天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

決して諦めない男が、諦めた男に言うのだ

 小さな沈黙が生まれた。

「……なぜ、どうして裏切った」

「神の秩序では人間を縛るだけだ。神では人を救えない」

「…………」

 改めて聞かされる彼からの言葉にミカエルは黙り込む。

「分かっているさ、お前の怒りも恨みも。しかし、止まれなかったんだ。停滞すればそれだけで地上の惨劇は広がっていた」

 ルシファーの語る言葉。それは一つの真実だろう。火の手が伸びるようなあの状況ではもたついているだけで犠牲者が生まれていた。誰かが止めなくてはならなかった。

「私はお前を裏切った。怒りは受けよう。それでも、私は自分の信じる正義を通す!」

 決別の言葉。ミカエルを傷つけ裏切りの罪を犯していることは分かっている。その上で自分の道を進む覚悟はできていた。

 止まらない。最後まで。

 ルシファーはミカエルから離れ片手を頭上へと掲げた。天より授かりし十のセフィラー、その中で最強のものを発現する。

「私の勝ちだ! 勝利を引き寄せる第七の力セブンス・セフィラー・ネツアク!」

 因果の加護に祝福されて、ルシファーは勝利を掴み取る。ルシファーも本気だ。相手を踏みつぶしてでも負けられない。もう後には退けない。

 仲間に恨まれ、すべての罪を飲み干すことになっても。

 自分で選んだこの道だけは、最後までやり通す。

「諦めろミカエル。お前の理想は、成就じょうじゅしない!」

 神の秩序による平和の実現。それは理想だが、しょせんは机上の空論。地上を無視した理想論。

 昔は彼もその理想に殉じたが、現実を知って考えを改めた。

 はじめから間違えていたのだ。すべてが無駄だった。それに費やした時間も思いもなにもかも。今ではただの思い出。

 ルシファーは、もう手には入らないこの瞬間に思う。

 過去とは、思い出だ。綺麗なまま今とは切り離された一つの断片。

 理想は、理想でしかない。

「私たちの夢は、幻だったのさ」

 理想に燃えていた過去の自分とは一転し、諦観を含んだ寂れた言葉。誰よりも理想を目指した男の末の姿は、燃え尽きた灰そのものだ。

「……違う」

「なに?」

 だが、ここで変化が起きる。まるで灰の中から炎が蘇るように。

 夢の残骸から、新たな意思が叫ばれる。

「そんなことはない!」

 ミカエルは誰よりもまっすぐな目で叫んだ。決して諦めない男が、諦めた男に言うのだ。

「約束したはずだルシファー! 私とお前で、必ずや理想をかなえてみせると! 神の秩序のもとに地上を平和にし、人々を幸福に導くと。お前がそれを諦めたとしても!」

 それが不可能だとルシファーは知っている。そんなものは幻想でしかないと。

 では、なぜ、こんなにも。

「お前との誓いは、私が果たす!」

 彼の言葉は、自分の胸を打つのだろう。

 彼の姿がルシファーにはまぶしく見えた。彼の放つ輝きに目を逸らしそうになる。

 彼が署名を見せてくれた時と同じだ。自分にはないものをミカエルは持っている。それに向かって突き進んでいる。

 夢を諦め別の道を選んだ自分には、進むごとに汚れていったというのに。

 彼は、こんなにも美しい。汚れも罪もない、真っ白な理想。

 それに比べ、汚れた正義の自分では、彼はあまりにも眩しすぎた。

(ミカエル……)

 このとき、心のどこかで納得していたのかもしれない。両者の格付けを。二体を見比べ、どちらが上なのか。

 ミカエルの輝きは、ルシファーですら魅了するほどに美しかったから。

 まっすぐと夢を追うこと。困難にもめげず理想へ進むこと。

 それだけで。

 なんて、美しいことなのだろう。

 理想を求める者は、強い。

「お前に、平和が作れるのか?」

「出来る!」

 ルシファーの質問にミカエルは即答する。その目は力強く、自分の理想を疑うこともしない。必ず叶うと信じている。どんなに困難でも、幻想だと揶揄されようと。

「私が、そう信じているからだ!」

 ミカエルは、諦めていなかった。

「お前が諦めたと言うのなら、私が証明してみせる!」

 今も信じる炎がある。情熱が燃えている。

 なぜなら。

「私の、お前の!」

 なぜなら!

「一緒に夢見た理想が、間違っているはずがないんだ!」

「――――」

 彼の言葉に、ルシファーは言葉を失った。

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