猫の仔
第1話
「行くで! サヤカ」
母は私の細い手首を掴み、住み慣れた木造家屋から飛び出した。
それを半ば茫然と見つめる祖母の姿。
今では、その記憶ももう随分と薄くかすれてしまって、その時の祖母の顔が思い出せないけれど、酷くショックを受けていたのだけは覚えている。
この時、私はまだ5歳。
季節は、春だった。
私には、父がいない。祖母と母と三人暮らし。それは私が母のお腹の中にいたときから変わらずで、私にとってはこの生活が普通のことだった。
ところが、その日常は、ある日突然終わりを告げた。
週末であろうと関係なく働きに出ている母が、その日は珍しく家にいて、祖母と台所に立っていた。
いつもなら、起床した時点で既に母の姿はなく、夜も母の顔を見ずに床につく。母親なのに、滅多に顔を見ることがなかった。私の生活空間の大半は、祖母と犬のロコだけ。でも、それが私の日常だった。
ある日、母は私を連れて、その家を出た。
その日は、擦りガラスから差し込む柔らかい陽の光が、僅か四畳の台所を明るく照らす、よく晴れた休日だった。
ガスコンロの横にある大きな窓の下には、斑模様の雑種犬のロコが体を丸めて、うたた寝していて、時々いびきをかいていた。
ロコは、私が生まれるよりも先にこの家にいて、後から来た私のことをどうやら自分の子どものように思っていたみたいだった。
私は誰の邪魔もしないようにと、隣の和室で絵を描き始めた。耳には、なかなか聞くことのない母の声が響いて心地が良かった。
ところが、その穏やかな時間を打ち破るように、母と祖母が言い争いを始めた。
母は三人姉妹の長女で、しっかり者。一方の祖母は、元華族のお嬢様でやや世間知らずだったけれど、負けん気の強い人。
何がキッカケなのかはわからない。ただ、声が聞こえたときには、既に二人とも臨戦態勢。戦場は、台所から私のいる和室に移っていた。
それでもマイペースに絵を描き続けていた私の手から、母がクレヨンと画用紙を取り上げ、机に叩きつける。
驚いて私が母を見つめたけれど、母は私の存在など気にもせず、祖母への敵意を剥き出しに、睨みつけていた。今すぐにでも噛みつきそうなくらいに。
「二度と帰ってくるもんか!」
「二度と帰って来んでええ!」
母からの捨て台詞に祖母が応戦する。
一体いつの間に用意をしていたのか、母は大きなボストンバッグ一つを抱えると、私の手首を掴み、玄関へ向けて階段を一気に駆け下りた。私は母に引っ張られ、軽く小走りになりながら後を追いかける。
その後ろでは、さっきまで怒り心頭といった様子だった祖母が、ただただ言葉を失い立ち尽くしていた。
後ろ手で私を引きながら、振り返ることもしない母。玄関先で立ち尽くす祖母。その間で私は妙に冷めた感情で、この家にはもう戻ってくることは一生ないことを確信していた。
母は私の細い手首を掴み、住み慣れた木造家屋から飛び出した。
それを半ば茫然と見つめる祖母の姿。
今では、その記憶ももう随分と薄くかすれてしまって、その時の祖母の顔が思い出せないけれど、酷くショックを受けていたのだけは覚えている。
この時、私はまだ5歳。
季節は、春だった。
私には、父がいない。祖母と母と三人暮らし。それは私が母のお腹の中にいたときから変わらずで、私にとってはこの生活が普通のことだった。
ところが、その日常は、ある日突然終わりを告げた。
週末であろうと関係なく働きに出ている母が、その日は珍しく家にいて、祖母と台所に立っていた。
いつもなら、起床した時点で既に母の姿はなく、夜も母の顔を見ずに床につく。母親なのに、滅多に顔を見ることがなかった。私の生活空間の大半は、祖母と犬のロコだけ。でも、それが私の日常だった。
ある日、母は私を連れて、その家を出た。
その日は、擦りガラスから差し込む柔らかい陽の光が、僅か四畳の台所を明るく照らす、よく晴れた休日だった。
ガスコンロの横にある大きな窓の下には、斑模様の雑種犬のロコが体を丸めて、うたた寝していて、時々いびきをかいていた。
ロコは、私が生まれるよりも先にこの家にいて、後から来た私のことをどうやら自分の子どものように思っていたみたいだった。
私は誰の邪魔もしないようにと、隣の和室で絵を描き始めた。耳には、なかなか聞くことのない母の声が響いて心地が良かった。
ところが、その穏やかな時間を打ち破るように、母と祖母が言い争いを始めた。
母は三人姉妹の長女で、しっかり者。一方の祖母は、元華族のお嬢様でやや世間知らずだったけれど、負けん気の強い人。
何がキッカケなのかはわからない。ただ、声が聞こえたときには、既に二人とも臨戦態勢。戦場は、台所から私のいる和室に移っていた。
それでもマイペースに絵を描き続けていた私の手から、母がクレヨンと画用紙を取り上げ、机に叩きつける。
驚いて私が母を見つめたけれど、母は私の存在など気にもせず、祖母への敵意を剥き出しに、睨みつけていた。今すぐにでも噛みつきそうなくらいに。
「二度と帰ってくるもんか!」
「二度と帰って来んでええ!」
母からの捨て台詞に祖母が応戦する。
一体いつの間に用意をしていたのか、母は大きなボストンバッグ一つを抱えると、私の手首を掴み、玄関へ向けて階段を一気に駆け下りた。私は母に引っ張られ、軽く小走りになりながら後を追いかける。
その後ろでは、さっきまで怒り心頭といった様子だった祖母が、ただただ言葉を失い立ち尽くしていた。
後ろ手で私を引きながら、振り返ることもしない母。玄関先で立ち尽くす祖母。その間で私は妙に冷めた感情で、この家にはもう戻ってくることは一生ないことを確信していた。
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