これで素晴らしいなんて、買いかぶりさ

　エノクは仕方がなく練習を中断し建物の中へと入っていく。空は曇天に包まれ文字通り水を差された。
　やれやれと自分の更衣室に向かう。雨が止むのを待とうかとも思ったがもう止めることにした。
　更衣室に行くためにはラウンジを通る必要がある。こうなるならタオルを持ってくればよかったと軽く自己嫌悪だ。それほど自分には余裕がなかったのだろうか。

「あの」

　すると声をかけられた。横を見れば知らない騎士が心配そうに自分を見つめていた。まだ若い。エノクも二十歳と若い方だが、彼は十代後半だろう。

「ひどい雨でしたね、これ使ってください」
「ありがとう」

　エノクは素直に受け取り塗れた髪を拭いていく。

「助かったよ。君は休憩中か？」
「はい」

　初々しい態度で騎士が答える。エノクにその自覚はないが彼は有名人だ。聖騎士においても騎士の理想と評価されるほど。新人騎士ならなおさら緊張する。
　エノクは彼から視線を外すとラウンジの一角を見る。そこに空いている席を見つけると再び彼を見た。

「ならコーヒーをおごろう」
「え！？」

　新人の騎士は驚くがエノクは微笑みで返す。

「いえ、そんな。いただけません」
「これはお返しだ。遠慮することないさ」
「ですが、聖騎士様からおごってもうらなんて」

　慈愛連立とて上下関係は当然ある。それも新人騎士と聖騎士ともなれ恐れ多いというものだ。
　だがエノクとしては自身の立場から隔たりを作ろうという気はなく、むしろ積極的に頼って欲しいくらいに思っていた。可能な限り後輩の役に立ちたい。それもまた慈愛連立の信仰者ゆえだ。

「人助けの尊さ、慈愛連立のすばらしさに身分も貴賤もない。そうだろう？」

　そう言われては新人騎士もうなずくしかない。
　エノクは自販機でコーヒーを二つ用意してテーブルへと向かう。さきに席を確保していた騎士は急いで立ち上がりコーヒーを受け取った。

「ありがとうございます」
「いいさ。それに、君がいなければ風邪を引くところだったんだ。感謝はこちらがしないと」
「そんなそんな」

　エノクの言葉に新人の彼は少々大げさに顔を振っている。それからいただきますと言ってからコーヒーを飲んだ。エノクも一口のどに通す。雨で冷えた体に温かさが広がっていく。

「こんな私にも気を遣っていただけるなんて。聖騎士に選ばれる方々はやはり素晴らしい人なんですね」
「これで素晴らしいなんて、買いかぶりさ」

　コーヒー一杯をおごっただけだ。それもラウンジに備えてある安物の紙コップのコーヒーだ。お礼には及ばない。
　そうエノクは自傷気味に笑って答えた。

「エノクさんは、同じ聖騎士のエリヤさんの弟だとお聞きしましたが」
「ん？　ああ」

　と、そこで聞かれた質問に意識が切り替わる。
　表情には出さなかったが、エリヤと聞いて暗くなった。
　ただでさえ評判の悪かったエリヤだが、神官庁への襲撃によって教会内でも酷評の的だった。これを気に聖騎士の選抜は実力だけでなく面談を設けようという提案も出ている。実力のある騎士イコール清廉潔白というのが神化の仕組み上常識だったため不要とされてきたが、エリヤという想定外イレギュラーが出た以上仕方のない措置だ。
　教会は（今や教会の人間に限らないが）エリヤを嫌っている。だからエリヤと言われ、あまりいい予感はしなかった。
　なのだが。

「実は、私が聖騎士隊に入ったのは、エリヤさんに憧れていたからだなんです」
「え」

　驚いた。てっきり比べられると思っていたから。コーヒーをテーブルに置く。

「兄さんに憧れて？」

　エノクの質問に彼は「はい」と答えた。

「私がまだ学生だったころ、聖騎士隊の入隊試験があったんです。そのころから聖騎士隊に入りたかった私は試験を受けたんですが、実技試験で相手にぼろ負けしてしまいまして」

　彼は自身の過去を話す。とはいえ恥ずかしい内容に苦笑していた。

「もとから実戦は不得手だったんです。周りにいた志願者たちからは小声で笑われ、試験官からも私では無理だとその場で言われてしまったんです。私は悔しくて、情けなくて、聖騎士隊に入ろうとするのはもう止めようと、そう思ったんです」

　彼は苦笑したままそう言った。