天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

私がしてきたことのすべては……

 それでも、ウリエルは顔を縦には振れなかった。表情は陰を落とし、彼女は彼の申し出を断った。

「なぜ、どうしてですかウリエル様。なぜあなたが!?」

 明らかな拒絶を前にしてラグエルは叫んでいる。理解が出来ない。

 このままでは間違いなく堕天羽だ、それは分かっているはず。なのになぜ断る? なぜこだわる?

 人間に。

「誰もがあなたに憧れていた。尊敬していた! その迷いのない目と、神の愛に応えんとする情熱に、すべての天羽が敬服していたというのに――」

「ラグエル」

 ラグエルの熱弁をウリエルは冷めた声で遮った。無表情に近い顔で。

「私がしてきたことのすべては……」

 ラグエルの言っていた客観的な評価。ウリエルを称える数々の言葉。

 しかし本人からしてみれば虚しいだけだ。そんなもの飾りでしかない。本当のことを自分は知っている。

「人を殺したことと、同族を殺したことだけだ」

「ウリエル様……」

 それだけのこと。言ってしまえばそれだけのことだった。

 これのどこがすごい? どこが素晴らしい? こんな醜悪でしかないものを今まで正義だと思い込んでいた。

 けれど気づいた。すべては虚構の正義だったことを。

「私はね、ラグエル。気づいてしまったんだ。私が行なってきた行為によって生まれた、人間の苦しみ、痛み、悲しみ。それらすべてがひどいことだと。今では、ルシフェルの言っていたことが良く分かる」

「反逆者の言葉です! 耳を貸すことはありません!」

 ウリエルの言葉に、即座にラグエルが噛み付いた。

「いや。私はもっと早くに耳を傾けるべきだったんだ。彼の言葉が今では重い。人間の意思とは自由であるからこそ尊い。それを誰かが奪うべきではなかったんだ」

 そう言うウリエルの顔は儚く、下を向いている目は遠い昔を見ているようだった。

 その時、ウリエルの瞳から涙が零れた。

「ウリエル様……?」

 静かな落涙。涙はゆっくりと頬を伝っていく。

 思い出す。思い返す。湖の底から泥が舞い上がるように、記憶が浮上する。

 蘇るいくつもの記憶。自分の過去。それら過ちの歴史にウリエルは今も涙が零れている。

「救えると信じていた。私の行いで、いつか、誰しもが幸福になれると。地上は愛で満たされ、平和がみなを笑顔に変えると。私はそう信じて今までを生きてきた!」

 悲しみの諦観、悔恨の怒り。ウリエルの心は揺れている。悲しみと怒りが行ったり来たり。

「だけど……、それは間違っていた。私は、目の前を見ていなかった。まさに今、そこにある悲劇から目を背け、信仰の輝きに目が眩んでいただけだったんだ」

 思い出すだけで押し潰されそうだ。瞼を閉じれば裏側には過日の光景が見える。燃える街、悲鳴を上げる人々。

 それを容赦なく行う自分。

「私の炎で、多くの人が亡くなった……。苦しみ、痛みながら。彼らは泣いていたんだ」

 悲しい。それだけしかない。

「なぜ気づけなかった? 私は、本当は、その苦しんでいる彼らをこそ救いたかったのではなかったのか!? 苦しんでいる者を救いたい、笑顔に変えたいと、そう思っていたはずなのに!」

 怒り。それしかない。

「私は、誰も笑顔に出来ていなかった。私の行いは、私の努力は、私の信仰は! ぜんぶ、無価値なものだったッ」

 ウリエルは泣いた。叫び、涙を飛ばした。こぼれた涙が宙を飛ぶ。

 ウリエルは叫んだ姿勢を正した。顔は依然と下を向き、前髪に隠れて表情は見えない。まるで幽鬼のような佇まいでウリエルは言った。

「ラグエル、私はもう戦えない」

 告げたのだ、もう戦えないと。

 戦うための動機を失った。今となっては抜け殻だ。理想も正義も失くしてしまった。

 だがそれは彼女だけじゃない。これは誰しもが陥るかもしれない、理想の代償なのだ。

『兄さん、私はもう戦えない』

 それはとある信仰者の言葉。これから二千年後の未来でも起こる葛藤だった。誰であれ苛まれる理想と現実。それほどまでにこの矛盾は深いのだ。

 救うために殺す。

 この矛盾を背負って生きていくにはあまりに重い。理想に燃え、未来に想いを馳せて、己を厳しく律しようとも。困難には気持ちを鼓舞し、理想のためにとすべてを捧げても。

 いつしか気づく。

 現実と理想の乖離。

 救いたかった。守りたかった。平和を作り愛を育てたかった。

 そのために殺すこと。壊すこと。争いを起こし命を刈り取ること。

 悲劇どころじゃない。ひどい喜劇だ、醜悪すぎて笑いが出てくる。

 同時に、涙が零れる。

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