天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

あの時、正直に言うと、嬉しかったんだ

 イヤスが今後の方針を決定した。それはすぐに天界、全天羽へと伝わり準備に取りかかった。

 戸惑いを露わにする者もいたがそれも時間の問題だ。天羽とは天主イヤスが作り出した神造体。イヤスの使命を果たすのが彼らの存在意義。

 人類への強制的な干渉。天羽を殺害された怒りと悲しみ、そして我らが父の意思を以て天羽たちは地上へ降り立とうとしていた。

 会議室でイヤスの声を聞いてから、四大天羽の会議を終えルシフェルとミカエルはかつてともに笑った丘に来ていた。

 緑の草が微風に揺れる。青空は澄み渡り眼下には島々が悠然と浮いている。穏やかで心地のいい場所だ。

 しかし、二人の雰囲気は暗澹(あんたん)としていた。思い出の場所ではあるが二人に以前の面影はない。あの時はときめくほどの達成感に包まれ笑い合っていたというのに。今は陰が差し俯いていた。

「…………」

「…………」

 沈黙が続く。重苦しい空気にこの場が淀んでいく。

 しかし、なにを語れというのか。すでにやることは決定された。天主が判断した以上議論するだけ無駄だ。

 ここでいくら思いを吐露したところで意味がない。それが分かっているから二人は喋らない。四大天羽の会議では天主イヤスから方針の伝達があったことだけが伝えられ各々行動を開始した。

 驚きこそあったものの天主の命とあれば彼らの動きは早かった。すぐにでも地上侵攻の準備を整えるだろう。

 こうして時間を潰しているのは、ルシフェルとミカエルだけだ。

 無為に時間だけが流れていく。思いの整理がつかぬまま。心の水面が落ち着くのを時間に任せ、二人は並んで立っていた。

「これから、どうなるんでしょうか……?」

 無言の間が続く。それを破ったのはミカエルだった。顔をそっと彼に向け聞いてみる。

「さあな」

 ルシフェルは俯いたまま弱気な声で呟いた。寂れた彼の横顔は最近よく見かける。

「イヤス様はおっしゃった。愛する人類を守るため、管理すると。反対が予想されるが関係ない。私たちは、ただ聖なる父の意思を遵守するのみ」

「そうですね……」

 ルシフェルの尤もな、それでいて形式的な返答にミカエルは目線を下げる。ミカエルの表情にも陰が差した。

 どうすることもできない定めは迷いを消してはくれたが、この鬱屈とした思いまでは消してはくれない。

「けれど」

 隣から聞こえた声にミカエルは振り返る。ルシフェルは正面を見つめていた。寂しそうな、横顔のまま。

「人類のためとは分かっている。分かっているがしかし」

 その顔が、一段と暗くなる。俯き目を伏せた眉間には、しわが寄っていた。

「それで悲しむ人間を思うと、胸が痛むな」

「…………」

 反対する者、弾圧される者。自由を剥奪され嘆く者。人類の救済を掲げてもすべてを救うことはできない。ルシフェルは優しい男だ。

 反対者とはいえ、彼らをも救いたいと願ってしまう。自分の夢を阻む者であってもどうか笑顔であって欲しいと思ってしまうのだ。

 その優しさをミカエルも知っている。ルシフェルは誰よりも立派な天羽だ。

 けれど、こうも思ってしまう。彼は優しすぎる。今回の件で言えば元々の責任は人間側だ。本来ルシフェルがここまで苦心することではない。

 その心痛を、少しでも取り除きたかった。

「そうですね。ですが、もとはと言えば天羽を殺害したこと、そしてそれをよしとした者がいた人類側の責任です。イヤス様もそれに多大な悲しみを負っていたご様子」

 憧れであり友。彼のまばゆい存在感に惹かれていた。ミカエルも今回の決定に心配な面はあるが、それよりもこれ以上に彼の暗い顔は見たくなかった。

 彼の沈んだ顔など、誰も、誰も。

 彼だって。

「大丈夫ですルシフェル。夢は実現できます。やり方が変わっただけで、いつの日か笑顔で満ちる時はくる。その時になればあなたもきっと納得する。今は耐える時だったのだと。痛みは一時です。それを乗り越えて、叶えるんです、理想を!」

 励ます。ともに叶えたい理想を持ち上げ消えかかった情熱に風を送り込む。もしくは自分の熱を伝えるように、ミカエルは明るく、力強く言った。

「…………そうだな」

 けれど、ルシフェルの返事は依然として暗いものだった。いくらミカエルが励まそうとそう簡単に割り切れる問題ではない。人の命が、人生がかかっている。

 ルシフェルの心に覆い被さる蓋は重く厚い。崩すのは容易なことではなかった。

「ミカエル」

「は、はい!」

 そこで名前を呼ばれミカエルは大声で返事をする。何事だろうかと気を引き締めた。

「あの時、正直に言うと、嬉しかったんだ」

「?」

 気をつけていた表情が疑問に緩んだ。あの時、というのがパッと分からなかった。言葉だけではない。ルシフェルの表情はじゃっかん嬉しそうにほころび、声は温かかった。

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