母親が死んでかなしい

萩原繁殖

母親が死んでかなしい

 母親の葬儀の帰り、僕は旧友にあった。
 その夜は美しい夜だった。春でもないし冬でもない。留まってもいなければ漂ってもいない。何を選択する必要もない、ゆるやかな夜だった。
 僕は旧友の二人を見つけ挨拶をした。二人も僕を認め近寄ってきた。
「久しぶりだね」
 と僕は言う。
「本当にそうだ」
「何年振りだろう」
 と彼らは言う。僕らは旧交を温めつつ歩き、適当なハブに入った。地下へ続く階段を下っていき重い扉を開ける。煙と熱と酒気が僕を取り囲む。ハブでは人々が熱をもって話していた。ダーツが二台ほどあり、若い外国人が故郷のゲームに興じていた。サッカーブンデスリーガの中継もしていた。黄色と黒のユニフォームを着たチームが対戦している。
「お疲れ」
 と僕たちは乾杯する。僕はギネスを1パイント注文し、彼らはチリ産の白ワインを頼んでいた。僕はこの滑らかで漆黒の液体がとても好きだ。
 僕たちは話した。とりとめのないことを。そして僕たちの酒が半分にならないくらいのうちに、罪の話になった。僕の罪だ。僕が彼らに負った罪のことだった。
「お前わかってるのかよ」
 と二人の内の男の方が言う。「お前がすべて悪いんだよ。ほんとにすべて」と彼は言った。
「ああ」
 と僕は返事を打つ。
「ふざけるな」
 男は赤い顔で僕を糾弾する。お前の顔とその言い草に腹が立つ、と彼は言う。何もわかってはいないんだと。僕を糾弾する。
 僕は本当に申し訳ない気持ちだった。僕は、罪を忘れていた。僕が彼らに何らかの罪を負ったのは覚えている。しかし、どんな内容だったのかは覚えていない。僕の記憶はぱたんと閉じられていた。なにもなかった。
「私もあなたに言い寄られたんだよ」
 と二人の内の女の方が言った。僕はびっくりした。そんなわけないと思った。僕は彼女に対してそんな態度をとったつもりはなかったし、僕と彼女は仲が良いと思っていたからだ。
「お前は本当にひどいやつだな」
 と男は言う。彼はすっかり酒気にやられてしまって、ほとんどうとうとしている。
「お前のせいで全部だめになったんだ。お前のせいで」
 そう言って彼は机に突っ伏してしまった。わかる。彼の両親は離婚した。彼の兄弟は精神疾患を負い、将来を約束した女性に別れを告げられた。彼の私生活はぼろぼろだった。でも彼の生活と僕の罪は何の関係もない。その間に川は流れていない。彼は僕のせいにしたいだけだ。彼は僕に罪を見出すことで自分から逃避しているだけなんだ。彼は突っ伏して少し寝ている。本当に子供っぽかった。哀れなくらいに。彼のことを好きな人は今後わらわらと出てくるだろう。彼には友達がたくさんいる。でも誰一人として彼を理解できないだろう。誰も彼の心を好きになることはない。彼はそのことに気付いたか気付かないままのうちに、老いていくんだろう。
「私はあなたの人生がどうなろうとかまわない」
 女の方がぽつりと言った。そんな直接的なことを言う人ではなかったのに。
「ずいぶん言うね」
「そういうときもある」
 と女は言った。僕は空になったグラスにワインを注ごうとしたが断られた。ワインの静脈は途切れたが、彼らの糾弾は途切れることがなかった。男はたまに眠りから覚醒しては僕を誹り、貶め、自分の好きなことをする。すべてがゆるされた子供のように彼は振る舞う。女はそれをよくわからない笑顔に近い表情を浮かべ僕をなじる。二人の意気はぴったりだった。それだけ僕の罪が重かったのだろう。僕の罪が彼らの仲を深くしたのだろう。僕は彼らの言葉を追いやるためにサッカー中継をぼんやり眺めていた。ケルンとシュツットガルドの試合だった。2チームともいいサッカーをしていたが、残念なことにそれは録画だった。なぜなら今日ケルンはドルトムントと戦っているはずだからだ。僕は過去のサッカーを見て、過去の罪を投げつけられている。サッカーを見ていてもそんな風に思うんだから、この世に最初に生まれた罪などもっと退屈でビール片手にどうこうできるものでもないのだろう。
 終電の時刻になり、ようやく終わった。夜は相変わらず美しかった。風は吹かず、建物の間に溜まり、光を設けている。僕たちはハブから地上に上がり、さよならを言った。男は「お前といるとなんだかんだ楽しいよ」と顔をくしゃくしゃにして言った。
 そうか。
 僕は男と別れ、帰りの電車が同じ方向の女と一緒に帰った。僕があまりしゃべらないでいると「大丈夫?」と彼女が訊いてきた。
「何が?」
「さっきは少し言い過ぎたからね」
 僕は薄気味悪くなった。
「さっきはあれだけ彼と俺をけなしたのに、今は俺の心配をしてくれるのか」
「それはね」女の顔が電車の窓に映る。「さっきは彼に合わせてたの。それで、今はあなたといるからあなたに合わせてる」そう言った。
「それを本人の前で言うの?」
「そう」
 と彼女は少し笑う。
「お前はやっぱりちょっといかれてるよ」
「ありがとう」と彼女はまた笑う。
 僕は心底そう思った。彼女には自我がない。本当の自分がいない。何もない。相手に合わせるマニュアルが組み込まれたロボットのようだ。わからない。でも少なくとも彼よりも心に温かみがあるように思う。そうあって欲しくも思う。本当にかわいそうだ。かなしい。
 僕は電車を乗り換えて彼女に別れを告げる。そして甘く凍えるような余韻に浸る。僕はどこに生きているのだろう。罪の在る過去、サッカーを見る現在、ギネスを飲み干すであろう未来。あるいはそのどれでもない、おっさん同士の喧嘩で五月蠅い電車の中。彼らは互いに怒鳴り合っていた。腐った貝柱のような歯茎をめくりあげ、相手に唾を吐きかける。すごいな、そんなに主張することがこの世の中にどれだけあるというのだろう。そして僕は唐突に思い出した。母親が死んだのだった。気持ち悪くなってギネスを吐く。

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