天下界の無信仰者(イレギュラー)

奏せいや

あなたは、あなたであればいい

 母さんは微笑んでいた表情を引き締めると前へと歩いた。片手で俺を制してくる。

神愛かみあ、離れていて」

 その言葉には意思が籠っていた。まさか、ペトロと戦うつもりか?

「待てよ母さん! そいつは!」

 まずい。ペトロは強敵だ、そんなやつと戦って母さんが勝てるわけがない。

 俺が呼び留めると母さんは立ち止まってくれた。戦うのを止める気になってくれたのかと思ったが、母さんは振り返った。

 その顔は、嬉しそうだった。

「私のこと、母さんって呼んでくれるのね」

 そして母さんは正面を向いてしまった。俺の目の前には母さんの背中が見える。息子を守ろうとして前に立つ、強い後ろ姿が。

 もう、なにも言えなかった。その姿が強烈でなにを言っても変えられないと分かったから。

 なにより、嬉しかったから。

 母さんはペトロと距離を取りながらも対峙する。張り詰めた空気が漂い俺たちや一帯の騎士にも緊張が走る。

 だが、そこで母さんが話し始めた。

「人よ、たとえ酷いことをされても許しなさい」

 それは落ち着いた口調だった。

 母さんの言葉を聞いてこれがいったいなんなのか、一瞬で理解する。

 神託物しんたくぶつの詠唱だ。でも、それだけじゃない。これは、俺のために言っている気がするのだ。

「優しさを疑われ、成功すれば敵が生まれ、正直であれば騙され、幸福であれば妬まれ、善いことをしても忘れられても」

 母さんの言葉に俺は聞き入った。母として息子に贈る言葉を、俺は聞かなければならないと感じていたから。

「人よ、誠実に生きなさい。我々は成功するために生まれてきたのではない。誠実であるために生まれてきたのだ」

 母さんの神託物しんたくぶつの詠唱でありエールを。

「あなたは、あなたであればいい」

 その言葉を聞いた時、俺は再び泣いてしまった。一粒の涙が頬を流れ落ちていく。

神託物しんたくぶつ、招来」

 詠唱を言い終え母さんは腕を伸ばした。母さんの足元は発光し空気は乱れる。

 現れる。息子を守るための決意と慈愛連立じあいれんりつの信仰が結び付き、愛の結晶、母さんの神託物しんたくぶつが。

愛を以て手を伸ばす者スピリット・オブ・マザーテレサ!」

 直後、母さんの背後に一体の天羽てんはが現れた。

 それはこれまでの天羽てんはとは違い修道女の姿をしていた。背中から生えた翼は体を覆うように閉じている。

 今まで見てきた慈愛連立じあいれんりつ神託物しんたくぶつとは違い、これは天羽てんはでもどこか人間に近かった。

「聖騎士指定を二度も受けておきなが辞退したお前が、よもや敵として立ち塞がるとはな」

 ペトロはそう呟くと母さんの背後で浮いている神託物しんたくぶつを見上げた。

「『愛を以て手を伸ばす者(スピリット・オブ・マザーテレサ)。肉体、精神の苦痛を癒し飢餓すら満たす。それは精神的欲求すら満たし、結果的に戦意喪失に追い込む神託物しんたくぶつ

 視線を戻すと再度母さんを見つめる。

「聞いていないぞ。いつから神託物しんたくぶつが出せるほど回復していた」

「ついさっきよ」

 その問いに母さんは小さく笑った。

「これなら、たとえ超越者オラクルのあなたでも足止めくらいはできるわ」

「なるほど、どうりで動かん、いや、動く気になれんわけだ」

 ペトロは右手を開いたり握ったりしているが一向に攻め込む気配はない。さきほどあった戦意はすでになく、落ち着いた様子だった。

 それはここにいる騎士全員がそうで士気がみるみると低下していく。

神愛かみあ、教皇宮殿の二九階を目指しなさい。あなたの友人はきっとそこにいるはずよ」

「アグネス!」

 母さんの言葉にペトロが叫ぶ。

「行きなさい神愛かみあ!」

 母さんは振り返り大声で俺に言ってきた。

「今は抑えられても相手は聖騎士第一位、すぐに振り解いてくるわ」

「母さん」

「走って!」

 再度叫ぶ。時間がない。迷ってる余裕すらないんだ。

 俺は走った。俺の行動を見てミルフィアたちも走る。

 俺は母さんの横を通るが、そこで足を止めた。

「ありがと、母さん」

 それだけは伝えておきたかったら。俺は再び走り出した。

「頑張るのよ……」

 母さんの呟きが背後から届く。

 ああ、俺は諦めない。心の中で頷いた。

 門の入口にいるペトロや騎士たちを素通りし、俺たちは包囲網を突破した。

 目指すは教皇宮殿。今度はやつらの本拠地だ。

「待ってろよ、恵瑠えるッ」

 そこに捕らわれた恵瑠えるがいる。教えてくれた母さんに感謝しつつ、俺は急いで恵瑠えるのもとへと走っていった。

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