雨の調

Knavery@語り部

出会い

 子供の頃から、雨は好きだった。そして――――その日は、雨が降っていた。
 朝から降り続いている雨は夕刻でさらに雨脚を強め、すっかりと暗くなった時分である先ほどようやく小雨になり始めた。
 金曜日で、しかも月末。多くのサラリーマンや学生たちはもうすぐ止みそうな雨に安心しながら赤い顔を綻ばせて、居酒屋の看板が作る光の道を辿って駅へと向かってゆく。
 一方、店長に挨拶をしながら、バイト先の戸を潜った後に、その様子を見た僕は少し残念な気持ちになりながらバイト先を後にした。
 最初にも言ったが、僕は雨が好きだ。地面に当たる雨の音は全ての雑音を消し去ってくれるようで、天から降り注ぐその雨粒の一つ一つが、迫りくる課題レポートの締め切り、今乗っている満員電車の不快感など、日常の中の不満を、嫌なものまでをも、一緒に洗い流してくれているように思えた。
 そして、雨の日は、決まって、僕に素敵な出会いをもたらしてくれるのだ。今のバイト先である、おいしいコーヒーを出してくれる喫茶店。雨宿りにと誘われたときにたまたま行ったファミレスの季節限定メニュー。近所の神社に綺麗に咲くアジサイ。いくつも発見してきた。そして、数々のアイディアが浮かぶのも、決まってこんな雨の日。
 ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。という電車の音に交じって聞こえてくる雨の音に耳を澄ませた。
 電車から降りて、改札を抜けると、僕は傘もささず、家への道のりを歩く。駅前の商店街を抜けて、住宅街を抜けたところにあるアパートの一室を借りているのだが、真っ直ぐは帰らない。少しだけ遠回りをして、アジサイの綺麗に咲く神社の前を通り抜けて帰る。駅からアパートまで徒歩10分くらいだろうか。遠回りをすると3分程度プラスになるが、気になるほどではない。
昼間は賑わいを見せている商店街も、この時間で、しかも雨。普段の賑わいが嘘のように誰もいない。この景色も、雨がもたらしてくれる特有のものだろう。
 もっとも、今日はバイト先で常連さんたちが食事会をしていた。そのために、少し残業させられていたので普段よりも遅いというのもあるが、それでも、この普段と違う、非日常のような場面に出会うと少しワクワクしてしまうのが男というものだ。年甲斐もなく、商店街の道を僕のものだと言わんばかりに真ん中を歩き、お気に入りの青いイヤホンを外して鞄にしまった。もちろん、イヤホンは防水式の最新のもの。鞄も雨の日を想定して、雨に強いものにしてある。
 両親には呆れられ、友人たちにも変わっているとよく言われるが、好きなものは好きなんだから仕方がない。僕が何を好きになろうが自由だ。
 そんなことを考えながら歩いていたが、気が付くと、もう神社の前。先ほども触れたが、この神社はアジサイが綺麗なことで有名で、近所の人が良く散歩をしているのはもちろん、時たま有名な写真家が写真を撮りに来ることもあるらしい。僕のバイト先にも、この神社のアジサイの写真が飾ってある。
 だが、それももちろん昼間の話。今の時間帯はただただ暗く、薄気味悪い道へと姿を変えていた。社へと続く階段から、神社へと連なるこの小道を綺麗に咲き誇るアジサイを照らす街灯は一本のみで、女性や子供がこの道を通ることはとてもおすすめできない。そんな暗さである。
 しかし、その暗闇を照らす街灯まで進むと、その真下、雨粒で装いをして輝きを放つアジサイが僕を出迎えてくれる。花弁や葉に着いた雨粒が街灯の光を受けて、キラキラ反射し、周りの暗さも相俟って、まるで、そのアジサイだけがスポットライトを浴びているように輝いて見える。
 晴れた日とは違うまた違った日常の光景。僕はスマホを取り出し、その輝くアジサイをパシャリと一枚写真に収める。うん、上手く撮れた。
 そのままSNSを開き、その写真に一言を添えて投稿する。僕の大好きな言葉だ。ドイツの詩人が残したという言葉。僕は投稿した写真を見て思わず一つ頷いて、その言葉を口にする。
「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。それが――――」
「それが自由というものだ」
 僕の好きな言葉。その続きが突然上から降ってきて、僕は驚き、声の方を見た。
 神社へと続く石段。その中腹に、傘をさした女性が立っていた。アジサイに夢中で全く気が付かなかった……。
「すまない、驚かせてしまったね。知っている言葉だったからつい、ね……」
 女性はそう言うと、僕の方へゆっくりと近づいてきた。石段を降りるに連れて、少しずつ、街灯がビニール傘を通り越して女性の顔を照らしていく。
 あと数歩と言ったところで、彼女が傘を少し上げた。傘から覗いた顔は、僕より年齢が少し上くらいにみえた。お姉さんって感じの女性。とても……綺麗で、幽霊かと思えるくらいに白く透き通った、どこか儚げな雰囲気のお姉さんだった。
「雨……好きですか?」
 気が付くと、僕はそう尋ねていた。自らの口をふさぐが、言葉はもう口から出てしまっているのだ。自分の顔が熱くなるのを僕は感じた。
 そして、恐る恐るお姉さんを見ると、微笑みながら、僕を楽しそうに見ていた。
「あいにく、そんなに好きではないかな」
 そうか、好きじゃないか……。その返答が当たり前のはずなのに、僕は心底がっかりした。友人達や両親に雨を否定されたときよりも、ショックを受けたのだ。
 お姉さんはそんな僕を見て、もう一度クスリと微笑んだ。そして、再び口を開く。
「けど……嫌い、と思ったこともないね。雨はいつもと違う景色を見せてくれていたし、それに、今日、今、少し好きになったかな。君のような面白そうな少年に出会わせてくれたしね」
 お姉さんにそういわれ、顔が熱くなる。正直、あまり女性と関わりあうことの少ない人生だったが、まさか、ここまで自分がころころ反応するとは思わなかった。
「君は実にわかりやすいな……」
 お姉さんは再び僕に歩み寄る。一歩また一歩。そして、あっという間に僕の目の前までやってきて、僕の顔を覗き込む。お姉さんとそんなに背丈は代わりがないようで顔の高さはそれほど代わりがない。お姉さんの持っていたビニール傘。半径60センチの中に、僕はお姉さんと共にいる。そのお姉さんの瞳は言葉とは裏腹に、とても――――
「少年」
「は、はい」
 少年という歳でもないが、返事をしてしまった。そんな反応も面白かったのか、お姉さんはニッコリと笑い、僕に言う。
「ねぇ、少年――――私を拾ってくれないかな?」

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