鋏奇蘭舞

炎舞

浮遊霊

 「……今日の最高気温は38度にも上り、XX市の過去最高気温を記録しています。今後、更に気温は上昇する見込みです。熱中症対策を十分にした上で、今日は出来るだけ外に出ないことを強く奨めます……」

 ____ばーか、中にいても暑いわ。

 外は暑かった。夏場の暑さを和らげる怪談話の幽霊ですら、今日は発狂しそうだ。

 俺は安いボロアパートの一室で、夏の暑さに悶えていた。隣の家のつけっぱなしのラジオは、今日外がどれだけ暑いのか、ご丁寧に詳しく説明してくれていた。暑さが余計に誇張される。でも、ラジオを消してくれと頼みに行く元気すらない。涼もうにも、エアコンは壊れている。扇風機は……どこにやったか忘れた。探す気力もない。うちわ……扇子……もういい、考えたくもない。俺にできることは、ただ、この暑さこもる部屋の中で、することもなく、四肢を投げ出して寝転んで、時間がすぎるのを待っているだけであった。

「おーい、健二ー!」
 ……騒がしいのが来た。
「邪魔するぞー」
 ……こいつはいつも俺の部屋に勝手に上がり込んでくる。そして、しばらく居着いて、他愛もない事を延々と話し続けるのだ。面倒くさい。最も、玄関の鍵を閉めない俺にも問題があるのだが。
「調子はどうだ?健二!」
 ……智明、頼むからもう少し小さい声で喋ってくれ。
「夏バテでも起こしてんのか?」
 その通りだ、見ればわかるだろう。
「元気出せって、ほら、みかん持ってきたからよ、ここに置いとくぜ!」
 ……この時期にみかんはないだろ。後、勝手に置いてくな。食欲すら無いんだ。
「あ……そういえば知ってるか?」
 ……始まった。延々と続く他愛もない事、今度は何を話してくれるんだか……
「この辺に出てくる、幽霊の話だ。」
 あれ?智明がいつになく真剣な表情をしている……?
「その幽霊は、特には何もしないんだが、ある時を境に、狂ったように活動しだすんだ。」
 ……気分だけでも涼しくしようとでもしているのだろうか。智明は更に続ける。
「しかも、その幽霊はこの部屋に居るかもしれないんだ。」
 やめてくれ、智明。聞いてる人を当事者にさせるタイプの怪談は、リアリティに欠ける。
「これは霊感の強い友人に聞いたんだけど、お前の部屋の周りでは霊のエネルギーの出入りが活発らしいんだ。更に、その空気には第六感を刺激する……」
 ああ、やめてくれ……

 ……段々と智明の声がフェードアウトしていく。俺の耳が、これ以上聞くのは生物学的に危険だと警告している。もう沢山だ。校長講話じゃあるまいし、このまま聞いてたら日射病に加えて貧血まで起こしそうだ。ああ、俺の意識が遠のいてゆく……。

「……ふつうはこんな事はありえないけど、そっ……れ……がっ…………」
 遠のいた意識を連れ戻したら、智昭が急に言葉をつまらせていた。
「ここっ……でっ……はっ……ううっ……」
 ……おい、智明?
「ううっ……くぅっ……うぅぅっ…………」
 どうしたんだよ、急に。
「くっ……。……っ…………。」
 言葉は嗚咽に変わって、聞き取れなくなった。
「…………ごめんよ、健二…………。」
 急にどうしたんだ。
「ごめんよ……でも、もう無理だ……。」
 ……ちょっと、智明、落ち着いてくr
「もう無理だ!!!」
 ……智明……?
「認めたくなかったっ!お前が死んだなんて、認められなかったっ!」
 ……何言ってるんだよ。
「お前は4日前の交通事故で死んだっ!急な知らせで、俺も驚いた!お前が死んだって急に言われたって、そんなの認められるわけないじゃないか!!多分お前も、自分が死んだと自覚してなかっただろう!!だからこうやって空っぽの部屋に毎日来ていた!!お前がいるって信じて、こうやって毎日話をしに来ていたんだ!!でももう限界だっ!!健二!!そこにいるか分からないが、お前は死んだ!!もう耐えられない!!!!もう沢山だっ!!!!!!」
 溜まっていたものを全部吐き出すように言い終わると、健二は部屋を走って出ていった。

 ……じゃあ、俺は、あいつは、今まで……

 知ってはいけないことを知ったような気がし、俺がさっきまで感じていた暑さは急激に冷めていった。

 ……ああ、あああ、ああああ。
 
 ふつふつと湧き上がる感情。
 
 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 それは、狂気だった。

 俺は喚き散らしながら、夢中で外に駆け出した。二階の柵を乗り越え、飛び降り、狂ったように走った。人がたくさんごった返す大通りに出て、その真ん中を踊りながら走った。誰も俺の方は向かない。誰かと肩がぶつかることもない。

 俺はこの世にいないんだ!俺はこの世にいないんだ!

 俺は端を歩く通行人の女に向かって、右拳を振り上げた。それは、綺麗な右ストレートの軌道を描き……
 ……そのまますり抜け、俺は倒れた。
 すぐ起き上がり、別の通行人の男に向かって、回し蹴りをした。美しい流線軌道を二回転繰り返し、俺はそのまま尻餅をついた。
 また起き上がり、今度は目についた喫茶店のガラスに突っ込んだ。叫びながら夢中で走った。

 俺はこの世にいないんだ!いないんだぁぁぁぁぁ!!!!!!

 ……振り返ると、既に何軒かの店をすり抜けていた。
 俺は通行人に当たり散らそうとして、何度も失敗し、目についたものすべてを手当たり次第に壊そうとして、全てに失敗した。

 あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁあああぁぁあああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあぁあああ!!!!!!!!!!!!

 俺は人がごった返すスクランブル交差点の真ん中で叫んだ。ずいぶん長い間、叫び続けた。俺の感情は高揚していた。虚しい高揚だった。

 ああああああぁぁぁぁああぁあぁあぁあ!……あぁ……あぁああぁああああぁ……ぁ…………

 虚しい高揚はやがて冷め、ただの虚しさが残った。そして、冷めていた暑さが蘇ってきた。

 ………………………………だるい…………………………………………。

 再び、何もできなくなる。

 俺にできることは、ただ、この暑い日照りの照るスクランブル交差点の真ん中で、することもなく、四肢を投げ出して寝転んで、時間がすぎるのを待っているだけであった。

 暑かった。

 夏場の暑さを和らげる怪談話の幽霊ですら、発狂しそうな程であった。


〈了〉

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