光と壁と

増田朋美

第五章 ゴルドベルク変奏曲

第五章 ゴルドベルク変奏曲
土曜日。恵子は久しぶりにお出かけ用のワンピースを着た。高校に勤務していた時なら絶対にやってはいけないと言われていた化粧もした。長年、化粧をしていなかったので、たいして、かわいらしくはならなかった。
「いったいどうしたの?」
と、真紀子おばさんが、彼女をからかうほど、今日の恵子は印象が違っていた。
「いいじゃないの。あたしだって、女性だもの。」
「まあ、恵子ちゃんがそういうこと言ったのは初めてね。康夫さんに言おうかな。」
「か、からかわないでよ。おばさん。」
「ほら、赤くなった。」
おばさんに顔をつつかれて、恵子はムキになった。
「おーい、恵子ちゃん。」
天川さんに言われて恵子は急いで店の玄関に行った。
おじさんとおばさんは、奥でくすくすと笑っていた。
店の玄関には、ルイと裕康が待っていたが、二人ともそれぞれ着物を身に着けていた。どうも外国人が着物を身に着けると、裄が短くなりすぎて、何か不自然であった。
「じゃあ、行きましょうか。」
恵子は、二人を車のほうへ案内し、車に乗り込んでエンジンをかけた。裕康とルイは後部座席に乗り込んだ。
「道は調べてきた?」
「勿論です!」
これだけは自信があった。何回もパソコンを検索して調べ上げたのだから、パソコンを持っていない裕康にはできないことだと思った。恵子は車を動かし、一般道路へ出た。
「高速、使っていいかしら?」
いわゆる北関東自動車道である。最短ルートとして、桜川筑西インターチェンジから入るルートを選んでいた。
「いいけど、混んでない?あのあたりすごい混雑するみたいだし。」
「川ちゃん、運転してくれる人に任せよう。僕らはわからないんだからさ。」
二人がそんなことをつぶやいているのを尻目に、恵子はインターチェンジに向かった。
幸い、北関東自動車道は混雑していなかった。途中笠間パーキングエリアで、ガソリンの補給と昼食を兼ねて休憩をしたが、そこでも人はあまりいなかった。
「こんなに空いているほうがおかしいのではないかなあ。」
と、ルイが発言するほど、道路は順調であった。
「いいんじゃない。連休でもないんだし。」
恵子は、五月のゴールデンウイークでもないので、空いているのだろうと思った。引き続き車に乗り込み、再び北関東自動車道に乗って、水戸の茨城町インターで降り、会場である茨城県立県民文化センターに到着したのは、予定時間より一時間以上早かった。文化センターには駐車場がないため、近くのコインパーキングに車を停めた。
「はい到着。」
「水戸へ出たのは久しぶりだけど、ずいぶんこの辺りも変わったんだね。」
裕康はそんなことを言っている。
恵子は、ここまで車を走らせることができたんだと、少し自分を励ました。意外に緊張していたらしく、車を降りるとどっと疲れが出た。
「恵子さん、大丈夫かい。結構疲れたよね。」
「いいえ、大丈夫です。からかわないでくださいよ。」
「別にからかっているつもりはないんだけど、難しいところだなあ、日本の女性って。」
ルイは、恵子にそういわれて、頭をかじった。
「とりあえず、開演まで時間がありすぎるどころか、まだ開場まで一時間以上あるぞ。確か中に、カフェテリアでもなかったっけ。とりあえず、お茶でも飲んで待ってようか。」
「そうか、まだそんな時間か。お前本当に大食漢だな。笠間でお昼食べたばかりなのにさ。」
裕康は、あきれたように言った。
「まあいい。いつまでも駐車場に居たら、変な奴らとみられちゃうから、早くカフェテリアに入ろうぜ。」
「入り口、どこだっけ。」
「確かこっちだったはず。」
ルイと裕康は勝手に正面玄関まで行ってしまう。恵子は急いでそのしんがりになって、二人の後についていった。入り口はすぐ近くにあった。三人はカフェテリアに入って、紅茶やコーヒーを飲んだ。ドクダミ茶よりこれのほうがずっとお茶という感じがした。基本的に会話の主導権を握っていたのはルイで、裕康がそれに応じている形であった。二人が話しているのは、今日演奏されるというバッハのゴルドベルク変奏曲の話ばかりで、恵子は何を話しているのか全く分からなかった。
「そろそろ行くか。開場時間になるから。」
裕康がそう合図したので、三人はカフェテリアに料金を支払って会場に行った。五分ほどして、会場が開いたが、待っているお客さんも五人ほどしかいないし、座席は空席ばかりで、恵子は裕康が言った通りだとおもった。たぶん無料にしなければ、人なんかこないだろう。
三十分ほどして演奏会が始まった。中年の男性によるチェンバロ(ルイはクラヴサンと言っていたが)という楽器の演奏で、形はピアノに似ているが、音は電子楽器の様だった。曲はカフェテリアで聞いたゴルドベルク変奏曲という物であったが、全くアップダウンもない、子守唄のようなテーマと、30の変奏、そして最後にもう一度テーマで終わるという本当につまらない変奏曲であった。大して、大きな展開もなく、ゴルドベルク変奏曲は終わってしまった。周りの人たちは、スタンディングオーベーションに近い拍手を送っていたけれど、恵子はこんなつまらない演奏になぜここまで大拍手が起こるのか、まったく理由がわからなかった。
やがて、演奏会終了のアナウンスが流れて、お客さんたちは皆帰っていった。みな金持ちの紳士淑女という感じの人たちばっかりだ。こういう音楽はそういう人たちのもので、受験生には聞く必要はないとほかの教師が、生徒を怒鳴りつけていたのを恵子は思い出した。そういう音楽を、自分がこうして聞きに行くとはまさか思わなかった。それを考えると、恵子は複雑な気持ちだった。
ルイと、裕康は当たり前のようにゴルドベルク変奏曲の話をしているが、恵子はその話に溶け込むことはできなかった。変な先入観は持つなと言われるが、こういう種類の音楽は、やっぱり、身分の高い人でなければ、家庭紛争の原因にもなりかねないとおもった。
また二人のしんがりになって、駐車場まで戻ってくると、
「あれ、どうしよう。」
ルイが、スマートフォンを眺めながら言った。
「どうしたの川ちゃん。」
裕康がそう聞き返すと、
「いや、演奏の間に、北関東自動車道で大きな事故があったらしい。全線で通行止めだって。」
「あれ、う回路も何もないの?」
「ちょっと見せて。」
恵子はスマートフォンを拝借したが、困ったことに日本語ではなかったし、英語でもないので、何が書いてあるのかは全くわからなかった。すみませんと言って、スマートフォンを自分のものに変えて調べなおし、やっと通行止めになっていることを理解した。裕康はスマートフォン自体を所持していなかった。それを聞いて恵子はまたびっくりした。
「じゃあ、国道を使って帰ればそれでいいわ。」
「いや、こうなると、ものすごい混雑して、膨大な時間がかかりますよ。」
「そうだろう。お前も疲れちゃうんじゃないのか。ずっと乗りっぱなしだと。」
「じゃあどうするの、電車で帰って、また車を取りに行くとでも?」
「まあまあ、怒るな怒るな。よし、こうしよう。」
ルイは、またスマートフォンを取り出した。
「ああなるほど。確かにいろんなところに出かけている君なら、その手があるよね。」
「まあ、かみさんも今日は当直の日だから、帰ってこないからいいや。」
「僕はどうせ、独り者だから、いつになってもいいよ。」
「よしわかった。じゃあ、一泊二日で頼んでみるよ。ちょっと待ってて。」
「ど、どういうこと?」
「だから、楽天トラベルの会員なんだよね。バカロレアの試験会場近くに泊まったり、かみさんと二人で奥多摩へ泊まったりとか。ほら、急に雨が降って電車が止まったりすることはよくあるので。」
「つ、つまりホテルに?そんな大金をいつも持ち歩くの?」
「クレジットカードがあるでしょうが。」
「でも、高いのでは?」
「いや、大丈夫。水戸はホテル代が安いので有名なんだよ。じゃあ、電話してみるね。」
「悪いね。そんなに高級でなくてもいいが、あんまり安っぽすぎると今回はまずいだろう。あと、恵子さんのために、駐車場もあるところを選んであげてね。」
「悪いねは一番わからない言葉だからやめてくれよ。駐車場のあるところね。あと、インターに近いところがいいね。」
「ごめんごめん。じゃあ頼むよ川ちゃん。」
「あの、こういうことはよくあるんですか?」
恵子は思わず裕康に聞いた。
「僕はスマートフォンを持っていないので、いつも川ちゃんにやってもらっているのですが、日本ではあまり一般的ではないけれど、外国の人は、トラブルが起こると、スマートフォンのアプリを使って、こうして宿泊してしまうことはよくやるみたいですよ。」
「そうなんですか。私、おじさんとおばさんに何も言ってこなかったわ。」
「たぶん、天川店長もわかってくれると思います。メールでもしておけば。クレジットカードありますでしょ?僕は持っていませんので、現金で出しますけどね。」
「そうなるなら、あたし支度してくるべきだったわ。」
「ごめんなさい、僕らは当たり前のようにやっているので、伝えておくのを忘れておりましたね。僕も、あんまり無理はできないので、こうしたほうがいいのです。でも、川ちゃんのことですから、決して変なところにしてしまうことはしませんから、安心してくださいね。」
恵子は、これではだめだと思いながら大きなため息をついた。
「おい、取れたぜ。水戸駅北口から徒歩五分のところにあるんだって。ツインの部屋で、一個エキストラつけてもらったからね。値段は、一人三千円。朝ご飯もあって駐車場もついているよ。予約ではなく先着順で。」
「ありがとうな。駐車場が満車になるといけないから、早く行こう。恵子さんお願いしてもいいですか。」
恵子は、呆然として何も言えなかった。
「恵子さん?」
裕康がそういったので初めて気が付いて、
「は、はい!」
と初めて我に返った。
「水戸駅前の水戸みまつまで乗せて行ってくれますか?」
「で、でもどこにあるのか、、、。」
「あ、ここから、もうすぐですよ。水戸駅へ行ってくだされば。」
「でも行き方が、」
「道路標識を見れば?」
ルイが言った通り、駐車場を出てすぐの看板に、「水戸駅」と書いてあって左折表示があった。
「わかりました!行きます!」
この人には、本当に憤慨することが多い。ムキになって、車に乗り込み乱暴にエンジンをかけた。裕康たちも、急いで乗り込んだのを確認すると、水戸駅にむかった。本当は高速を飛ばしていきたいが、標識をいちいち確認しながらなので、とてもそれはできなかった。この、のろい走り方に恵子はさらにイライラした。
「あ、あれだ。」
ルイが指さしたところを見ると、「水戸みまつ」と書かれたずいぶん派手な原色の看板があった。裕康は、そんなに高級ではないと言っていたが、看板の向こうにある建物は、一部の窓にステンドグラスも貼られているかなり大掛かりなホテルと言った感じで、とてもビジネスホテルではなさそうである。
恵子がその前に一度車を止めると、立派な制服を着たホテルマンが出迎えてくれた。
「こんにちは、いらっしゃいませ。」
「あたしたち、先ほど電話したんだけど、」
恵子が言うと、
「はい、お待ちしていました。どうぞ。」
と、丁重に挨拶してくれるので、たぶん高級なところだなと思ってしまった。
「あの、駐車場は、、、。」
「ホテルの裏側にございます。」
「じゃあ、僕らは先に出てようか。」
裕康たちは先に車を降りた。
恵子はホテルマンの誘導に従って、駐車場に行って車を止めた。預けたと言ったほうが正確だった。駐車場は機械式で、ただ所定の位置に車を置けば、あとは係員に任せてよいのである。楽ちんと言えるかもしれないが、これも高級化の一因かもしれない。
恵子が車を預けて、建物内に入ると、あとの二人は宿泊の手続きをしていた。
「すみません、うちの手違いで、ツインの部屋ではなくて、和洋室になってしまいました。申し訳ございません。」
フロント係はそんなことを言っていた。
「ということは、どうやって寝ることになるんだ?」
「はい、どなたかおひとりさまは、畳部分のお布団を利用してもらうことになります。」
つまり誰か一人は、別室でということになるのか。それでは、女性の私がと言えば都合がいいし、うるさい二人とも離れて休める、やった!と喜んでいると、
「テレビはどこにあるんです?」
と、いきなり裕康が聞いた。
「申し訳ないのですが、テレビは畳部分しかご用意できておりませんので、、、。」
フロント係が残念そうに言うと、
「あ、わかりました。僕はテレビか嫌いなのでないほうがいいです。」
裕康はそう答えた。なおさら自分が畳部分を使えばいいなと恵子が言おうとすると、
「そうだよな。お前はテレビが大嫌いなのはよく知っている。じゃあ僕がテレビのある方を使うから、裕康は恵子さんと洋間の部分で寝ろ。」
ルイの発言で、一気に恵子の夢はかすんだ。
「わかったよ。じゃあ、そうしよう。」
「よし。その部屋でお願いします。」
この二人、自分の事を忘れているのだろうか。
「では、こちらにいらしてください。」
フロント係から客室係に引き継がれて、三人はエレベーターで指定された部屋に行った。よくあるカードキーであったが、開けるのには特に苦労はないようである。
「さあお部屋へどうぞ。」
ガチャンとドアが開いて、三人は部屋に入った。
部屋は広々としていて、入ってすぐが畳部分、ふすまを隔てて洋間となっていた。確かにテレビは、大型の液晶テレビが畳部分のテレビ台に置かれているだけである。
「お布団、すぐにご用意させますのでお待ちください。お食事は一階にファミリーレストランがございますので、そこでいつでも好きな時に召し上がって結構ですし、お希望に応じては、ルームサービスもございます。」
ああなるほど。そういう意味では便利なシステムである。
「なにかありましたら、いつでもフロントまでお電話くだされば対応いたしますので。では、ごゆっくりどうぞ。」
客室係は一礼して出ていった。
「川ちゃんありがとうね。わざわざ畳を使ってもらって。畳は寝にくいのでは?」
ああそうか。西洋人には布団で寝るという習慣はなかったな。これを突けば、もしかしたらよい仕返しになるかも?
「いいよ、僕はどこでも寝られるから。奥多摩の温泉に行ったときも、畳で平気で寝ていたよ。」
これも空振りであった。
「じゃあ、恵子さんと僕とで洋間を使わせてもらうから、少し狭いけど、ここで休んでくれ。」
「はいよ。わかったよ。」
うん、そこだけは勝てたと恵子は思った。たぶん、西洋人にはこの面積では狭くて窮屈であるはずだ。それだけが、やっと恵子がホッとできた箇所であった。
恵子と裕康は、奥の洋間に入った。恵子が右側、裕康が左側のベッドに座った。ベッドはかなりスプリングが効いていて、座っているだけでも気持ちよかった。
「ああ、汚いことはしませんから、安心してくださいね。」
不意に裕康が言った。
「わかってるわよ。本来であれば、当たり前でしょ。」
「本当に何もしませんから。大丈夫ですからね。」
そう言って裕康は、カバンの中から本を出して読み始めた。恵子は今の時間であれば見たいドラマもやっているのになあとか思いながら、窓から見える景色を眺めていたが、退屈で仕方なく、これはやめた。テレビがないというのは、あまりにも退屈すぎて、苦痛で仕方ないのだった。かといって、隣の畳の部屋にあるテレビを貸してくれと頼むのは、あの西洋人に負けてしまうような気がするので、それだけは絶対やめようと思った。仕方なくスマートフォンで動画サイトを眺めて過ごした。それを持ってきたのが今回の救いだった。しかし、高級なホテルであることは間違いなく、隣の和室部分の音も、ふすまを閉めると何も聞こえなくなってしまうし、隣の部屋の人がくしゃみをする音なども全く聞こえてこない。聞こえてくるのは裕康がページをめくる音と、動画サイトの音声のみである。とにかくテレビか新聞、雑誌などがあればもっと時間が早く過ぎるのに!と叫びたくなるくらいだ。
恐ろしい退屈な時間を過ごして、裕康の提案により、三人は食事に行った。食堂はいわゆるファミリーレストランで、特に食事時間は設けられておらず、いつでも好きな時に食事でき、会計は別というシステムになっていた。まあ、ファミレスだから、好きなものを食べていいので、好きだったミートソースを食べてみたけれど、あまりおいしいとは感じられなかった。
食事が終わって、部屋に戻ってくると、恵子はすぐに風呂に入らせてもらい、貸し出された浴衣に着替え、とにかく退屈で仕方なかったから、もう寝てしまおうと思った。二人にお先にと言って、唯一の救いであったふわふわのベッドに横になってすぐに寝てしまった。

恵子が目を覚ますと、あたりは真っ暗であった。そばにおいてあったスマートフォンを出してみると、一時五分を指していた。まだ、朝には程遠い時間だったが、寝るのがあまりにも早かったためか、はっきりと目が覚めてしまっていて、寝ぼけてはいなかった。また動画サイトを見ようかなどと考えていると、頭上から弱いうめき声と同時に、強い咳の音が聞こえてきたので、
「大丈夫?」
と、聞いてみた。
「あ、起こしてしまってごめんなさい。大したことないですよ。」
返ってきた口調から判断すれば、その通り、大したことはなさそうだ。でも、一度危ない目を見てきた恵子には不安だった。枕元のスタンドを付けてみると、裕康はベッドに座っていた。
「本当に?」
「はい。それより、起こしてしまってすみません。あんなに早く寝て、相当疲れているのかと思ったので。」
疲れたのは確かだが、本当の理由を言ってしまったら、怒られるような気がした。
「ああ、気にしないで頂戴よ。それよりさ、あたし、聞いてみたいことがあるんだけどな。あ、眠たかったら言ってね。また次の機会にするからね。」
「いえ、かまいません。川ちゃんと違って、枕が変わるとなかなか寝れないので。それに、普段せんべい布団でしか寝たことがないので、こういうところは苦手なんです。」
そうなのか。ずいぶん対照的だなあ。なぜ釣り合っているのか不思議なくらいだ。
「じゃあ聞くけど、あなた、どうして東大に行って、もうこれっきりなんていったの?」
核心をついたと思った。これだけはどうしても知りたかったのだ。
「事実そうだからですよ。大学を卒業した時にそういったんですけど、教授が大学院への進学を勝手に決めちゃったから。」
「そうだからって、じゃあ、もうこれっきりが事実なわけ?」
「そうですよ。だって、四年間東大に通い続けて、また修士博士と同じところに通うなんて、本当に嫌でしたから。」
「変な人。普通、上級過程へ行けと言われたら、大喜びするもんだと思うんだけどなあ。特に、東大とか、早稲田とかレベルの高い大学にいけた人はそうなるもんだと思うけど?それとも、プレッシャーがすごかったかとか?あまりにも成績が悪くて、入試の不安にまた襲われるのが嫌だったから?」
「成績なんて知りませんよ。まあ、そこへ行けと言われたんだから、よかったんでしょうけど。本当は、東大なんて行けるとは思ってもいませんでしたからね。体も弱かったから、体力もないわけですしね。そんなことより、着物と邦楽が好きだったんで、将来は着物屋で働くか、お箏屋さんで働くくらいしか思っていなかったので。」
それはまた変な人だ。急に恵子は力が抜けた。
「そ、それなら、なんでまた東大を受験したの?東大なんて、誰でもホイホイと行けるところじゃないでしょ。」
「まあ、きっかけは、高校に入ってすぐに、茨城県内の新聞社が主催する模擬試験を偶然受けて、一番を取ったことです。その時に東大に行ける可能性があると、担任教師が言ったらしいんですね。そうしたら、父はすごく舞い上がってしまって、もう、東大に行くもんだと勝手に決めちゃって、とにかく勉強しろしろと急に厳しくなって、、、。」
「お父様何をやってたの?」
「はい、日本刺繍の職人でしたよ。そんなわけで僕のうちは、着物がたくさんありました。僕自身は、それが本当に奇麗だと思っていたから、もう父ちゃんの後を継いで、着物を作るとさんざん言っていましたが、父は逆に職人はコンプレックスだったみたいですね。それだけは、絶対にやめろとよく叱られました。僕からしてみれば、あんな美しいものを作る人が、なんで俺みたいになるなと怒鳴るのか、全く理由がわからないままでしたけどね。」
「あたしね、思うんだけど、それがお父様の、あなたへの愛情だったと思うわよ。」
恵子は、急に教師らしい口ぶりになった。
「だって、職人なんて、大量生産ができないし、なかなか製品に寄り付くのも難しいし、今は、それを使わなくても大概の人は生活できるじゃない。だから、あまり必要とされないわよ。それよりも、東大に行って、一流企業に雇ってもらって、高い地位について、安定した収入を得て生活したほうが、よっぽど幸せになれる。そう思ったから、お父様はわざと厳しかったんじゃないの?」
「そうなんですけどね。僕、企業で働いて、高い地位に就くなんて絶対にできないなと、小学生くらいから確信していましたよ。まず第一に体のほうが許してくれないでしょう。生まれた時から、肺組織に奇形があったので、ほとんどのスポーツは、許可されませんでしたし、他の人並みに作業をこなすこともできなかったので。」
「だから、そういうところがあったから、なおさら東大に行ってほしかったのよ!お父様は!」
「どうですかね。」
恵子は少しばかり苛立ってしまった。
「どうですかねって、多少体に障害があったとしても、高学歴であれば、もしかしたら企業で雇われるとか、留学するとか、そういう機会に恵まれて、確実に将来が変わるわよ。体が不自由なのなら、頭で勝負するのは当たり前なんじゃないの?」
「それは違います。」
「は?」
「こういう障害を持つと、勝負するとか、人並みの幸せを手に入れるということは、あきらめるべきです。」
初めて聞くセリフだ。
「で、でもまってよ。人間誰でも夢を持つでしょう?そのために一生懸命勉強するでしょう?それが人間の人生っていうもんじゃないの?」
「いや、それができるのは健康な人だけですよ。僕みたいな人は、それはできません。というより、それをするせいで、本当にひどい目に会ってきてますから。もう、それは、こりごりです。」
「じゃあ、どうしてできないのか、理由を教えて頂戴。」
ちょっと語勢をつよくして恵子は言った。
「だってそうじゃないですか。僕みたいな人はまず、一人では生きて行かれないんだ。何かしようと思えば、必ず誰かの助けを借りなければなりません。もし、機械に助けを求めるのなら、ある程度軽減することはできますが、機械はすべての事をやってくれるわけではない。そうなれば、人間に頼むことになりますが、人間は、機械と違って、お願いすれば、すぐに遂行してくれるものではありません。その間に感情という物が生じます。それはどういうものかというと、妬みとか嫉妬とか、恨みとか、そういうものです。これのせいで、嫌がらせや喧噪が多発して、挙句の果てには暴力が発生したことだってありました。それがすごく苦しくて、もう、東京で生活するのは嫌だと僕は何度も父に訴えましたが、父は東大に行ったのだから頑張れとしか言わなくて、この訴えを受け付けてくれませんでしたし、周りの近所の人もみんなそうで、東大に行ってすごいねとしか言わないで、誰も気持ちをわかってくれる人もいませんでしたよ。四年間その繰り返しだったので、教授から大学院に進学を打診されたときに、もうこれっきりにしてくれと言ったんです。誰もそうしろという人はいなかったので、結局大学院も行かないといけませんでしたけど、頭の中では、本当に苦しくてならなかったんです。だから、こういう人が、東大のようなところへ行くべきではないとは、そういう事なんですよ。」
「でも、そこまで高学歴だったわけだから、そのあとに就職だってすぐにできたはずじゃないの?」
「いや、そういうものではないですよ。同級生たちは、皆政治家になったり、大学に雇われたりしてるけど、ひどい人たちばっかりだから、そんな世界にはいたくないですよ。かといって、一般的な世界に行ってしまうと、皆恐れ多いと言って、離れて行ってしまうので、寂しいだけになるから、返って学歴は邪魔になるだけなんですよ。それに、そのせいで、悩んでいることがもしあったとしても、東大出のくせに贅沢を言うなと言って、逆に怒鳴られる始末です。結局、神聖な世界にも世俗の世界にもいられないんですよね。だから、東京でも、結城市でも就職できなくて、一時、廃人同様に過ごしたこともありましたね。」
なるほど。そうなると、恵子は裕康が少しかわいそうになってきた。
「でも、幸か不幸か、天川店長だけが、和裁技能士の修行をさせてくれたんですよね。きっと、あの地区では、有名なトラブルメーカーであったので、受け入れてくれたのではないでしょうか。なんか、余分なことを重ねて、やっと本当にやりたいことにありつけた感じかな。」
「そうですか。なんだか、今の子たちに、聞かせてやりたい逸話だわ。」
恵子は正直に感想を述べた。
「ああ、ありがとうございます。でも、失敗を語っても何もなりません。大事なのはなぜ、それをしてしまったのかを突き止めることと、これから同じことをしないためにどう生きていったらいいのかです。だけど、これにたどり着くのは本当に難しいもので、どうしても、辛かったことを語ってしまって終わりになってしまう。」
「それで、腕に桐紋なんて入れたの?」
不意に聞いてみた。
「ああ、これはね、もともと東大に行って、いじめられるのを防ぐために入れたんですよ。」
「そっか、それほどひどいことされたんだね。」
裕康も食えない男だと恵子は思った。でも、同時に彼が変に気取り屋だとか、変な奴だとは思わなくなった。
「まあ、そういうことですね。」
恵子は急に眠くなった。
「ごめんなさい。もう寝るわ。急に眠くなっちゃった。」
「ああ、いいですよ。どうぞ。」
全部を聞く前に恵子は、眠ってしまっていた。

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