光と壁と

増田朋美

第十三章 倒れる

第十三章 倒れる
正代の机には、小さなビニール袋が置かれていた。それを持ってみると、砂をいれたようにずっしりと重かった。ある、SNSで知り合った人にもらったものであったが、その人はこれを使うと勉強が捗るから、便利だぞと豪語していた。正代は、一度も試したことはないが、その氷のようなものは、使うと確かに気持ちよいのかも知れないが、それ以外では、まったく役にたたないと言うことを知っていた。これは、持っているだけでも警察が犯罪者として嗅ぎ回るものであることも知っていたから、もうどこかへ捨ててしまおうと思った。といっても、自宅のゴミ箱ではまず捨てたとしても意味がないし、近隣のごみ捨て場でも見つかったら大変だ。なので、置きっぱなしで放置するのではなく、自動で勝手に動く場所に捨てるべきだろう。動くというと、動力が必要だが人工的にするのは人出がいる。自然のなかで、止まることなく動いているものがあるかと考えると、それは川だ。でも、近隣の多摩川では、名前が知られているし、捨てているすぐ誰かにみつかってしまう。それではどうしよう、と考えていると、熊川駅の近くに名前はわからないけど別の川があるのを思い出した。よし、あそこへ捨てよう。正代はそう決断して、カバンを持ち、余分な物品をカバンに入れて、家族には文房具屋にいくといって家を出た。
とりあえず適当に歩いて、熊川駅の前を通ったが、ほとんど人には会わなかった。熊川駅も無人駅だし、改札をする駅員に声をかけられることもない。正代は、もうしばらく歩いて、例の川まできた。川にかかっている橋の上にたって見下ろすと、さほど大きな川でもないが、やっぱり自然動力で結構速く流れていた。これなら都合がよかった。正代は周りに人がいないことを確認すると、カバンをあけて、例の物体を川の中へ投げ込んだ。川は、よろこんでとでも言いたげに、それを流してくれた。
安堵した正代は、急いでカバンを閉めて、何事もないように、もと来た道を帰ってきた。しばらくあるいて、熊川駅の近くまで来たとき。
「こんにちは。正代さん。」
と、声をかけられた。
「へ?」
振り向くと裕康であった。
「ど、どうしたんですか?」
正代がきくと、
「はい、どうしても借りたい本があったのですが、こちらの図書館にいかないとないと言うので、取りに来ました。いまは、その帰りです。」
という。そういえば、そうだった。市立図書館は、熊川駅のあたりにある。確かに裕康は風呂敷包みを持っていて、その中から、借りた本のタイトルが見えていた。
「歩いてきたんですか?もしかして。」
「いえ、タクシーで来ました。電車は乗り降りがきついものですから。歩くとちょっと遠いし。」
確かにそうかもしれないな。この辺りの電車は、本数もすくないし、返って時間がかかる。タクシーが一番便利かもしれない。
「もう、予約したんですか?帰りのタクシー。」
「いえ、まだですけど。」
「じゃあ、私とります。」
正代は言った。ばれないように、彼のご機嫌をとる必要があった。
「でも、料金など。」
「折半でどうですか?その方が一人で乗るより互いにやすいでしょ?」
「そうですね。じゃあ、おねがいしようかな。」
裕康がそういったので、正代はすぐにスマートフォンをだして、一番高級なタクシー会社に電話した。五分位したら来てくれると言う返事だった。
「正代さんは、どうしてこちらに?」
不意に裕康がそう聞いてきた。
「いえ、ちょっと用がありまして。」
「図書館で勉強でも?」
「あ、あ、ああ、そ、そういうことです。」
「そうなんですか。わかりました。」
裕康はそれ以上聞かなかったので、正代はほっとため息をついた。そこへ車のクラクションが鳴った。
「あ、タクシーが、来ましたよ。」
正代が前方を指差すと、一台の立派なピカピカの高級車が現れた。横山観光とドアに書いてあった。
「あれ、観光タクシーなのでは?」
「ええ、この辺りは、この会社しかないのです。」
正代は、そういっていたずらっぽく笑った。
「そうなんですか。結構不便なのでは?」
「そんなことありません。運転手さんも親切ですし。」
正代が手をあげると、高級車は目の前で止まった。
「私が、電話した者ですが。」
「はい、篠田さまでよろしかったですか?」
運転手は白い手袋をしていた。
「ええ、そうです。」
「わかりました。どちらまで?」
「はい、僕は東福生までで、」
と、裕康はいいかけたが、
「ええ、私は、もう少し先なんですよ。そこへいったらまた続きを言いますから、とりあえずおねがいします。」
と、正代はにこやかに言った。
「とりあえず、東福生にむかえばいいのね。」
二人は運転手の指示に従ってタクシーに乗り込んだ。
さすがに高級車だけあって、エンジンの音はものすごく静かだった。
「私、結局、東大は受験しないことにしました。」
正代は、裕康に言った。
「よかった。」
と、裕康は返してくれたが、その言葉が、どうも耳についた。
次の瞬間、苦しそうなうめき声と、咳の音がしてきたので、
「大丈夫ですか?」 
と、正代は急いで聞いた。幸いにも、数分で治まったが、しばらく、返事はできないようであった。
「お客さん、もしよければ病院までいってみますか?」
運転手が心配そうに聞いたが、裕康は首を横にふった。本当は、いく方がよいのではと正代は提案したが、裕康は首を縦には振らなかった。
「お客さん、着きましたよ、東福生駅です。」
目の前に東福生駅の文字が見えた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。もう出ますから、彼女は公園の近くまで、」
裕康はそれだけをたどたどしく言った。
タクシーは、駅のロータリーで止まった。
「すみません、僕の不注意で。これで、二人分たりますかね。」
そういって、一万円札を出した。
「あたしは、あたしの分をきちんと出しますよ!」
ビックリした正代はそう返したが、
「いえ、迷惑かけてしまいましたし。」
言い方が強かったので、正代はそれ以上言えなかった。
「はい、とりあえずお釣りです。」
運転手から大量の千円が渡されると、裕康は丁寧にそれを受取り、
「あれを、川に捨てるだけの意志があってよかったです。二度と、あれには、手を出さないでくださいよ。」
と言った。
「み、見ていらしたんですか。」
じゃあ、捨てたものが何なのか知られてしまっただろうか?
「ええ。あれは常用しないほうがいい。本当に、使っているとろくな目に会わないですよ。」
裕康は、タクシーを降りた。
「じゃあ、公園のほうまでお送りすればいいのですかね。」
「ええ、そうしてください。じゃあ、どうもありがとうございます。彼女も急いでいると思いますので。」
いつの間にか、裕康が主導権をとっている。正代が、礼を言おうとすると、運転手がドアを閉めてしまって、タクシーを勝手に動かしてしまったので、それ以上話は続かなかった。一人になって、正代は、強烈に不安になった。せめて裕康に、他言しないでくれと言っておくべきだったと後悔した。正代は、こっそりとスマートフォンを出した。こうなったら、自分で決別するしかないと思った。例のSNSを開いて、先ほどのろくな目に会わない物質をくれた人に、こっそりメッセージを送信した。

河野家では、相変わらず娘と父の骨肉争いが続いていた。
娘は、進歩することなく何かしらのきっかけで暴れ、家の窓ガラスをたたき壊したり、壁に穴をあけたりする。いくら病院やそのほかの機関に相談しても、一時的に落ち着くことは落ち着くが、すぐに何かのきっかけで、周りのものを壊す。
それはそうだろう。いくら、誰かに慰めてもらっても、不安定になった元凶と同居しているのだから、改善はされない。
こうなったら、こうするしかない。自分は、親を捨てた悪人呼ばわりされるかもしれないけど、娘のほうが、はるかに長く時間を持っている。それを考えると、短い時間しかない親に媚びているよりも、娘を何とかしなければと史子は思った。それに、何よりも大事なことは、娘を先にいかせることは絶対に許されないということだ。
かといって、新宿や渋谷へ出ていくのは、治安が悪すぎて、かえって怖い。あまり片田舎でも今度は医療的に不便になる。史子は、こっそり不動産屋さんにも相談して、どこかの新土地を一生懸命探した。東京都内には見つからず、近隣の埼玉か千葉などに出たほうが良いと言われた。不便かと思ったら、意外にそうでもないらしい。池袋と高田馬場へ30分程度で出られる場所があると不動産屋が教えてくれた。そこであれば、評判の良い精神科の病院もあると、聞かされた。
「あなた。」
ある日、仕事から帰ってきた夫に、史子は言った。
「これ以上、ここにいると大変だから。」
「そうだな。」
夫も、その時を待っていたような節があったが、はっきりしなかった。
「でも、どこにいくんだ。知っている土地なんてどこもないじゃないか。」
「私、調べたんだけど。埼玉のほうに良いところがあるらしいのよ。」
「埼玉か。」
「会社だって、新宿にあるんだから、すぐに出られるって、不動産屋さんも言ってた。」
「確かにそうかもしれないけど、お父さんはどうする?近所の人にはなんて言う?」
「そんなの、もうどうでもいいのよ!だって、このうちを、めちゃくちゃにしたのは、あの人なんだもの。あなただって、ずっと、抑圧されてきたでしょう?」
夫の、唇が少し震えた。
「そうだな。」
「きっと、そういうしらない土地へ行けば、舞も少し落ち着くのではないかしら。ここでは、うちの事を言えば、近所の人たち皆私たちの事を知ってる。それがいけないのよ。」
「でも、お前は大丈夫なのかい?」
不意に、見透かしたように夫が聞く。
「ええ、私は大丈夫!だってもうすぐ50になるんだもの!お父さんを何とかとか、それ私が甘えているからだと思うの。それじゃあいけないわ。私も親にならなくちゃ。親が親におびえてどうするの。」
史子は、少し迷いもあったが、すぐにそれを振り切るように言った。
「そうかそうか。」
夫は、やっとそうなってくれたという顔をして、大きなため息をついた。夫から見れば、ただの親に依存した変な奴にしか見えないのかもしれない。それが嫌で私や父とかかわるのを避けてきたのだと、史子は気が付いた。
「50になって、やっと親離れか。」
「ええ、ある意味では舞がきっかけを作ってくれたのかも。舞に感謝しなきゃ。」
「大人になったよ。」
その一言で、史子はやっと自分が一人前になれたという気がして、心から喜んだ。夫からして見れば、当たり前のことを言っただけで、特に意味はないのだが、史子は素直にうれしいと思った。
「よし、今日は史子の独立記念日だ。じゃあ、その新しい土地について、もう少し詳しく調べてみてくれ。舞も、新しいところで新しい居場所があったほうがいいと思うから。そこはしっかりしてやらないと、捨てられたと勘違いして、余計に悪化することになりかねないからな。事実、そういう事例もテレビで放送されていた。ここは頼むよ。」
男性という物はそういうものである。一度決めれば、すぐに次の手立てを考えることができてしまう。だからこそすごいのだと思う。女性は、感情に流されてなかなかできない。
「そうなると、作業所とか、そういうところかしら。」
「うーん、あいつはプライドの高い子だから、そういうところよりも、教育機関のほうが良いと思うぞ。作業所のような福祉的なところでは、また捨てられたと勘違いするかもしれないし。とにかくそこに放り込んだという印象を与えないことが肝要なんだ。」
「また、怒ったりしないかな、、、。矯正施設に移動させられたとか。」
「いや、それはないだろ。むしろ、自分の事をやっとわかってくれたと言って、喜ぶんじゃないのか。とにかく矯正をさせると謳っていないところを探すのが大事だろう。」
むしろ、夫のほうがそれを望んでいる感じだった。
「わかったわ。」
史子は、決意を固めた。
「じゃあ、私、もう一度病院と不動産屋さんに聞いてみる。インターネットで調べてもいいと思うわ。」
「そうだよ。逆を言えば、お父さんが、自分の失敗を認めるには、そうするしかないんだよ。俺たちが、態度で示さなきゃ。口でいくら言ったって、全くわからないんだから。」
「ええ。そうね。私、あなたを選んでよかったわ。」
「馬鹿。そんな映画みたいなセリフはいらない。それより、先に何をするかを考えないと。」
夫はそういうが、決して否定はしなかった。まあ確かに、かっこいいセリフを言っている暇はないのであるが、史子はそれだけは伝えておきたかった。
「じゃあ、新しい出発!」
史子のうれしそうなセリフに夫は変な顔をした。もう、素直じゃないわねと思いながらも、自分の主張が受け入れられた史子は、幸せだった。

数日後。
恵子が、仕事を終えて家に帰ってくると、郵便ポストに手紙が入っていた。ずいぶんきれいな筆跡で、あて先は、裕康であった。差出人をみると、「河野史子」と書いてある。
「やっぱり、あの人不倫しているんだわ。」
恵子は、手紙を破り捨ててしまおうと思ったが、証拠として残しておくことにした。そのまま何食わぬ顔をして、玄関のドアを開け、部屋に入った。
「ただいま。」
部屋はシーンとしていた。時々友蔵が、心配そうになにか言っている声が聞こえてくるのみだった。恵子は、挨拶をする気にもならず、手紙を渡す気にもならず、自室へ入ってしまった。
時折、せき込む音と、それに付随して友蔵の鳴き声がする。恵子は、うるさいと思いながらも声をかけずに仕事をしていた。手紙は、机の引き出しにしまっていた。
その翌日。無言のまま恵子と裕康はいつも通りの朝食をとった。恵子は言ってきますも言わないで、仕事に出て行った。

同じ日、正代は自主学習の日だったので、学校には行かなかった。家でマンドセロの練習をしていると、スマートフォンがなった。例のSNSでメッセージが届いていた。あの、川に捨てた物質をくれた人からだった。正代は、そのメッセージを声に出して読んだ。
「今日学校にいかない日でしたよね。会いに来てくれませんか?こないだ、変なものを差し出してしまったとわかったので、お詫びしたいです。」
正代は、忙しいのでまた今度にしてくださいと送信した。すると、
「今日でないと、次は一月後になります。」
と、受信したので正代は今日しかないと思った。どこで会えばいいのかと聞くと、
「公園で待っています。」
と、返ってくる。公園であれば多かれ少なかれ人がいる。つまり、人の少ない路地裏や、いかにも不良っぽいゲームセンターで会おうというわけではないので、基本的に善人なのだろうと正代は思った。
急いでマンドセロをケースにしまい、カバンをとって、スマートフォンを中に入れ、部屋を出た。
外へ出ると、今にも雨が降りそうだった。家族には、ピックが壊れたので楽器屋さんに言ってくると言っておいた。人に会うと言えば、心配しすぎていろいろ詰問されるだろうし、もしかしたら、川に捨てたこともばれてしまうかもしれない。とにかく、すぐに用件を済ませて帰るつもりだった。
公演に入ると、天気が悪いせいか、人は全くいなかった。これを読み取るのを落としていた、と彼女は感付いて、急いで帰る口実を作ろうと、スマートフォンを取り出すと、
「ごめんなさい。お待ちしてました?」
後を振り向くと、中年近い男がいた。
「あ、、、。」
「すみません、篠田正代さんですよね?」
そう言えば、あの時あった顔と同じだ。
「やっと思い出してくれましたか。あの時は、変なものというか、危険なものを渡してしまって本当にすみませんでした。本当にただの、勉強がはかどる薬としか聞かされていなかったのです。」
「使ったんですか?」
と、正代は聞いた。
「いや、他にもらった者から聞いただけで自分はしていないのですが、それでも大変な目に会ったようです。本当にすみませんでした。二度と正代さんには、手を出しませんから、、、。」
まあ、この顔を見れば、本当のことを言っているように見えた。
「もう、会わないでください。」
正代はそれだけやっと言った。
「わかりました。じゃあ、そう致しましょう。改めて言いますが、本当にすみませんでした。」
再度、男は最敬礼した。
「はい。じゃあ、私、帰りますから。」
「ああ、お詫びに送っていきますよ。俺、車持ってきますから。」
急に男がそんなことを言ったので、正代はギクッとし、どうしようと思った。
「安心してください。家の近くでおろしますから。じゃあどうぞ。」
「あ、あ、ああ、、、。」
正代は、いよいよ怖くなり、どう返事をしたらいいか困っていると、
「どうしたんですか?そんなに信用できないですか?」
なおも畳みかけてきた。思わず泣きそうになる。ど、どうしよう!そればかり考えてあたまが回らない。膝ががくがく震えながら、一生懸命言い訳を考えていると、
「正代さん待って!」
より細い男性の声がして、走ってくる草履の音と、犬一匹の鳴き声が聞こえてきた。
裕康である。
裕康は、少しばかり荒く息継ぎしながら、細く、でも厳しい口調でこう言ったのだ。
「この人を、連れ去りたいのなら、まず、この僕を倒してから行きなさい!」
目の前の男の顔がみるみる変わった。邪魔されたという思いと、警察に見つかるのではないかと思ったのだろう。急げ、逃げろという表情になった。すると、高らかな吠え声と一緒に友蔵が、犯人にとびかかった。子供だと言われていたが、さすがは「鹿」を狩るディアハウンド。しかし、あと一歩のところで犯人は振りほどき、友蔵を公園の芝生に投げ飛ばした。
「この野郎!よくやってくれたな!」
犯人は裕康に殴りかかった。力のない裕康はあっけなく倒された。犯人がとどめをさそうと、地面に蹲った裕康の腕をつかむと、びりっという音がして着物の袖が破れた。骨っぽい左腕に、気持ち悪いほどグロテスクに描かれた桐紋が現れると、思わず犯人はその手を緩めてしまった。そこへ、再び友蔵が後ろからとびかかってきて、主人を犯人から引き離すことに成功した。それでも体の大きかった犯人は、友蔵を振りほどいた。正代が、もう一度殴られるのかと思いきや、犯人は何かわけのわからない叫び声をあげながら、逃げて行ってしまった。友蔵も、吠え声をあげながら、犯人を追いかけて行った。
後にはこの一部始終を見ていた正代と、うずくまっている裕康が残った。
ざーっと雨が降ってきた。まるで車軸を流すような大雨だった。
「ご、ごめんなさい、だ、大丈夫ですか、、、。」
正代は声をかけたが、裕康は振り向かなかった。
「あの、、、。」
思わず、肩に手をかけようとしたその時、
「早く行き!」
と、一言、厳しい口調で返ってきた。正代は、すぐに何があるのか読み取り、礼も何も言わないで雨の中自宅へ向かって走っていった。とても、そんなことを言うのを許す口調ではなかったし、彼女自身も、怖くて早く逃げたい気持ちだったから、もう後ろを振り返ることもなく、逃げた。
正代は、結局そのあと何が起きたかは知らない。

数時間後。別の授業を受けるため、房恵は登校していた。さて授業を終えて帰ろうかと思ったら、外は大雨になっていた。廊下で、鈴木先生とすれ違い、今日は雨だから気を付けてかえってね、なんて会話を交わして、下足箱に行って靴を履いたりしていると、犬の吠え声がしている。こんなところに野良犬なんか来るのだろうかと、房恵はその声がする方に行ってみた。
外へ出ると、すぐにびしょ濡れになった。声は校門の方から聞こえてくるので、濡れてしまうじゃないのと不満を漏らしながら、そちらの方へ行ってみると、そこにいたのは見覚えのある犬だ。首輪は引きちぎられてしまっているが、確かに友蔵である。
「友蔵君、どうしたの?」
友蔵も彼女が誰だかわかったらしい。こっちへ来い、と合図するように目配せして、急に走り出した。
「待って、どこに行くの!」
房恵は濡れるのも忘れて、友蔵の後を追いかけた。友蔵は彼女を公園まで誘導した。彼女が、そこへたどり着くと、目の前に裕康がうつぶせに倒れていて、全身ずぶぬれになっていた。
「裕康さん、裕康さん!しっかりしてください!」
口元へ指をもっていくと、まだ息はあった。口の中から少しばかり血も流れていて、おそらく血胸を起こしていたのだろう。
「あたし、救急車呼びますから!もうちょっと、辛抱してくださいね!」
「やめて。」
細い細い、しわがれた声だった。
「どうしてですか。だって呼ばないと大変なことになり、、、。」
と言いかけたが、左手の桐紋のためであると、理由が分かった。子供の患者などは怖がるかもしれないし、入れ墨を入れた者は、一部の検査ができないことがあると聞いたこともある。
「でも、ここに放置させておくわけにも行きません!とにかくお宅へ帰らないと。」
房恵は裕康を持ち上げて、背中に背負った。驚くほど軽く、片腕でも十分抱えられるくらいだ。友蔵が、先導するように歩き出したので、房恵はそのあとをついていった。数分歩くと、裕康の自宅マンションにたどり着いた。裕康の冷たい手から渡された鍵を受け取って、房恵はドアを開けて、部屋に入った。そして、裕康をちゃぶ台の前にあった座椅子に座らせた。
部屋は、きっちりしすぎているほど片付いていたから、房恵はすぐにタオルを探し出し、体を丁寧に拭いてやった。そして、四畳半の部屋に行くと、積まれた着物の中から布団を探し出して敷いてやり、再び食堂へ戻って、彼を布団の上に寝かせてやった。さすがにぬれた着物を取り換えてやることは、房恵はできなかった。
「ごめんなさい、、、。」
それだけ言うのがやっとらしい。
「ごめんなさいじゃなくて、大丈夫なんですか?」
「ええ。」
一言、そう言っただけで、また咳を繰り返した。
「お宅の方に、連絡を入れなきゃ。」
裕康は激しく首を振る。
「なんでです。」
「早くおかえりなさい。さもないと、、、。」
どうやらそうしてくれと、懇願しているらしい。さもないとの先は何なのか、房恵は知りたかったが、その桐紋のせいだとわかった。
「わかりました。じゃあ、あたし帰りますが、無理はしないでくださいね、、、?」
「急いで。あと、くれぐれも他言はしないように、」
「はい!」
房恵は、心配で仕方なかったが、裕康がそういうので立ち上がり、しぶしぶ家に帰っていった。他言しないでと言ったのは、なぜなのだろうか。

そのまま数時間経った。何も知らない恵子は、いつも通り仕事を終えて、また嫌な気持ちになりながら、自宅マンションに帰った。もうその時は雨が止んでいた。
ガチャンとドアを開けると、裕康の草履があった。それはびしょびしょに濡れていて、片一方しかなかった。どこかで落としてきたのだろうか。でも、草履を片方落としてくるなんて、あり得ることだろうか?
「ちょっと、何かあったの!」
恵子は思わず言った。返答はなかった。四畳半の部屋のふすまを開けてみると、寝る時間でもないのに、布団が敷いてあって、裕康が全身びしょ濡れになったまま、横向きに横になっていた。
「裕康!」
「お、おかえりなさい。」
意識ははっきりしており、言葉も言えるようであるが、その声は非常に弱弱しかった。
「どういうこと!」
裕康は答えない。
「答えないなんて、そんなのずるいわ!」
「恵子さんのためでもあるんですよ。」
この一言は癪に障った。もう、カチンときた。怒り心頭だった。
「そう!あなたは自分で自己管理を怠ったのに、そういうかっこいいセリフを言うわけね。わかったわ。もう、好きにすれば!もう、愛人の河野さんにでも来てもらえばいい!」
裕康は黙っていて答えない。代わりのものと言ったら、せき込むことだけである。友蔵が、軽蔑するような目で彼女を見て、また何か吠えだした。恵子は、友蔵を新聞紙で殴ってやりたかったが、大きな犬であるのでそれはできず、ピシャンとふすまを閉めて、自室に入ってしまった。恵子にとっては、職員室謹慎がとけて、やっと仕事をもらってきて、うれしいなと思っていた矢先の出来事なので、余計に不満も大きかった。いらいらして落ち着かず、せっかくもらってきた仕事も手につかない。もう、何回も頭をかじって、机をたたいても、落ち着かなかった。せめて精神安定剤でもあれば、どんなに楽だろうと思って、急きょ、ドラッグストアに行き、イライラを止める薬を買って、がぶ飲みしたくらいだ。それを飲むと、少し落ち着いて、仕事ができるようになったので、恵子はとにかく書類を書いてしまうことに集中した。何が聞こえてきても無視していた。いつも通りに夜遅くまで仕事をして、風呂に入って、そして寝た。
翌日、裕康は食事には来なかった。何も言わないで恵子は一人で食事をとり、学校へ出かけて行った。そして、その晩は家に帰る気にはならず、駅の近くのホテルに泊まった。事実上の別居であった。

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