです。縁というのは、人と人とが出会うだけではありません。今ここにただ置かれているだけのものをすべて縁というのです。そして、事象は、人間が、そこにある縁をどう利用してどう解釈したかによっておこる。きっと、一番目のご主人だって、女性と面識があったというのは事実なのかもしれないですけど、それを善と取るか悪と取るかは、相手ではなくて、自分が決めることなんです。これをわかっているかいないかで、人生観はかなり変わってくると思いますよ。」
「自分が、、、そうね。確かに勘違いをしたのは私だったわね。」
彼女もそれは納得してくれたようである。
「そして、その縁と言いますのは、その存在自体は何も意味がありません。ただ、ある。ただ、いる。これだけの事なんです。そして、世の中と言いますのは、そのただの二文字が大量に集まってできています。これを虚空と言う。虚空は、それ自体が人間にとって、どう作用するかは全くわかりません。それは作用しているのではなく、人間が勝手に解釈して動かしているだけですから。不幸な事例という物は、勝手に訪れて、好き勝手に暴れていくと解釈している人が多いですけど、それは、間違いです。人間がただ、勝手に手を入れて、勝手に損得をつけてしまっただけのことです。」
「じゃあ、私、どうしたらよかったのかしら。」
「まあ、よく聞かれますけど、人間っていうのは、どうしても不幸な事例があった時の衝撃に弱くて、そこで躓いてしまうのですが、これをぐっとこらえて、事例に立ち向かうというか、考え方を変えることに意識を持っていくことが何よりも大切です。だって、すべてのものはただあるだけです。それをどうとるかなんて、当事者からしてみればいい迷惑のことですよ。当事者を変えていこうなんてこれほど難しいことはありません。それよりも、どう動いていくかを考えないと。それが、一番大事なこと。」
「そうですか、、、。」
彼女は大きなため息をついた。
「そうですよ。例えば、大きな石を見つけて、自分でよけようとすることができないとき、誰かに頼んでどかしてくれとお願いするか、もうあきらめて帰ろうかとか、そういうことを考えるでしょう?その考えるほうに切り替えることが大切なんです。だって、大きな石はそこにあるだけです。それは勝手に動いてくれるわけではありません。この世に、口に出して言えば勝手に動いてくれるとか、そういう術は存在しませんよ。石は動かないわけですから、それをどうするか。それをまず考えなきゃ。」
正代は、諭すつもりはないのだが、彼女は初めてそれに気が付いたようだ。
「私、そういうことに気が付くの遅かったというか、遅すぎたわ。なんで、教師だったのに、そういうことを教えられなかったのだろう。」
「まあねえ、、、。多くの人は、体験しなければわからないだろうし、教えてくれる人もいないですからね。本来大人になるっていうのは、そういうことも経験しなければだめなんですよ。昔話に登場する若い人は、大体がそうなってますでしょ。それは、ある意味、国中が貧しかったから、若いうちに体験することができたというのも確かですよ。今は周りのものが豊かすぎて、どんどん成長するのに必要な行為が機械に奪われていく。そうして、人間は楽ばかり求めるようになりましたよね。だから、そういう体験に恵まれないで大人になっている人があまりにも多いから、教えてもらえないっていうのもまた確かですよね。」
「そうですね、、、。私も、教師なんかやっている資格はなかったかしらね。」
「資格なんて関係ありません。大事なことは、伝えられるかできないか。それだけの事です。子供はもともと、無色界といって、ただ見ているだけでその裏に何があるのかなんてわからない世界に住んでいるのですから、知らないで当たり前なんです。それを怒ったり、けなしたり、馬鹿にしたりするから、世の中がおかしくなるんです。教えろと言われたら、こうだよとしっかりと伝えてあげられる大人にならなくちゃ。そして、自身も体験したことを、しっかりおぼえていること。そのことに資格なんて必要ありません。誰だって、感情という物があれば、記憶しておくことはできるんですから。子育てというのはね、そういうことをしっかり伝えていくのが一番肝要なのに、最近のお母さまたちは、まるで余分なことばっかり求めて、先が見えなくなっているように、私には見えるんですよ。」
「そうですね。私が、そういうことをしっかりできなかったばっかりに、最初の夫はもちろんの事、私の子供たちも、みんな私の前から消えて行ってしまったのかしら。」
「その事実を掴んだのなら、これからはどうするかを考えていきましょうね。事実は大きな石のように動いてはくれませんよ。できることは、大きな石をどうやって動かすことができるかを考えること。」
「わかりました。でも、もう一つ聞きたいことがあって。」
「なんですか。」
「ええ、そういう失敗から、立ち直るにはどうしたらいいかしら。確かに大きな石を動かすために、一生懸命考えるのが大事だとはわかったわ。でも、その前に、どうしたらいいの?先ほど、人間は衝撃に弱いといったじゃない。その衝撃を取り除いて、意識を変えていくためには。まず、衝撃を乗り越えないと、意識は変えられないわ。」
「そうですね。」
正代は少し考えて、こう答えを出した。
「もし、失敗から立ち直れないと考えてしまうのであれば、その時はもうとことん泣いてもいいのではないでしょうか。そして、頭を完璧に空っぽにしてから、次に同じ失敗をしないためにはどうしたらいいのかを考えるんですよ。泣くなんて子供みたいかもしれないけど、頭は古いものを出してしまわなければ新しいものは浮かばないし、それをいち早く完了するには、やっぱり涙を流して泣くしか方法はないのもまた事実なんです。」
「空っぽ、ですか。」
「そうですよ。例えば、新しい着物を買ってきても、古いものをしまうスペースがなければ、しまえないのと同じことですよ。それに、空っぽでなければ、古い考えの存在が邪魔をして、いつまでたっても新しい考えはおもいついてはくれませんよ。」
「そうですか、、、。わかりました。やっぱり色んな事を知っていて、お偉いのね。」
「いいえ、私も、仏法の本を読んで勉強しただけです。いろいろな経典にそういうことが書いてあるけれど、原文を紹介してしまうと、宗教的すぎて敬遠されるかもしれないから、やめているだけ。古代に創設された、原始仏教の本にさえも、こういうことはちゃんと書かれているんですよ。だから、人間って、いつまでたってもおんなじ課題を求め続けているんでしょうね。そういうところから見ても、事物が存在するだけだっていう結論は、やっぱり間違いではないなと思うんですよ。」
正代は、そこだけは正直に話した。
「そうですか。そういう控えめなところ、なんだかかっこいいわ。あこがれちゃう。」
「何を言っているんですか。私はただヒントを教えただけです。具体的にどうするかは、ご自身で見つけてください。」
「ええ、わかりました。今日はなんか、気持ちがすっとした。長年、話そうと思っても、みな避けてしまって、どうしても話せなかった悩みだった。本当は年長者に聞くのが一番いいんでしょうけれど、そんなこと、教えてはくれませもの。」
彼女は、よほど苦しんできたのだなと、正代は察した。でも、それが解決できるヒントを与えることができたら、自分もその役目を少しだけ果たすことができたと少し自負心を持った。
人間の役目とは抜苦与楽。これが究極の役目である。
「ありがとうございます。すごく楽になりました。また、娘や夫との生活を続けて行けそうです。」
「ええ、私も、お話を伺いながら、勉強になったこともありました。これからも、頑張って生きて行ってくださいね。」
「はい。じゃあ、家族が待ってますから、ひとまず帰ります。ありがとうございました。」彼女は、白い和紙に丁寧に包んだ相談料を正代に渡すと、座布団から立ち上がった。正代は急いで領収書を書いて立ち上がり、彼女に渡した。
「おかえりはどんな手段で?」
「あ、ああ、娘が迎えに来てくれることになっていますわ。」
「じゃあ、ご連絡されます?」
「え、ええ。大体の時間は言ってあります。ちょうど買い物に出ているので、時間になったら、お寺の正門へ来てくれるって。」
「そうなんですか。ずいぶん優しいじゃないですか。」
「そ、そうですね。まったく、そういうところだけは優しくて。誰に似たんだか。」
彼女は、全く、という感じで、頭を掻いた。
「それはもしかしたら、お母様の力かもしれないですよ。」
事実、そうなってくれればうれしい。
「そ、そんなことないですよ。まったく、放置しっぱなしで、何も上品な育て方はしてきませんでしたよ。」
「ほら、余分なことを考えないで。」
「すみません。」
二人は、そんなことを言いながら本堂を出て行った。
本堂から、正門に向かって歩いていくと、一台のセダンが止まっていた。
「お母さん遅いわよ、早くしないと、見たいテレビが始まっちゃうじゃないの。急いで帰るわよ。」
見ると、彼女にそっくりな顔をした、でも優しそうな顔をした若い女性が、運転席に座っていた。
「ああ、ごめんなさい。話が弾んでしまって、遅くなっちゃった。じゃあ、今日はありがとうございました。絶対に忘れないようにしますから。」
「はいはい。頭ではなく心で覚えていられるようにしてください。」
「はい!頑張ります!」
女性は、そういって敬礼すると、セダンに乗り込んだ。
「お世話になりました!」
娘さんは、にこやかに挨拶をして、セダンを走らせた。あっという間に、セダンは、道路を走って行って、見えなくなってしまった。
「恵子先生もやっと、こういうことに気が付いてくれたのかな。」
それにしても私が、恵子先生に、こうして伝える羽目になるとは。正代自身も少し驚いていた。
「空は快晴か。裕康さん、どこかで今のやり取り聞いていてくれたかな。」
そっと空を見上げると、雲の間から、何か言いたそうに陽の光がこぼれている。正代は、それだけ確認すると、いつも通りの念仏の続きを行うために、静かに本堂へ戻っていった。

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