光と壁と

増田朋美

第八章 ディアハウンド

第八章 ディアハウンド
恵子と裕康の新しい生活が始まった。
とりあえず、二人は契約した福生市のマンションに移り住んだ。
本当は、恵子の両親を説得するという第一関門を突破しなければならなかったが、おじさんの天川さんが、父に手紙を出してくれたので、しばらく福生で暮らすことは許可された。それに、恵子の父もかなり折れてくれていたようだ。おじさんの話ではかなり迷っていたが、やっと決断してくれたらしい。まあ、そうなったのは、母の助け舟もあったと思う。母が、もう支配的な祖父もいないのだから、と、父を和らげてくれたようである。恵子はこれは本当に幸運だとおもった。こんな幸運が待っているのだから、きっと幸せになれるだろうと思った。
恵子は、東福生駅の近くにある、通信制高校で、保健体育を教えることになった。一方の裕康は、自宅マンション内で、和裁の仕事をすることになった。新しい依頼客を集めるのにかなり苦労するのではないかと二人は心配していたが、SNSの利用で杞憂に終わった。ある有名なSNSを使えば、そのSNSの利用者からかなりの客を集められた。というのはSNSの中に、着物をテーマにした投稿とかコミュニティと言われるものが、かなりあり、そういうところの利用者が、依頼をしてくることが多かったのだ。最も多かった依頼は、身幅直しであり、次いで身丈直し、裄直しなどであった。裕康は小さなことでも、喜んで引き受けたので、客の間で高い人気を獲得することに成功した。客と詳細なやり取りをするために、裕康も、苦手だと言っていたスマートフォンを持った。スマートフォンで連絡を取り合って、客が直してほしい着物を持ってマンションに来訪し、仕立てが終わるとまた直ったものを取りに来るという形で営業していた。
ただ、都会というか、場所が変わるとそうなるのかもしれないが、恵子はちょっと悩んでいることがあった。結城市であると、結城紬で有名になっているところなので、着物を着ていても、変な目で見られる確率は意外と少ないのだが、福生では、着物という物は非常に珍しい存在であり、着物で道路を歩いていると、周りの人から変な風に見られる事が多々あった。それでも裕康は、決して洋服は身に付けず、いつでもどこでも何をするにも着物で出かけていた。本人の話によると、洋服では骨っぽい体がもろに見えてしまうのでもっと気持ち悪く見え、それでは嫌だからという理由をあげていたが、恵子は、自分のほうが周りの人の批判を一斉に浴びせられるような気がして、裕康と一緒に歩くのがたまらなく苦痛になるときがあった。特に子供から、直接的な批判をされたときは、穴があったら入りたいくらいになったこともあったほどだ。
一方の、彼女は、職場では非常に充実した日々を送っていた。もちろん、授業を真剣に受けてくれるということは言うまでもないが、何よりも自分の事を先生と言って、慕ってくれる生徒が多いのがうれしかった。通信制の学校であったから、毎日同じ顔の生徒と接するということはなく、教える生徒の年齢も現役の高校生から、高齢者まで実に様々であり、授業内容も、非常に初歩的な物から、専門的な体育授業まで要求されるが、それが恵子にはたまらなく快感だった。恵子は、この高校にやってきて、ああ、これが私だ!と初めて実感することができた。
そんなわけだから、高校で教えているときは何よりも楽しかったが、家に帰ると、テレビもラジオも何もつけずに、ひたすらに寸法直しの仕事に没頭する裕康と顔を合わせるのは結構つらいものがあった。学校ではいろんな生徒の声が聞こえて、おもちゃ箱をひっくり返したような、という表現がぴったりなくらいにぎやかで、恵子はそれがとても心地よいが、家に帰れば、ただ針と糸を動かす音しか聞こえてこない部屋で、ぼさっとしていなければならない。裕康は、テレビが何より嫌いで、隣の部屋であってもテレビをつけることを認めなかった。テレビは面白いと思うのだが、映像を見ても何か利益が手に入るのでもないし、内容がばかばかしくて嫌だと裕康は言うのだった。テレビを通して聞こえてくる汚い発音も裕康は嫌いだった。
そんなわけで何よりも嫌いなものが休日であった。恵子の勤めている高校は、基本的に土日休みであったから、土日は授業が行われないし、基本的に生徒は来ない。一般科目であれば、多少の補習などはあったが、恵子の科目は保健体育であり、補習をやることはなかったので、恵子は休日出勤をする必要はなかったから、学校へはいかない。なので恵子の休日は、裕康が縫物をしているのを黙ってみているか、自身の仕事用の書類などを書いたり、あるいは、炊事洗濯などをする生活であった。と言っても裕康は大変な吝嗇家であり、自身で洗濯もするし、食事も作っていたので、恵子がやる家事と言えば、ほとんどなかった。
他の教師は、補習をやるとか、時には問題がある生徒の家庭訪問とかで、休日出勤をすることもあり、それを非常に意欲的にこなしている教師が多いので、恵子はまた窓際に追いやられたのかと思われた。それに、通信制というものは、一日中同じクラスで勉強をするということはまずなく、ほとんどの生徒は来校する必要があるときだけ学校にやってくるので、担任制度という物が存在しない。なので、一人一人の生徒を徹底的に、ということができないのは少し不満だった。
しかし、ここでは、何よりも自分を慕ってくれる生徒は、公立高校よりもたくさんいたし、悩みがあって相談を求めてくる生徒も多数いる。特に、体育教師であった恵子には、養護教諭ほど詳しくはないが、体の事で相談を求めてくる生徒が多かったから、恵子は喜んでそれに応じた。
家の中では恵子は、何もいらないように感じていたが、裕康は車の運転をすることができないため、大掛かりな買い物は車で一緒にいく必要はあった。と、いっても、それが実現することはまれである。なぜなら、東福生駅の周りに商店街があって、ちょっと歩けばすぐに何かを買うことは可能であるからだ。食品などは、近くのスーパーマーケットで入手できたし、衣料品は、また近隣にある大型のショッピングモールで入手できる。近くにない店舗は、裕康が道具を買いに行く手芸店と、反物を買う呉服店くらいである。といっても、三十分に一本しか走っていない八高線に乗れば、それらの店にたどり着くことは可能だが、買ってきた反物は大きすぎて、電車で持って帰ることはできないから、車を使うことになるのだ。ただ、反物を買いに行くなんて機会は非常に少なかった。殆どの業務は、「仕立て」ではなく「寸法直し」だからである。いつの間にか、車の使用率は、結城市で暮らしていたころの、十分の一程度にまで減ってしまっていた。それでも車を使用するときはあるじゃないか、そして、学校へ行けば、生徒が自分を慕ってくれるじゃないか、大丈夫、自分の居場所はある。恵子は毎日毎日そう自分に言い聞かせて生活するようになった。
その日も、恵子は高校へ出勤し、楽しく授業を行った。夕方になってくると、次第に憂鬱になってきた。そうこうしているうちに、生徒の下校時間がきて、補習をしていた生徒を含めて、すべての生徒を自宅へ返し、教師も帰宅する時間が来た。憂鬱で、重くなった頭を無理やり動かしながら、恵子は八高線に乗った。そして、駅から出て、マンションに向けて歩いた。
自宅マンションの近くまで来ると、なぜか裕康の部屋ではなく、居間の明かりがついていた。普段、裕康は奥の四畳半の部屋で仕事場と寝室を兼ねていて、恵子が帰ってくる時には、とっくに食事を済ませて、仕事をしているのが通例なので、居間の明かりは消えているはずである。
「ただいま、、、。」
恵子はゆっくり、玄関のドアを開けた。
と、いきなり聞こえてきたのはワン!という犬の鳴き声であったので、恵子は驚いて、
「どうしたの!まさか野良犬がうちに?」
と思わず素っ頓狂に言ってしまった。居間に入ってみると、ちゃぶ台の前に座って裕康が何か書いていて、隣に、針金のような毛をウエーブ上にはやした灰色の大型犬が、たっているのが見えたのである。
「友蔵、静かに。この人は悪い人ではありませんよ。」
「ともぞう?」
思わず恵子は、持っていたカバンを落とした。
「ああ、おかえりなさい。友蔵とは彼の名前ですよ。友人の友に土蔵の蔵と書いて友蔵。僕が、適当につけてしまいました。今、鑑札を書いていたところで。」
そう言って裕康は、持っていた油性ペンを置き、
「友蔵、こっちへいらっしゃい。」
犬を招き寄せ、その首に赤い色の首輪を巻いた。首輪に付けられた鑑札には「小川友蔵」という名前と、恵子と裕康の住所、電話番号までが、達筆な文字で書かれていた。犬は首輪をまかれたときでも全くおとなしくしている。
「どういうことよ!」
恵子が語勢を強くして聞くと、
「ああ、拾ってきたんです。買い物帰りの途中で。非常に珍しい犬種だったので野良公にしてしまうのもかわいそうだし。雄犬だったので、友蔵と付けました。首輪と鑑札は、ショッピングモールにあるペットショップで買いましたよ。」
と、答えが返ってきた。
「珍しいって、どう見てもただの雑種なのではないの?」
「いえ、違いますね。正式には明日あたりに、動物病院で鑑定してもらおうと思っていますが、おそらく犬種はディアでしょう。かつて鹿を狩るための犬としてよく飼われていたのでディアハウンドと呼ばれていた犬種ですね。ちょっと調べてみましたが、イギリスでは伯爵以上の身分でないと飼ってはいけなかった時代もあったそうです。日本では、人気は最悪だそうですが、何でも飼い主には絶対服従、誰にでも優しいので、世界一安心して飼える犬として評価は高い犬みたいですよ。」
恵子にはただの雑種にしか見えなかったが、確かに静かにと言われれば声をあげなくなっており、こっちへいらっしゃいと言われれば素直にやってくるので、頭はいい犬だと思われた。
「エサなんかはどうするの?どこで買ってくるのよ?」
「とりあえず、ペットショップに行って、ドッグフード買ってきました。マンションの管理人さんにも言っておきました。気持ちよく承諾してくれましたよ。犬を飼っているお宅は多いから遠慮なくどうぞって。」
ちゃぶ台の近くに犬の写真と、ドッグフードと書かれた袋が一つ置かれていた。本当に用意周到だ。恵子は、これは自分の負けだと思った。
「とりあえず、明日は新規の依頼がないので、ちょっと動物病院まで行ってきます。もしかしたら、狂犬病ワクチンとかお願いできるかもしれないので。」
そういって裕康は友蔵の頭を撫でてやった。
「勝手にすれば!」
と、恵子は早々、自分の部屋に行って、ドアをばたんと閉めてしまった。そのあとはもう知らないと思った。
翌日、恵子と裕康は、無言で朝食をとった。友蔵は、その間ちゃぶ台の近くにずっと座っていたが、やんちゃに走り回ることもないし、変に吠えたり遠吠えをしたりもしないで、静かにしていた。確かにこういうところは、雑種ではないのかもしれなかった。
朝食をとって、しばらくした後、裕康は黙ったまま、友蔵をひもでつないで動物病院に行ってしまった。恵子は、見送りもせず、部屋に閉じこもっていたが、裕康がいなくなったので、久しぶりにテレビを見ようと、テレビのリモコンを探していると、突然インターフォンが鳴った。宅急便でも来たのだろうか?
「はい、どなたでしょうか?」
と、恵子が玄関のドアを開けると、中年の夫人が、腕組みをして立っている。服装から見てみると、かなり金持ちのお母さんという感じだ。
「失礼ですけど、あなた、あの着物の方の奥さんですよね。私の家族が、一緒に歩いているのを見たと言っていましたので!」
夫人はつっけんどんに言った。
「昨日、うちの息子が、野良犬に噛まれそうになった時、お宅のご主人が飛び込んできて、野良犬は僕が引き取るので、今回は許してくれと懇願したのでとりあえず許しましたけど、うちの子には何も言いませんでした。これはどういうことでしょうか!」
「ど、どういうことですか。私、何も知りませんけど。」
恵子は、まるで何があったのかわからないので、とりあえず行った。
「知らないんですか?」
夫人は馬鹿にしたように言った。
「しりませんよ。私、普段は別の職場で働いていますもの。」
恵子が正直に言うと、
「まあ、じゃあ、お話しますけどね!昨日、ファミレスの駐車場で、私が電話をかけていた際、うちの子の前に野良犬が現れて、うちの子にかみつこうとしたんです。その時にですね、いきなりお宅のご主人が走ってきて、うちの子を野良犬から引き離したんですよ。私は、急いで保健所に頼んで犬を駆除してもらうと言ったのですが、お宅のご主人は、決してこの犬種がそのような乱暴なことをするはずがないと言いましてね、そのようなことはやめてくれ、犬は僕が引き取りますと言うものですから、私はその通りにして、息子ととりあえず帰りましたけど、後でうちの家族と話しあって、お宅のご主人は、野良犬を引き取るのでなく、うちの息子に声をかけるべきだったのではないかと思い直しましてね。こうして抗議に参りました。そのどこが悪いのですか!」
と、機関銃のように言葉が飛び出してきた。
「ちょっと待ってくださいよ。息子さんっておいくつなんですか?」
それも聞かなければ事態はつかめない。
「まだ三歳になったばかりなんです!」
夫人は怒鳴った。この夫人の歳で三歳の息子を持つというのは、一昔前ならちょっとありえない年代だと思われるが、今の時代では、十分可能になっているのだと恵子は思い直した。きっと、不妊治療とかそういう事をやってやっとできた息子なのだろう。だから、かわいくてたまらないのだ。
「それなのに、お宅のご主人ときたら、あろうことか、息子が怖がって泣いているのを放置していたばかりか、犬の方を抑えることのほうに終始していましたから、ご主人は、犬と人間とどっちが大切なんでしょうか!犬の方ですか!」
「それは私にはわかりません。でも、私の主人が本当にそういう事をしたのでしょうか。もしかして、人違いとか、そういうことではありませんか?」
恵子はそういってみたが、その犬というのが友蔵なのだと思いついた。きっと、そのあとで裕康は、このマンションに犬を連れてきたのではないだろうか?
「いいえ、私はちゃんとこの目で見ているんですから、間違いありません。もし、本当にそうなのか確かめたければ、ファミレスの店主さんに聞いてみたらどうですか?」
「どこのファミレスなんですか?ファミレスといってもたくさんあるでしょうに。」
恵子が聞くと、
「ええ、デニーズです。この辺りは、東福生駅東側の、大型ショッピングモールの近くにあるデニーズしかありませんので、ファミレスと言えば、大体そのことをさすんですよ!」
ショッピングモール!つまりその中にペットショップも入っているのは?そしてその近くには動物病院が?
「わかりました。主人にはしっかりと言っておきます。今日のところは申し訳ありませんでした!」
恵子はそういって頭を下げた。
「これからは、ちゃんとご主人に言い聞かせてくださいね!」
「はい!すみません!」
恵子が頭を下げているのを軽蔑するように見て、夫人は吐き捨てるように言って踵を返し、つかつかとハイヒールの音を立てて、歩いて帰ってしまった。
恵子は大きなため息をついて、部屋に戻った。恐ろしいほどに疲労こんばいしていて、もう今すぐにどさっと布団に入って寝てしまいたいほどだった。しかし、書いておかなければならない書類があったのを思い出した。書くのはテレビを見てからでもよいと思っていたが、テレビは、先ほどの夫人にとられてしまった。仕方なく机に座って、書類をカバンのなかから出し、ボールペンを取り出して、急いで書き始めた。ところが、頭がぼやぼやしていてちっともはかどらなかった。
イライラして机を叩こうとすると、玄関のドアがガチャンと開く音がして、
「ただいま戻りました。」
と、裕康の声がした。同時に犬の声も聞こえてきた。恵子は、立ち上がって、玄関の方へ行った。
「裕康。」
恵子は、草履を脱いでいる裕康に声をかけた。さすがにさん付けをする気にはなれなかった。
「なんですか?」
そのようなことは、全く気にしない様子で、裕康は返答した。
「友蔵をどこで拾ってきたの?」
「ああ、デニーズの駐車場で拾ってきました。」
裕康はさらりと答えた。なんだそんなの、当たり前だと言わんばかりだ。
「それから、友蔵の犬種、動物病院でDNA鑑定をしてもらったんですが、やっぱりディアでしたよ。正式名称はスコティッシュ・ディアハウンドだそうです。で、病院にも登録してきたし、狂犬病のワクチンも打ってもらってきました。年もついでに鑑定してもらいましたが、まだ生まれてから半年しかたっておらず、ディアの雄は成犬になるまでに三年まつ必要があるそうです。その代り寿命が長いので、長く飼えるそうですよ。体も検査してもらってきたけど、どこにも異常はありません。獣医さんによりますと、珍しい犬なので、かわいがってやってくれという事でした。さっき、マンションの管理人さんの奥さんにもあったけど、イチゴをもらって、おいしそうに食べていましたね。」
そうか、そうなってしまっては、もう保健所に出してしまえということはできない。獣医さんにも、管理人さんの奥さんにも知られてしまっている。
裕康は、手拭いで友蔵の足の裏を丁寧に拭いた。
「じゃあ、僕は仕事の続きがありますので。」
と、友蔵と一緒に中に入り、四畳半の自室に入ってふすまを閉めてしまった。友蔵も続いて部屋に入ってしまったため、恵子は裕康をそれ以上問いただすことはできなかった。
そのまま、恵子は自室に入ったが、昨日何があったのか、本当のことを知りたかった。そこで恵子はスマートフォンをとり、デニーズの番号をインターネットで調べて、恐る恐る電話をかけてみた。
「はい、デニーズです。」
応対に出た人は、学生アルバイトだろうか。まだあどけなさの残る子供の様だった。
「あの、すみません、ちょっと店長をよんで頂けないでしょうか?」
恵子は恐る恐る聞いた。応答に出た人はちょっと面食らったようだ。
「はい、なんの御用ですか?」
不思議そうな口調でそう返ってきた。
「ええ、ちょっと聞きたいことがあるんです。お願いできませんか?」
「あ、、、ちょっとお待ちくださいね。」
しばらく保留音が鳴った。それが三分くらい続いた。あまりに長すぎるので、やっぱり無理か、と恵子が思っていると、
「お電話変わりました。店長の鈴木です。」
かなり高齢の男性の声にかわった。
「あ、あの、すみません。ちょっとお伺いしたいのですが。」
「なんでしょうか。」
「ええ、昨日あった事件についてです。」
「事件?なんのことですかな?」
「だから、野良犬が子供さんにかみつきそうになったという事件の事です。ちょっと教えてもらいたいんです。」
「ああ、あれですか!」
急に店長の声が明るくなった。いかにも話したいという雰囲気に変わってしまった。
「ええ、犬をかばったのは、、、。」
「いや、ずいぶん立派な方ですな。今のこの地域では、ああいう事が言える大人はなかなかいませんよ。私、見ていて感心してしまいました。きっと、子供さんも、あのままでいたら、自分が何をしでかしたのかを考える、よいきっかけになったことでしょう。でも、あのお母様が、そういう事を奪ってしまっていると思いましたので、残念でなりませんね。」
それを聞いて恵子は、思わず受話器を落としてしまいそうになった。
「じつはですね、あの犬は、時々、うちの客がエサをあげてしまうので、店の駐車場に住み着いていたのです。あの時はですね、お母様と息子さんで店を出られて、お母さんのスマートフォンに電話がかかってきたんですね。お母様は、かなり長く話をされておられました。その間に息子さんは、駐車場で寝ていた犬の尻尾を引っ張ったんですね。犬がびっくりして吠え声をあげたので、息子さんが驚いて泣き喚いたところに、あの入れ墨の男性が現れて、犬を捕まえ、息子さんを引き離したのです。幸い、犬はすぐにおとなしくなりました。きっと犬の急所でも知っていたのでしょう。お母様は電話が終わらないうちでしたので、きっとパニックされていたんでしょうな。息子さんに何があったかを問いただして、息子さんもまだ幼いですから、犬に噛まれたしか言えなかったんでしょうね。お母様は、犬を保健所に連れて行ってあげるからとか言ってましたけど、息子さんは泣き止みませんでした。すると、入れ墨の男性が、悪いのは犬の方ではなく、息子さんが、犬の尻尾を勝手に引っ張ったからだと言ったんですよ。お母様は絶対にそんなはずはないと怒鳴っていましたが、あの方は答えを曲げませんでした。結局、あの方が犬を引き取るということになって決着がついたようですけどね。お母様は、息子さんをなだめながら帰っていかれましたが、、、。もしもし、聞こえてますか?」
「は、はい、すみません!」
そういう事か。店長さんの明るい口調から、嘘はないことはわかった。
「でも、どこかお悪い方だったのでしょうか。お母様と息子さんが乗ったベンツが、帰っていったあと、なんか、せき込みながらうずくまってしまいましたよ。声をかけようかなと思いましたが、ちょうど、客から注文が入ってしまいましてね。応答して、また厨房に戻ってきたときは、もう、あの男性も、犬も、姿がありませんでした。」
「そ、そうだったんですか、、、。」
確かに、お母さんにとっては、迷惑な存在だが、犬にとっては自分を救ってくれたヒーローだっただろう。犬は、保健所に連れていかれたら、確実に殺処分がまっている。犬の立場から見たら、いきなり尻尾を引っ張られて、単に驚いて声をあげただけなのに、殺処分なんてこれ以上の不条理はない。そしてそれが、友蔵である。
「わかりました。ありがとうございます。教えていただいて、ありがとうございました。」
「いや、もしね、もう一回会えたら、お若いのに、ずいぶん優れた倫理観と言いますか、そういうすごいものを持っていて、素晴らしいなと、ほめてやりたいくらいです。うちの店に来る客でも、本当にマナーが悪いというか、常識がないというか、そういう客が多すぎて困っているんですよ。さきほどの、お母様だって、子供が泣いているときに平気でスマートフォンをいじっていて、何もしない姿が、何回も目撃されております。もう40を超えていると思われるのに、子供が泣いていて、何をしたらいいか、そういう事さえわからないんですよ。それがね、子供が悪いと指摘をしようとすれば、うちの子が絶対そんなことをするわけがないと、逆上して怒るわけでしょう。全くどういう神経をしているのかと、こっちがおこってやりたいくらいですよ。ですから、ああいう事が言えるって、すごいなあと私は感動したんです。この福生では、そうやって感動させることができる方はなかなかおりませんよ。みんな、他人に注意すると、自分が損をするだけだっていう精神に固まっておりますから。それを注意したら暴力に発展してしまった事例も多々ありますしね。まあ、福生だけではないのかもしれませんが、、、。」
店長さんは、よほど感動したのだろうか。早口でまくし立てている。
「でも、どうしてあの人は入れ墨を入れてしまったんですかね。もしかしたら、何かの極道一門だったのかなあ。でも指を詰めた様子もなかったですねえ。うーん、何だろう。あれだけすごいことが言えるんだから、もっと正々堂々としてもいいと思うのですけど、、、。なんだかそういう人がアウトロー的なことをするって、悲しいな。」
さすがに自分の夫であるとは言えない。ましてや知っているとも言えないだろう。
「きっと、また来るんじゃないですか。だって現れたということは、福生に住んでいるか、その近くに住んでいるということになりますから。すみません、店長さん。お忙しいなか、ありがとうございました。」
恵子は、それだけ言った。いうのがやっとだった。
「はい、どういたしまして。それを信じて店を続けていきたいと思いますよ。あ、そろそろいいですか?これからお昼になりますので、お客様から注文が入るかもしれないので。」
「はい、すみません、ありがとうございます。これからも頑張ってください。」
恵子はそういって電話を切った。
そして、机にスマートフォンを置いて、大きなため息をついた。
なんだか今時の高校生とか、大学生には絶対にできないだろうなということを、成し遂げられてしまったと思われた瞬間だった。




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